vendredi, septembre 21, 2007

「概念枠という考え方そのものについて」について

本発表の目的
 本発表の目的は,アメリカの哲学者デイヴィドソン(Donald Davidson. 1917-2003)の論文「概念枠という考え方そのものについて 」(以下CSと略記)の議論を紹介することである.あわせてCSの議論に対するひとつの批判を取り上げ,それに関する自分の意見も付け加える.

なぜこの論文を扱うか
 私には,人間言語は翻訳可能であり,翻訳できないほど異なる言語は存在しないのではないか,という直観がある.CSはこのまさにこの問題を哲学的に論じている重要な論文である.
 より具体的には,CSにおいてデイヴィドソンは概念相対主義(言語相対主義)をある根本的な視点から批判的に検討している.概念相対主義は「言語によって世界の切り取り方が異なる」という興味深い主張だが,この立場をつきつめると翻訳不可能な言語の存在が導かれる.彼は概念相対主義の背後にある「枠組みと内容の二元論」がドグマであることを指摘し,最終的に概念枠というものには意味を与えることができないと結論した.
 
概念相対主義とはなにか
 デイヴィドソンの議論を見ていくにあたって,まず概念枠とはなにか,次に「概念枠と内容の二元論」とはなにかを説明し,さらにこの二元論を採用すると概念相対主義というものが導かれることを示そう.

概念枠とは
 デイヴィドソンはCSの最初で次のように述べている.

 概念枠とは経験を組織化する方法であり,感覚のデータに形式を与えるカテゴリー体系であり,個人や文化や時代が眼前の光景を探求するための視点である.(p. 192)

 つまり概念枠とは,我々があるものをある概念のもとで捉えるための装置である.例えば我々は概念枠によって,目の前のあるXを「雪」や「みぞれ」や「雹」と把握する.そういう装置として概念枠を理解すればよい.その上で彼はこの概念枠を言語と同一視してよいだろうと主張する.異なる言語でもそれらが相互に翻訳可能であれば,同じ概念枠に属していると考えられる.つまり概念枠は相互に翻訳可能な言語の集まりのことだと言える.

「概念枠と内容の二元論」とは
 片方に経験を組織化するものとしての概念枠(言語)があり,もう片方に組織化されていない世界がある,と考える二元論のことである.この二元論は我々にとって,(特に言語学を学んでいた自分にとって)サピア・ウォーフ的言語観として既になじみ深いものになっていると思われる .

 われわれは,生まれつき身につけた言語の規定する線に沿って自然を分割する.われわれに現実世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは,それらが,観察者にすぐ面して存在しているからというのではない.そうではなくて,この世界というものは,様々な印象の変転きわまりない流れとして提示されており,それを我々の心—つまり,我々の心の中にある言語体系というのと大体同じもの—が体系づけなくてはならないということなのである.われわれは自然を分割し,概念の形にまとめ上げ,現に見られるような意味を与えていく.そういうことができるのは,それをかくかくの仕方で体系化しようという合意にわれわれも関与しているからというのが主な理由であり,その合意はわれわれの言語社会全体で行なわれ,われわれの言語のパターンとしてコード化されているのである.

 言語が様々な印象の流れにすぎない自然を分割し体系化すると考えるこの言語観において,言語の第一次的な機能は,表現技術つまりコミュニケーションの道具ではなく,組織化されていない・個体化されていない世界を組織化することなのである.こうした主張はしばしば「言語が世界を切り取る」という形で表現される.
 
「概念枠と内容の二元論」からどのように概念相対主義がみちびかれるか
 「言語は世界を組織化・個体化するもの」という上の主張を受け入れたうえで,我々のものとは異なる概念枠をもつ人がいたと仮定しよう.その人は我々と異なる概念枠をもつのだから,我々とは異なる仕方で世界を組織化・個体化していることになる.こうして,概念枠と相対的に世界が異なる現れ方をすると考える立場が導かれる.概念相対主義は,我々のものとは異なる概念枠が複数存在し,その概念枠と相対的に世界が異なる現れ方をすると主張する立場のことである.
 この立場の主張を簡潔に示す有名な議論に,色彩と時間概念に関するものがある.例えば我々は虹を赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色で「切り分ける」.それに対しナヴァホ語は青と緑を一つの単語でまとめてしまう.物理的には切れ目のないスペクトルを言語が切り分けている,だから日本語とナヴァホ語の使用者ではその目の前に現れる世界は異なる,というわけである.時間概念の議論 は,アメリカインディアンのホピ族の語彙には時間に関する語彙がないから,この民族は我々のような仕方で時間を捉えていないのだという議論である.

概念相対主義のどこを批判したのか
 概念相対主義は基本的な前提として「我々のものとは異なる概念枠が存在する」と考える.概念枠は翻訳可能な言語の集合であるから,上の文は「我々の言語に翻訳不可能な言語が存在する」という主張でもある.デイヴィドソンはこの主張が受け入れられないことを示すという形で概念相対主義批判を行った.

なぜ上の主張は受け入れられないのか:Aの場合
 CSは翻訳不可能性を二通りに分けて論じている.翻訳不可能という場合,我々の言語からみてA「全面的に翻訳不可能」B「部分的に翻訳不可能」という二つのタイプの言語が想定できる.Aの場合からみていくことにしよう.
 まずデイヴィドソンは,概念相対主義の言語観つまり概念枠と内容の二元論がしばしば持ち出す言語の基準を二つに分類する.それは「組織化」と「適合」である.この基準は①「言語は経験を組織化する」だとか,②「言語は経験と適合する」という形で表現される.①が意味するのは,言語は個体化されていない世界を原初的に個体化する,ということである.②が意味するのは,言語が世界のあり方に適合するということであるから,言語は真である,ということだ.
 こうした言語の基準は,我々の言語に翻訳不可能な言語の存在を保証してくれるだろうか.それはない,というのがデイヴィドソンの答えである.
 
概念枠は経験を組織化するという考えはなぜおかしいか
 デイヴィドソンは次のように述べている.

 単一の対象(世界,自然,等々)の組織化という概念に明瞭な意味を与えるためには,その対象が他の対象をふくんでいるか,他の対象から構成されていると理解される必要がある.戸棚を整理しようとする人は,その中のいろいろなものを整理するのである.もしも,靴やシャツではなく,戸棚そのものを整理せよと言われたなら,当惑してしまうだろう.(p.204)

 「戸棚を整理しようとする人は,その中のいろいろなものを整理する」というメタファーが意味するのは,組織化というのは(すでに個体化した)複数の対象を整理・分類することであって,分節化していない世界を原初的に分節化することではない,ということである.彼の主張によれば,組織化はすでに個体化した対象を前提としているのだから,どんな概念枠に属している人も同じような仕方で世界の個体化を行っていることを意味する.個体化の仕方を共有する概念枠どうしは必ず翻訳可能である.すなわち「経験の組織化」を言語の基準に使用とした場合,それを翻訳可能性から離れて理解することはできない,というわけである.

概念枠は経験に適合する(真である)という考えはなぜおかしいか
 「真である」というこの基準と概念相対主義の主張を合わせると,真でありながら我々の言語に翻訳不可能な言語が存在するということになる.これについてデイヴィドソンは次のように述べている.

 したがって,我々自身のものと異なる概念枠の規準は,概して真だが翻訳可能ではないもの,ということになる.これが有効な規準であるかどうかという問いは,言語に適用された真理概念を,翻訳可能性概念から独立に我々がどれだけ理解しているか,という問いに他ならない.私の考えでは,回答はこうなる.翻訳可能性概念から独立には,真理概念は全く理解できない.(p.207)

 なぜ真理概念は翻訳可能性概念とは独立に理解することはできないのだろうか?デイヴィドソンの考える理由はこうである.我々の真理という概念の用いられ方に関する直観を最もうまく具体化しているのは,タルスキの真理論である.つまり,ある言語のある文が真であることを理解するためには,その文の真理条件を知ること,つまりタルスキの定義したT文を理解することが必要である.そのためにはその文が我々の言語のどの文に翻訳されるか知らなければならない.したがってこの基準も翻訳可能性からは独立ではない,というものである.しかしなぜ,タルスキのT文の理解には,翻訳が不可欠なのだろうか.
 
タルスキのT文とは
 タルスキは,実質的に適切な真理の定義が満たすべき条件として,ある形式言語Lの真理定義から「Xが真であるのはpであるときまたそのときに限る」という形の文(T文)の全てが定理として帰結することを挙げた .重要なのは,Xにはその言語Lの任意の文,pにはそのメタ言語における翻訳が入るということである.
 例えば,

 「「○△?□!※▼☆」が真であるのは,雪が白いとき,そのときに限る」
 
 という具合である.
 「○△?□!※▼☆」に英語を代入して考えれば分かりやすいが,たとえ「○△?□!※▼☆」が,我々の耳には全くなじみのない異様な音列だったとしても状況は変わらない.上のような形でその真理条件を理解できているということは,「○△?□!※▼☆」が「雪は白い」に翻訳できることを知っていることになるのだ.デイヴィドソンは次のように述べている.
 
それ(タルスキの真理論)を成功させているのは,既知の言語への翻訳という概念の本質的な使用なのである.規約Tは真理概念の用いられ方に関する我々の最前の直観を具体化している.(p. 208)

 こうして「真である」ということを言語の基準と考えた場合,それを翻訳可能性と切り離して考えることは不可能という結論が導かれる.デイヴィドソンはここで,「我々の言語に全面的に翻訳不可能な言語が存在する」という主張には根拠がないことを示したことになる.

なぜ上の主張は受け入れられないのか:Bの場合
 これについて,デイヴィドソンはこう述べている.

 我々が翻訳の失敗を確認できるのは,それが十分に局所的なときである.というのは,一般的な翻訳の成功という背景のもとで,失敗を理解可能にするのに必要なものが準備されるからである.(p.204)
 
 ごく簡単に言って,翻訳が部分的に不可能ということは,裏を返せば他の部分は翻訳可能ということである.つまり,部分的に翻訳不可能な言語が存在したとしても,それは概念相対主義の主張を裏付けるものにはならないのである.

CSに対するひとつの批判
 以上のようにA・Bどちらの場合も翻訳不可能性がありえないことを示し,概念相対主義(「概念枠と内容の二元論」)の言うような複数の概念枠は存在せず,概念枠というものは無意味な想定,つまりドグマだと結論するのがCSの議論の大筋であるが,この議論に対するひとつの批判を考えたい.

あまりにも異なる個体化があるかもしれないではないか,という批判
 確認したように,デイヴィドソンは,組織化という言語の基準が受け入れられない理由として,組織化とはすでに個体化した対象を整理することであり,世界の原初的な個体化はどんな概念枠に属する人でも同じような仕方で行っている,ということを挙げていた.しかし何の根拠があって,同じような仕方で個体化を行っていると主張できるのだろうか.我々とはまったく別の個体化基準に従っている概念枠があるかもしれないではないか.

回答:認識できない概念枠を存在すると主張する根拠がない
 まずデイヴィドソンの次のような発言を見ておこう.

 我々は言語を精神から分離可能とは考えないことにする.言語を話すことは,それを失ってもなお思考能力を保てるような特性ではない.それゆえ,一時的に自分自身の枠組みを放棄することで,誰かが概念枠の比較のための有利な地点に立てるという見込みはないのである.(p. 195)

 つまり,言語が思考の道具であると考えるなら,その言語を全く放棄して,第三者的視点から,いわば神の視点からある二つの言語がもつ原初的な個体化の仕方を比較することはできないということである.
 そうだとするならば,我々はつねに我々の言語で,我々の視点から他の概念枠の可能性について考えることしかできない以上,我々は別の個体化基準に従う概念枠を認識できないことになるのではないだろうか.我々とは全く別の個体化を行っているとしたら,我々の個体化基準によってその概念枠を捉えるのは不可能であると思われる.捉えることはできないがそれは必ず存在するという主張は,幽霊は必ず存在するという主張のように,たいした根拠をもたないのではないだろうか.

さらなる批判:認識できなくてもとにかく別の個体化は存在しうるのではないか
 これに対して,捉えることができないからといってその存在までも疑う必要はない,という再批判が存在する.ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか」においてこう述べている .

 …われわれの言語によっては,火星人やコウモリの現象学を詳細に記述することは望むべくもない,という事実があるからといって,コウモリや火星人が細部の豊かさにおいてわれわれのそれに十分比肩しうるほどの体験をもっているという主張が,無意味な主張として退けられてしまうことにはならない.…われわれには記述や理解が全くできないことについては,その実在性も論理的有意味性も認めないというのは,心理的な葛藤に解決策としては最も幼稚な形態であると言えよう.(pp. 266-267)

 つまり彼は,コウモリ・火星人の知覚意識に現れる世界がどのようなものか知りえないとしても,そのようなものが存在することは疑いえないだろうと考えている.コウモリ・火星人の運動の仕方や神経システムを知れば,それらが我々とは異なるある一定の個体化を持つ可能性を考えることができるというわけである.
 もしそうであるならば,ある人が我々には分からない身ぶりや音声で活動をしているのに直面したとき,その人がどんな個体化を行っているかは知りえないとしても,とにかく何らかの個体化をしているということだけは想定できることになり,翻訳不可能な概念枠がありうることになるのではないだろうか.

再回答1:信原幸弘(2004)
 こうした批判に対して信原は,我々はその人たちの行動を狩り・食事・歩行などとして理解しうるのだから,我々はその人たちの個体化をある程度は理解していることになるだろう,と述べている .
 しかしこれが批判に対する答えになっているのか,今の私には分かりかねる.確かに,われわれと似たような振る舞いをする人の個体化をある程度理解することは可能であろう.しかし,もし何をしているのか全く分からない人が目の前に現れたらどうするのか.我々は彼の個体化の内容を理解できないのではないだろうか.

再回答2:経験的事実の蓄積
 この発表の最後に,ネーゲル的な批判に対する回答になりうるものとして,人間の認知作用に関する経験的な研究の成果を取り上げることにする.認知言語学は,人間の認知が言語に深い影響を与えているという視点から研究を行う言語学の立場であるが,この立場からの研究に,上の批判に対する回答になりうるものがあるように思われる.それは,人間の行う認知作用は,人間である以上ある程度共通なのではないかという指摘である.
 例えば,目には三種類の錐体細胞があり,それぞれ赤緑,青黄,白黒の対比に反応するようにニューロンに結ばれており,色カテゴリーは,光の波長を人間の錐体細胞がどう捉え,それが脳内でどう処理されるかに従って生まれるのだということが明らかにされている .
 また,白と黒しか色名をもたないニューギニアのダニ族に新しい色名を教えたところ,焦点色(真っ赤な赤,真っ青な青など,いわゆる原色と呼ばれる色)を非焦点色よりも早く学習できたという報告がある.どちらの色にもダニ語で名前が着いていないにもかかわらず,である .
 このことは,色彩に関して大まかな区別しかしない言語でも,より細かい区別をするようになれば,どのような形で区分を入れていくかということが(人間の認知作用のせいで)既に前もって決められているということを意味しているように思われる .
  認知科学者のピンカーは,クワインの「ガヴァガイ」のように対象物と動作を一緒に固体化するような言語を仮定したうえで,進化論的に見た場合,物の種類と動作を分けて固体化するほうが効率的であると主張し,また赤ん坊を対象とした様々な実験を紹介することで,その可能性に疑問を投げかけている .
 こうした研究による経験的な事実の蓄積は,人間の認知の営みが行う原初的な個体化が,同じ人間である以上かなりの程度共通した形で特徴づけられているということを示唆していると思われる.もしそうだとすれば,あまりにも異なる個体化の存在は,想定できないだけではなく,存在しえないのではないだろうか.



参考文献
ここかえようかな,全部原書にさ
Davidson, D. (1985), “On the Very Idea of a Conceptional Scheme”, in Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford University Press, pp. 183-198(「概念枠という考え方そのものについて」,野本和幸・植木哲也他訳,『真理と解釈』,勁草書房,1991,所収).
Heider, Eleanor, R. (1972), “Universals in Color Naming and Memory”, in Journal of Experimental Psychology 93, pp. 10-20. 
タルスキ, A. (1944)「真理の意味論的観点と意味論の基礎」,坂本百大編『現代哲学基本論文集Ⅱ』,勁草書房,1987年,pp.52-120.
ウォーフ, B. L. (1956)「科学と言語学」,池上嘉彦訳『言語・思考・現実』講談社,1993年,所収( “Sience and Linguistics” in J. B. Caroll(ed.), Language, Thought and Reality, Cambridge, Mass., 1956).
ピンカー, S. (1995)『言語を生み出す本能(上)』日本放送協会出版.
ネーゲル, Th. (1979)「コウモリであるとはどのようなことか」永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房,1989年,所収(“What is it to be Like a Bat”, in Mortal Questions, 1979, Cambridge University Press. )
辻幸夫編(2003)『認知言語学への招待』大修館書店.
信原幸弘(2004)「デイヴィドソンの概念枠批判について」『筑波哲学』13号,pp. 22-32.
山梨正明・有馬道子編著(2003)『現代言語学の潮流』勁草書房.
井上京子(1998)『もし「右」や「左」がなかったら—言語人類学への招待』大修館書店.

mercredi, juillet 11, 2007

したのやつできづいたところ

気づいたこと
①「二つのドグマ」前半議論への批判をkatzもおこなっていること
②レポートで「服部流」として紹介した翻訳の不確定性の議論は,別に「服部流」ではなく,クワイン自身のものであるかもしれないということ

①について
あのレポートでクワインの「二つのドグマ」の前半議論への批判として挙げたのは,パトナムやC.ライトを紹介している『言語哲学大全Ⅱ』だけでしたが,katzもThe Metaphysics of Meaningにおいて批判を行っていることを知りました.(以下は鬼界先生による書評を参考にしています)

katzの批判は「二つのドグマ」第3節の代入可能性の部分に向けられています.クワインはこの節で同義性概念が言語学によって定義される可能性を否定しています.この議論は言語学において概念が代入法によって定義されることを前提としています.しかしこうした前提は1950年代までの言語学(構造主義言語学)に当てはまるにすぎず,チョムスキー革命以後の言語学においては理論全体によって概念を定義する理論的定義が実践されています.それゆえクワインの議論はある言語学派の方法に相対的なものであり,分析性概念そのものに対する批判としては妥当しない,というものです.

②について
katzがこうした批判を行うのは,クワインの翻訳の不確定性テーゼを否定する意図があるからです.翻訳の不確定性テーゼは「言語中立的意味は存在しない」という前提に基づいていると考えられますが,katzはその前提に根拠がないことを示そうとします.そしてkatzはこの前提が「二つのドグマ」前半議論から導かれてきたと考えているので,その「二つのドグマ」の議論を批判しようとしているわけです.
つまり僕が気づいたことは,katzは僕が「服部流」として紹介した議論を,クワイン自身の議論として捉えているということです.僕はレポートで服部裕幸さんが『言語哲学入門』で紹介している翻訳の不確定性テーゼはクワイン自身のものではないと強調していますが,そうとは言い切れないということです.簡単なことに気づかず,すこし情けない気がします.

ちなみに,『言葉と対象』をみる限りでは,クワイン自身が「言語中立的意味は存在しない」という主張の根拠を「二つのドグマ」の議論にもとめているような箇所はみあたらないように思います.
いずれにせよ,翻訳の不確定性テーゼの前提には上記のような意味への懐疑が存在していることはたしかだと思います.

mardi, juin 26, 2007

言語によるコミュニケーション不可能性はありうるか

問いの説明・動機
 サピア・ウォーフ的言語観というものがある.一言で言えば「我々の認識は言語に依存している」という主張である.高校生の時こうした考え方に初めて触れ感銘を受けたが,その一方で,もしこの主張が正しければ異なる言語ごとに異なる認識論が存在することになり,異言語間でのコミュニケーションが不可能になるはずだと直感した.ここでの目的はこの直感を守り言語コミュニケ—ションの不可能性を否定することである.

どのような答えがあり得るか
 ここでは,言語によるコミュニケーション可能性は翻訳可能性と密接に関わっていると考える.したがって考えられる解答は以下のような形をとることになる.

 ① 我々の言語に全面的に翻訳不可能な言語が存在し,言語コミュニケーションが全面的に不可能な場合がある.
 ② どんな言語でも翻訳は全面的に可能であり,コミュニケーション不可能性は全面的に存在しない.
 ③ 部分的には翻訳不可能性が存在し,コミュニケーションも部分的には不可能である(翻訳可能性・コミュニケーション可能性は守られる).

目的はとりわけ①を否定することである.その結果得られる答えは③となるはずである.

正しい答えを見いだすには何が必要か
・D.デイヴィドソン「概念枠という考え方そのものについて」 における概念相対主義批判議論の詳細を理解する.この論文を扱う理由は,これが言語相対主義をある根本的な視点から批判的に検討した重要な論文であると考えるからである.
・直感的に,翻訳が不確定ならば異言語間のコミュニケーションは不可能となるように思われる.この疑問を解決するために「翻訳の不確定性」という概念の意味を理解することが必要である.

今自分にとっての最良の答えとその理由
 答え1:我々の言語に全く翻訳できないほど異なる言語の存在を確認することは不可能
 デイヴィドソンの議論の一番の要点は以下の通り:翻訳不可能という場合,我々の言語からみてA「全面的に翻訳不可能」B「部分的に翻訳不可能」という二つのタイプが想定できる.A:我々の言語には全く翻訳できないほど根本的に異なるならば,そもそもそれを別の言語としてすら確認することは出来ない(註1) .B:部分的に翻訳不可能な場合,それは他の部分は翻訳可能ということを意味し,根本的な差異にはならない.

 翻訳の不確定性とは
 クワインの主張する翻訳の不確定性の意味は,観察データから構成される妥当な翻訳には無数のものがあり,それらの競合する翻訳のうちどれか一つを決定的なものとして選び出す根拠は存在しないということである.つまり決定不全性(underdetermination)の主張である (註2).

 答え2:不確定性からコミュニケーション不可能性は導かれない
 翻訳の不確性はコミュニケーション不可能性を導くと思われるかもしれない.しかし,(それが正しい翻訳であるかどうかとは全く別に)プラグマティックな視点に基づいて,競合する翻訳の中からある一つのものを選択することができれば,コミュニケーション不可能性は回避されるだろう(註3) .

(補足):翻訳の不確定性(服部流)の否定
 服部(2003)はクワインの「経験主義の二つのドグマ」 (以下TDと略記)前半の議論(1〜4節)から意味懐疑論が生まれ,そこから翻訳の不確定性が導かれると主張する(註4) .しかしここで服部が依拠するTDの前半議論は何ら決定的なものではないということがすでに幾人かの哲学者によって指摘されている(註5) .翻訳の不確定性とコミュニケーションの関係を論じる以前に,そもそもTD前半議論自体がそこから意味懐疑論・翻訳の不確定性を導くにははなはだ不十分なものなのである.

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(1).“On the Very Idea of a Conceptional Scheme”, in Inquiries into Truth and Interpretation, 1985, Oxford University Press, pp. 183-198.(「概念枠という考え方そのものについて」,野本和幸・植木哲也他訳,『真理と解釈』,勁草書房,1991,所収).
Aに関しては「我々には理解できないにもかかわらずそれが言語である」可能性が考えられるかもしれない.しかしデイヴィドソンはタルスキの議論を援用しつつこの想定を退ける.彼は言語であるための条件の一つを「世界に適合している(真である)」ことと考えた場合,それと翻訳可能性とは切り離せないと考えている.入不二基義(2001)『相対主義の極北』春秋社.pp. 139-164.参照.

(2).クワインは翻訳の不確定性について次のように述べている「ある言語を別の言語に翻訳するための手引きには,種々の異なるものがありえ,しかも,いずれの手引きも言語成功全体とは両立するものの,それらの手引きどうしは互いに両立しえないということがありうる」(大出晃訳『ことばと対象』勁草書房,p. 42).

(3).こうしたプラグマティックな選択があり得ること自体には,クワインも反対しないだろう(TDは徹底したプラグマティズムの立場を表明する言葉によって締めくくられている).翻訳の不確定性に関しては,有名なチョムスキー・クワイン論争がある.チョムスキーはクワインが科学理論一般から翻訳だけを取り出してその不確定性を主張することに疑問を投げかけている(服部『言語哲学入門』pp. 98-100).またクワインの主張は自身の強い科学的実在立場から導かれたものだと考えられよう(ただしこうした彼の主張は後に変化している.丹治信治『クワイン―ホーリズムの哲学』講談社,pp. 182-185).しかしこうした事柄は今の我々の目的にとっては重要ではない.重要なのはある理論のプラグマティックな選択があるか否かである.もしあるならば,コミュニケーションは成立するはずである.

(4).“Two Dogmas of Empricism”, in From a Logical Point of View, 1953, Harvard University Press.(W. V. O. クワイン(1992)「経験主義の二つのドグマ」飯田隆訳『論理的観点から』勁草書房,所収)

(5).服部裕幸(2003)『言語哲学入門』勁草書房,pp. 83-101.服部の議論は以下の通り:TD前半議論に従えば意味という概念は明示的に定義できない.したがってその存在も疑わしい.そのような意味という概念を基準にして翻訳の正しさを決定することは不可能である.こうした議論はクワインが『ことばと対象』で示した翻訳の不確定性とは別物の,いわば服部流の不確定性である事に注意すべきである.

(6).飯田隆(1989)『言語哲学大全Ⅱ』勁草書房,pp. 194-204.ここで飯田はH. パトナム,C. ライトの議論を紹介しながら,ある概念に明示的定義を与えられないこと・定義が循環することが,その概念の適切さを損なうことにはつながらないと指摘している.

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参考文献
Davidson, D. (1984), “On the Very Idea of a Conceptual Scheme”, in Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford, Oxford University Press, pp. 183-198(デイヴィドソン(1985)「概念枠という考え方そのものについて」野本和幸・植木哲也他訳『真理と解釈』勁草書房,所収).
Quine, W. V. O. (1953), “Two Dogmas of Empricism”, in From a Logical Point of View, Harvard University Press.(W. V. O. クワイン(1992)「経験主義の二つのドグマ」飯田隆訳『論理的観点から』勁草書房,所収).
飯田隆(1989)『言語哲学大全Ⅱ』勁草書房.
入不二基義(2001)『相対主義の極北』春秋社.
丹治信春(1997)『クワイン—ホーリズムの哲学』講談社
冨田恭彦(1994)『クワインと現代アメリカ哲学』世界思想社.
──(2007)『アメリカ言語哲学入門』ちくま学芸文庫.
服部裕幸(2003)『言語哲学入門』勁草書房.
エヴニンS.(1996) 宮島昭二訳『デイヴィドソン—行為と言語の哲学』勁草書房

dimanche, avril 01, 2007

ROUNDS patagonia am 4:00

その昔 細野ハルオミは通称「トロピカル三部作」とよばれる3つの作品を作りました
きいたところでは 彼はよくよく探してみるとそんな
音を有する南国やトロピカルなどといったものはまったく無いが 
我々が「南国」「トロピカル」といった概念に対して
漠然ともっているイメージにはなんとなーく合っているような
そんな音を作ろうとして 制作にあたったそうです 

個人的にですが このROUNDSにおいて似たことが起きれば…
と思っています
各人が行ったこともない ときには場所さえよく知らない都市
のイメージは 容易に 読み替えられたり すり替えられたりするはずです
その結果 出てくる音は あくまで設定された都市イメージ音でありつつ しかし
どこか ズレていたり 時にはあやしげに うさんくさいものになってしまうこともあると思います
そういった妙なズレとか 受け手によって勝手にすり替えられたイメージってものに 
興味をもっています そっからなんか思いもよらないものがでてきちゃうかもしれないっていう
期待なのかな わかりません

もうひとつ 「退屈な音」に対する興味
以前フルハウスでDJをしたころ 感情をムリに無駄に増幅させたり減少させてくるように感じられる音ではなく なんとなく聞き流せるような音なのだが 注意深く聞くと非常に微細な変化があったり すこしだけなんかよくわかんない微細な感情を喚起するような そういう意味で「退屈な」音に 強い興味をもちはじめました(音楽ジャンルではありません) それは後者の音が そのときの自分の生活により即していて そういうのが今自分の身のまわりになきゃいけないんだ!と 強く感じた経験があったからです その後 mine-chang &巡礼というバンドをしたとき ライブのmcで三谷さんが「退屈な音楽がしたくて」と言っていて ハッとしたことを覚えています(もちろん演奏する側にとって ということではありません!) そのバンド自体も三谷さんの言葉をかりれば「一聴して誰が何をしてるのだか判別し難い、モザイクのような演奏」ということで だったと理解しています 上の発言はこのまえ追いコンでヒウダホがでたとき ネット上にアップされた演奏メモの引用ですが そこにはさらに加えて「ジャズジャムセッション(=参加者同士の腕の競い合い)の対極」とあります 誰が何をしてるのかわからない音 ジャズのセッションに対して我々がふつーに感じるような魅力とは対極の音 とは つまり…「退屈な音」ってことだ…! と考えながら 非常に興味深くライブ拝見しました よ これからも期待しております〜 私もがんばらなくちゃと思います

lundi, février 19, 2007

...

紹介してる論文でデイヴィドソンと後期ウィトゲンシュタインの言語哲学の親近性っていってるけど,それはなんなんだろう??performance/competenceでいうと前者ということなのだろうか?飯田隆がチョムスキーのことを考えたり,紹介しつつかつデイヴィドソンの仕事が大切やねんといったり,大全4とかの研究を進めているのはどういうりゆうなのだろうか??

vendredi, février 09, 2007

JOSEPH KOSUTH!!!!!!!!!!!!!!!











興奮がとまらない!
なぜなら これらの作品は
ウィトゲンシュタインが
『哲学探究』第二部で提示した
「アスペクト」という概念のはなしを 
簡潔に図式化したものに
おもえてしかたがないから
uooooooooooooooo

jeudi, décembre 21, 2006

12/21

自然科学になるべきである:
といっても実際は物理学的な方法を用いているわけではない。
これは、方便としていっている。それまでものに決別するため。

デカルト的:
方法論的可能性をかんがえまくって、これだ、という理論化
体系化をする。

ポールロワイヤル:
人間の根本を探るのがやるべきことなんだと明示したてんを
引き合いに出している。

認知言語学:
UGを設定せずに,全部,一般的な認知能力で
説明できると考えるのは,認知言語学のなかでも一部にすぎない.

mardi, décembre 19, 2006

sans titre

いま つぎ なにするかかんがえてる
すごく楽しい

ずっと未完成のまま 凄まじい勢いで
だから荒木にあこがれる

vendredi, décembre 15, 2006

sans titre

デュシャンは 「8年間の水泳訓練」といっていたそうだ 


わたしの場合はどうだろうか
ここまで書いてみて 知的な達成感は
ないと言い切れる 最初から 
わかっていた しかし 
3年前にした選択が契機となって 
さまざまな偶然のおかげで
これからもわたしにとって
大切でありつづけるものを
たくさんもたらしてくれた

jeudi, novembre 30, 2006

メモ

日 時  11月30日(木) 15:30〜17:00
場 所  上智大学 中央図書館 8階 L-812会議室
テーマ
二つの言語
−チョムスキーと後期ウィトゲンシュタインの言語観の関係について
講 師
鬼界 彰夫
使用言語
日本語
その他
申込不要、参加無料
問合せ先
上智大学 外国語学部 言語学副専攻 ℡ 03(3238)4107
 

jeudi, novembre 23, 2006

evnine.02

1. 4.
・心的性質を他の心的性質に関係づけるような法則は存在しない.心的なもの,規範的性格と全体論だってことは1. 2.で見た通り.
・心理学は科学じゃネーーー.と主張している.なんでか.ある心的性質を他の心的性質に関係づけるような法則:心理法則は存在しないとdは考えるから.
・なんで心理法則は存在しないと言えるのか.それは,規範的性格と,全体論的性格をもつからだって.
・つまり…「もしある人の信念と欲求のすべてを個別的に相互に独立に規定することが可能だとしたら,科学的本性を備えた心理的法則を手に入れることもできるだろう.しかし,心的なものの全体論,規範的性格のゆえに,これは不可能なのである」ふうううううううううむ.わかったぞ!!!こういう理由で,dは心理法則はムリと主張する.

evnine.01

1. 2.
・例えば,ジャングルに迷い込んだあなたが,言葉も,何も分かんない部族に遭遇して,殺されたり,つれてかれて何かされないために,敵だと思われないために,こいつらは何を話している?何をしている?何を考えている?ということを必死に探るときにやっていることを:根源的解釈.と呼ぼう.

・根源的解釈:①規範的解釈にしたがって進む.あと,②全体論的に進む.
・規範的原則:「フツーーーはこうだよね」ってことをしろって話.
・根源的解釈が規範的原則に従わなきゃなんないというのは「まあこんなおかしなことはやんないでしょう,ぐらいの想定を,フツーの想定をもって根源的解釈をやれ」ってことだ.
・信念を持つことそれ自体,もう規範的法則に従うことを意味する.
つまり,信念を抱いている限りにおいて,明白な矛盾をあえて信じたりとか,そーゆー類いのことはしない.
「ある生き物が命題的態度(信念)を持つなら,その生き物はほぼ合理的なのだ(essays on davidson:action and events1985)」dのかなり強固な主張.
・ある人に「こいつはこういうこと考えてるな」と,ある信念を帰属させる.それはなんでやるか.それは,「こいつがこう考えてると想定すると,なるほどこいつのとってる行動にうまくつじつまがあうな」てのがあるからである.こーゆーことを我々はしらずしらずやっている.こういうふうにして,心的状態が他の行為を正当化できるのだ.

②全体論的とは:
たとえば,相手が「突然踏み込んで来た俺に対して怒っている」と考えると全くつじつまの合わなくなるような行動をとり始めた(やさしく服を着せてくれたとか).でもだからって「こいつはおこってないんだ」と考える必要はない.他のとこに変更を加えれば,依然としてこの「怒っている」という信念を相手に帰属させ続けることができる.他に何らかの信念をもってたのかもしれないじゃんね.たとえば,「ほんとは怒ってたけど,俺をだまそうとしていた」「服を着せるのは生け贄のための儀式だった」とかね.ある証拠をもとにひとつの心的状態を指定して否定するのはむり.帰属させた信念の全体がさばきにあう(クワインのホーリズムと全く同じ).
「心的状態の帰属はまとめて行うしかない」と言っている.

lundi, novembre 20, 2006

覚え書き

ジョゼフ・コスースという作家が写真と実物と言葉の「ショベル」を展示する
これがデュシャンの系譜だとは どーゆーことか?
あと この作品の主題はウィトゲンシュタインが
『探究』Ⅱのあるところでいってることと
ゼッタイすっげーカンケイしてるのだが
どーカンケイしてるのか
すっかり忘れちまった!


「ドナルド・デイヴィドソン(経過の理論.根源的解釈.寛容の原理.等)とデシベルエレクトロ」
「生成文法にもとづいた言語分析の哲学的意義」


発展的忘却      ←
↑           ↑ 
コムデギャルソン→鷲田清和

長谷川祐子→マシューバーニー⇔伊勢神宮⇔(もののあはれ・
                     侘び寂び・
                    芭蕉・禅)⇔杉本博司
                    ↓
                発展的忘却  
   

mardi, octobre 31, 2006

investigations.8.(-#153)

語の意味体験とは
行為・行動の 微細な調整を可能にしてくれるような言語使用
微細な言語の使用の際、流れているもの、感じているもの。
それがあってはじめて難しいことが可能になるような、そういう体験。
それを体験できているやつが、うまくできる、達人の技になれる。

(言語使用の例だが、たとえば、楽器の演奏や、スポーツのコツといったものもそれにはいるだろう。)


(つまり、楽器の演奏のときに感じれてるものをアスペクトと呼ぶとしたら、ここら辺からウィトゲンシュタインが問題にしようとしている語の意味体験という概念とアスペクトの関係は…???
語の意味体験≒アスペクト…という方向の結論へむかうはずじゃないだろーか)

「語の意味体験」と「語の意味」はちがう。語の意味とは体験であるってことでもない。

「語のいみは、僕らが日常でつかっているその使い方だ」いまのlw
「語の意味てのは、使ったとき、聞いたとき心の中に起こる体験のようなものだ」かつてのlw

ⅱ、ⅳでこれを誘発するような例をあげている。バラの例。
はじめ、バラという語を使ったとき、心の中でそういった体験をするように感じる。
なのに何回も繰り返しその言葉を口にすると、それが感じられなくなる。
てことは、最初にかんじれたその体験こそが、バラという語のいみではないか???
という問いの提起。
ⅱとⅳをみよ

samedi, octobre 21, 2006

investigations:8(noya)

アスペクトの変化を知覚できないとは:
L・Wはアスペクト盲を,アスペクトの変化を知覚できないことだとした.
それは,野矢の言い方では,対象との内的連関性を主題化して捉えることができない,ということを意味する.

じゃあアスペクト盲の人は,〈として見る〉ことはできるのか????
これは,できると前演習のとき言ってしまったような気がする.しかし,できないはずだ.
〈として見る〉自体が,変化をあらかじめ想定している,といったらいいのか….それで,意思の作用で,ある一方を選ぶ,と.
〈として見る〉という事態が生じる時点で既に,揺らぎが想定されている.この対象は,例えば○という対象と内的連関がある,または△と言う対象とも…ということが,直観的に捉えられているのでないか.いやそうであるはずだ.そうじゃない場合だったら,〈として見る〉は生じないはずだもん.その時は〈見る〉しかないのだよ.

例えば「若い女の絵」を見ている場合,この対象が「若い女の絵」である,ということ自体(つまり,この絵という対象と,それが表しているものの内的な連関)は,野矢の言い方では,「完全に(おそらく意識の)背景に退いている」よ.
そんで「老婆」かな??って揺らぎが出てきたときに初めて,〈として見る〉ことがいみをもってくる.

心理学の哲学1:「我々はそれが変化するときのみ,アスペクトを意識するようになる」

つまり,アスペクト盲の人は,アスペクトを見ない.
「揺らぎ」がこないひと.
「アスペクト盲とは,内的連関性を断ち切られ個別的感覚にとどまるしかない人間のことではなく,
内的連関性が常に暗黙の了解のうちに退いておりけっして主題化しない人間のことである.
そのとき,彼は「日常生活者」としては我々とほとんど変わるところがないことになろう」
日常に「揺らぎ」を起こすような場面はほとんどねー.よって日常生活,俺らと同じで別に困んない.

だが意味体験はどうか…??揺らぎ…ふつーに使う時はそんなにいしきしないかも.
でも,言葉の方はアスペクトよりも,揺らぎをかんじるときあるのじゃないだろーか.

mardi, octobre 03, 2006

sans titre

“みず の ない うみ” 試論

「人は同じ川の流れに二度と入ることは無い,そして,入る」とはヘラクレイトスの言の又聞きだ.この文の訳自体が間違っていたとしても構わない.最初の文は「万物は流転する」ということ.不思議なのは一見矛盾する「そして入る」というところだ.それをこう考えている.

日々,すこしずつ変わっている.しかし日々は日々で変わらない姿で在り,自分は昨日と同じことを今日も明日も繰り返している.時折,実は変わっていたことに気づいたりする.

“みず の ない うみ”がこうしたことがらのアナロジーのように聞こえてならない.
曲全体は非常に長くいつ終わるとも知れない.曲中で音は気づかないほど微細な変化を続ける.はっと気づくとそれまでとは変化している.しかし曲は続いたままだ…

全ては変化し,一カ所にはとどまらない.日本にも似たような考え方が存在する.仏教的諦観「無常」とそれに根ざした情動「もののあはれ」である.

最近「無常」の認識とは,はかない人生に対する落胆ではなく,
常に変化し,常に自ら始源となり,新たな次元へと常に自分を開いていこうとする姿勢,なのではないかという示唆を得た,気がする…「新たな次元へ自分を開いていく」なんて,こんなことを言うのはダサイのかもしれないが.(杉本博司(2005),長谷川祐子(2006)の混同により)

ところで,曲の最後,ベルが何度も鳴らされ,その感覚がだんだんと狭くなっていき,止まる.この箇所は最終部でありながら,「何かのはじまり」を告げているかのようだ.

つまり,この最終部に至ってジムオルークが言っているのはこんなことのように私には聞こえるのだ.
「繰り返し続いていくもののなかで,実は存在している変化に気づくこと,それが次の次元へと自分を開く,その始源になるのだ」と.

曲中の微細な変化は,決して大げさな感動を呼び起こさない.喚起されるのはもっと小さな感情,これだと特定できないような「感情の機微」である,はずだ.まさに「ああ,はれ」と言葉の漏れ出るような.

“みず の ない うみ”を以上のような「変化と,継続・繰り返しのアナロジー」として捉えること,それを通過した自分は,それまでの自分とは常に変わっているはずだ,と信じる.常に変わった自分は始源となり,変わらない日々の生活を暮らす




参考文献
杉本博司(2005)『苔のむすまで』新潮社.
長谷川祐子(2005)「もののあはれの受肉— マシュー・バーニー『拘束のドローイング9ができるまで』」『ART iT』アートイット,第9号,pp. 112 - 113.

lundi, octobre 02, 2006

sans titre

理論選択の合理的基準を示して,それに従うとどうしてより正しい理論が選べるのかということに答えること.
映画『マトリックス』で主人公がやったのはこうしたことだ,と大まかに言えるだろう.
科学哲学ではこれを「科学的合理性のメタ正当化」と呼ぶ.

mardi, septembre 19, 2006

investigations.7(130)

#130-131
1. 見る
2. アスペクトを視る
3. 考える
4. 驚く

1. 4. 意識的にコントロールできない部分がある
2. 3. 意識的にコントロールできる

3. 4. 2. 焦点的な意識の対象がある

2. ≒見る+考える となんども言われる
それは焦点的だが、しかし「考える」(i think that...命題知)のようなやりかたで意識を焦点化させているのではない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ではなんだというのか?よくわからない。

#133
アスペクトが多義的であること。
私たちがある対象の多義的な性質を知覚する、というとき、たとえば、ウサギ・アヒルの図について、「ウサギに見える」というときを考えよう。(=アスペクト知覚の際起こっていることのLWによる説明)

「ウサギに見える」というのは対象にウサギの性質があるのではない。
対象と、今まで見たウサギ、ウサギの写真、などを頭の中で結び付けている。
ある対象に、何かのコンテクスト(背景・周りの状況)を読み込んでいる。
そうしてできた対象と「ウサギ」のつながりを知覚している。

アスペクトがあり、それをみるのではない。あるモノとほかの概念を結びつけること、それが本人にはアスペクトとして浮かんでくる。

コンテクストを読み込み、対象をあるほかのものと結びつける(ウサギ…)
それが「見え」として本人に浮かんでくる。
(気づかないためアスペクトが先に存在するように感じてしまう)

これはLWの好きな考え方だ。規則に関する考え方:規則がありそれに従うのではなく、何か習慣的にやること、繰り返すこと、いつもやること、それが次第に規則として抽象的に取り出されてくる。

dimanche, septembre 17, 2006

la chaine 06

今日少し、卒論の見通しが立った。

WILMETに擬似条件文の記述
REBOISに条件以外の記述多数
朝倉(2002)の指摘がなぜ仏語の本に見当たらないか。
→意識されない。(意識されない、だと?????)
VOGUE(1986-87)に担わせるはずの役割はこの本でも十分なはず
林のmeme si論文(事実的譲歩文)memeの役割
なぜsiだけのほうががすくないか
→わかりやすさ(論拠を強める)
古石(2006)
林(2001)
坂原(1985)暗黙の前提・譲歩文・擬似条件文
坂原:もう一度確認をとる
REBOISを材料に

c'est tous juste si.../si...c'est que
subordonneeの部分が事実か、条件かを確認

si(adverbe)REBOISの指摘をみる(展望として)

vendredi, juin 30, 2006

la chaine 05

1. 彼は毎週金曜にシンゴスターにいく.
2. しかし,今日は金曜であっても彼はシンゴスターにいかない.
なぜなら,今日は店が休みだから.

最後の「なぜなら今日は店が休みだから」は,1.の条件文が持っていた暗黙の前提を破壊する文である.
言い換えれば,1.が持っている言及世界とは異なる世界を構築する役割を果たしている.
その時,1.の言及世界において保証されていたpとqの関連は,もはやない.そのためpとqのことについて述べるのには何の妥当性もない.しかし発話者は,それまで存在していたpとqの関連への「思いが捨てきれない」,関連を「忘れることができない」(pとqは関連がある,しかし足りないことがあったのだ,と考える).
そして「pであってもqではない」と発言する.

譲歩「pであってもqではない」
それまで抱いていたpとqの関連についての信念を否定するような事実があり,そのことは事実として認める,しかし,もと抱いていたそのpとqの関連についての信念を捨て去るには忍びない,という話者の思考が現れたものである.
____________________________________

では「pであってもqだ」はどうなるか?
考え:もと前提されていたことが「pならば¬q」で,そうじゃない事実があって,それを受けても,話者はpと¬qの関連についての信念を保持したままなので,「pであってもqだ」と述べる.

lundi, juin 19, 2006

investigation.7(113)

他人の感情をどうやって知る?がテーマ。

自分の感情は「感じる」、この出発点からいくと、他人のは感じることができないから、分からない、というふうになる。
こうして、感情は「私的な対象」だという結論に至る。
他人のは分かることできない
これを振り払うための議論:LWの強迫観念

他人のと自分ので内容が異なるのか?
そうは考えない、普段交換可能なものとして扱うだろう。

#118
「悲しみを聞く」「悲しみを感じる」前者と後者は概念的に区別できると…
したがっている「論理」が違う、
媒体を通じて感じる:間接的
直接に悲しみを怒りを、見る、聞く。
(見るという行為の直接性について)
本当か??この議論には納得できない。
ある種のレトリック、強く感じたことを言おうとするときに…
実例が示されないと納得できない。

#120
表情を読み取れない人、つまり感情アスペクト知覚不能な人が出てきた。
これはシークエンス8の主題になる。
なぜこれを出してくるか?
これまでのアスペクトより、他者への態度をより含む。(他人の表情だから)
こーユー表情の人に、従ってこーゆー感情の人に、どういう行為をしたらいいか
→それは倫理へとつながる。

“悲しみに対して盲目な人”
生理的に、もしくは論理的に。
意に介さない人もいる。読み取れるが、無視する人。
赤ん坊は生理的にできない。
このひとは、生理的にできないのではなく、
規範を逸脱している、こういう意味で論理的といっている。

今日、ドイツ語で読み始めた。楽ではないが、
向き合っている瞬間、永遠に続けばいいと思う。

dimanche, juin 04, 2006

investigations:6(100)

#100? シークエンス番号6から

:サブシークエンス1:アスペクトの分類を進める

一口にアスペクトといってもいろんなのがある.
そして,原初的な知覚能力さえあればいいヤツと,その人がどんな知識を持っているかに関係してくるヤツがある.
L・Wの興味は後者のアスペクトである.

:サブシークエンス2:107から.様々な知覚概念の「論理」

「見る」という概念の論理.
110. 頂点,底辺というのをまだ知らない子供は,そう「見る」ことが出来ないのか,説明の意味が分からないのか…前者だとL・Wは言う.
ある概念に「精通していること」,それが「見る」ための「論理的」条件(「論理的」=「見る」という概念がもつ論理にてらしあわせて,という意味)
歯痛ー原初的知覚
見るー知識が関係する
(サブシークエンス1で確認されたL・Wの興味にしたがってこのように考えられる)
つまり,「見る」のは,生理的な条件の内側に,よりきつい条件,知識・概念の条件が有る.
(知識によっても見える見えない,あるとしたら,知識によりみてるものが違う…というトマスクーンのような立場への道を開いている….少しいやだ)


:それ,これ,(das)に点が打ってあることについて:
L・Wがそうするのはdeictiqueな用法のときである.anaphoreではないときである.
ここには彼のある確信がある.それはそういう仕方でしか示せないものが存在するという確信.
L・Wの非常に重要な概念:(現実の実践のこと:あまり意味を理解できない)

mercredi, mai 24, 2006

summa.03.7

カルナップアイデアは,必然的的真理=全ての状態記述における真理(状態記述=可能世界の言語相当物)というものだった.
そういう,言語相当物で可能世界を置き換えるのではなく,その可能世界という概念を未定義語として導入したこと:クリプキの業績

可能世界意味論の新しいところ
1. 様相論理の式の真理性は,各可能世界と相対的に評価される
2. 到達可能性:世界w'で真であることが全て,世界wで可能である(真であるとは限らない)とき,w'はwから到達可能であるという(wに変化を施すことで,w'にいける).
3.

必然的な真理,可能的な真理というのも,到達可能性を用いて定義される.
可能世界wにおいて必然的な真理:wから到達可能などの可能世界においても真である真理

必然的にAというような様相的な式の真理条件がこうして定義できたので,あとは普通の論理とやり方同じでいい.

samedi, mai 20, 2006

la chaine 04

「pならばq」といっておきながら,「pかつ〜q」だという可能性も考慮している場合がある.それは何なのか?(日常の条件文に関する様相的性格を認めないとこういう議論はでてこないが.)なぜそのような事態が可能か?

この視点にたち進む.
それで,日常の条件文発話の際に重要なことは,pは単独でqの十分条件になっている訳ではなく.qの十分条件を構成する命題の集合の中で,その時最も言う価値の高い命題である,そして,そのp以外の命題も既に与えられている,暗黙の前提になっているということを合わせて初めて,pはqの十分条件としての資格を得るということ.

演繹定理の例,分かったか.E0は,十分条件となる信念の全体,そんでE1⊃pならばqは,E1という暗黙の前提の上で,pならばqということ.E1は言及世界とも言える.もし,「お湯に手を入れること」が普通な社会だったら,なんかタイにある唐揚げ屋とか?だったら,p(お湯に手を入れる)ということは,わざわざ言うに値しないので,Eのなかに引っ込んでしまう.そんであらたにr(断熱手袋をしない)という命題がコンテクストに合うように,登場してくる.でもそれは,E0⊃qという同一の信念のこと.

「沸騰しているお湯に手を入れれば,やけどする」「なぜ?」という会話があるとせよ.
その場合,話し手と聞き手は,同じような言及世界を構築できていない.
聞き手は「なぜ?」と問い返すことで,暗黙の前提を問いただしている.

などなど.しかし一番上の問題はまだ.この後のようだ.

sans titre

渋々ほりはじめた地下水脈が,思わぬところで
大きな別の水脈にぶつかった気分
もしくはそれはもともと巨大な一つの水脈だったような感触.

vendredi, mai 19, 2006

alex rosemberg. 01

なぜ科学的説明が法則を含むか?
という問いに、因果関係という観点から取り組む。
現象をコントロールし、予測する、
そのことは因果関係についての知識が与えてくれる。
だから因果関係の説明を科学者は求める。
つまり科学は因果関係の説明である。
因果関係の説明は、ある出来事の原因だけを言うんじゃなく、
そこに働いている法則をもいわなきゃだめだと考えられている。
つまり「こういう法則が働くから、この原因から、この結果が生じる」
といった具合に。
ではなぜ法則もいわないといけないか。
それは、因果関係とは、法則に支配された出来事の連続 だから。
ある法則にしたがい、この原因から、この結果が生じるということ。
(言い換えるなら、因果的な出来事の連続は、
一般的な法則の一例となっている)

:まとめ:
科学は因果関係の説明で、
かつ、因果関係は法則に支配された出来事の連続
だとしたら、
科学の説明は法則を必要とする、ということがかなり
直接的に導かれる。


しかし、論理実証主義者たちは
「科学の説明が法則を含む必要性」について
論じたこのような議論を非難した。

それがなんでか???いまいちわかってない。
来週に期待する。

いま、ひとつ思いついたこと!

先生が指導してくる方向とは まったくちがくやれ

様相論理 もしくは「確率論的」な分析というものもある
論文は先生が教えてくれるものとは別に 自分で引っ張ってくる 
それは 条件文を分析しているやつだ 
つまり 山を高くする
そのほうが楽しいでしょう

jeudi, mai 18, 2006

summa.03.6

4.4.3
:スマリヤンのクワイン批判:
確定記述と名前,同等に扱うな!(ラッセル以来の議論).
:クワインの立場:
単称名:名前と記述は分けなくてもいい

:スマリヤンの批判の骨子:
「惑星の数が7より大きいということは必然的である」
これは,
「惑星の数が実際いくつであろうとも,それが7より大きいということは必然的である」
と読めば,偽.
しかし「現に惑星の数が7よりも大きいことは必然的である」と読めば,
これは真だよ!
後者の読みをクワインは無視して,様相の量化はできねーとか言ってるけど,ラッセルの記述の論理からこの振二つの読みが生じることは分かる.記述のスコープの話だ.この記述のスコープを狭くしかとってないクワインは後者の読みを考慮してないと.

:クワインの再反論:
様相内部への量化が意味をなすことを前提とした議論だから,論点先取だと.

:しかし:
様相内部への量化がいけないって,なんでいえんの?クワインの議論に従えばそうなるけど,そうじゃないって前提から出発してんだから.

:それでもやはり:
ではなぜスマリヤンのいうようなスコープの広い読みを採用しなきゃいけないのか.その根拠もない.
しかもクワインにとって必要なのは,狭いスコープの読みが可能だというその事実だけなのだ.狭いスコープの読みがダメだ!という根拠が見つからない限り,クワインの議論は無傷.

:スマリヤンのいいところ:
固有名と,記述を一緒にするな!
:スマリヤンの指摘:
様相的文脈においては,対応する指示対象が存在する場合でも,記述句の論理的振る舞いが,名前のそれとはことなる.つまり,固有名と,記述を一緒にするな!


「純正指示表現」:純粋に指示対象の機能だけを持つ表現.
記述は,そうじゃない.名前はそうであるけれども.
もし,純粋に指示表現なら,様相的だろうがそうじゃなかろうが,代入可能なのでは(つまり指示的に不透明ではないのでは)?

このように純正指示表現を様相の文脈において得られる文が有意味だとするのが「アリストテレス的」であるという指摘はまあいいとして,そのkeyになる純正指示表現なんてあるんですかそもそも?という問題.
ラッセル,フレーゲ…ううむ.

:バーカン・マーカス!:
固有名はtagだと!!かーなり大胆.大胆すぎるのでは??
だってそんなこというと,
1. □(ヘスペラス=フォスフォラス)が真だということになる.「認識論上の身分の違い」はどうなる…?
2. あと,固有名にもSinnがあって,そのSinnていうのはつまり,「夜明けに西の空に見える星」とか,要するに記述なんですよ.じゃあ,記述と固有名,ホントに別れてると言えるんですか?

この反論をやぶったのはクリプキ

summa.03.5

「純粋に指示的な表現」:単称名で単に対象を指示するだけのやつ.
「指示的に不透明な表現」:代入可能性の原理が成り立たない.

:クワインの様相内部への量化に対する批判:
・様相的文脈は代入可能ではない(□(9>7)に惑星の数=7を代入すると変)
・代入可能でない文脈は,指示的に不透明である.
・それゆえ,様相的文脈は,指示的に不透明である.
・指示的に不透明な文脈内部への量化はいけない
(小泉八雲=ラフカディオ・ハーンを知らないと「∃x(xが日本で生まれたのではないことを太郎は知らない)」が,八雲の場合,偽となり,ハーンは真となることがあり得る.これは代入可能性の原理に反する)
・それゆえ,指示的に不透明である様相的文脈内部への量化はいけない

:クワインへの反論:
1. 様相的文脈は指示的に透明だ!
2. 指示的に不透明だが,量化できる!

1.が有力だと見なされるようになった,それはなんでか??言語的必然性が必然性のすべてを尽くすという考え方が捨て去られたからです.

クワイン:指示的に不透明な文脈はなんでも引用のようなものだと,する!指示的に不透明な表現を全て駆逐すること.それがクワインの目標.

:結局クワインの様相論理批判とは:
必然性=分析性という考え方をとる限りにおいては,様相的文脈内部に量化を施すことは無駄だというクワインの批判は成功する.
でも,分析性=必然性じゃないとしたらどうなる?

summa.03.4

量化理論に様相を導入すること,できるんすか?その批判の最たるもの,それはクワインによるものである.
カルナップの仕事を批判するクワイン.

(なんでカルナップはそっち(様相)に行こうとしたのか,それは,タルスキの仕事のせいで,純粋な論理的構文論ではイカン!という認識を得たから.意味に言及=様相へのコミット).

クワインがなぜカルナップを認めないか,それは,彼が様相論理を考えるさいに,「分析性」と「必然性」を等置しているから.
そのいみではクワインは正しい

カルナップ:「規約」が論理や数学の基礎を与えると.論理実証主義だ.

jeudi, mai 11, 2006

sans titre

形式の意味に文脈がintegrateされてるって考え方を採用するなら、形式の意味と語用論的要因を分ける考え方の問題点が把握できていないといけない。


あした、先生の1人に大学院のことを言え

jeudi, avril 27, 2006

la chaine 03

坂原はあくまでも,条件文の意味は真理関数的に捉えることが可能だという立場にたつ.
そこからはみ出るものも語用論的要因として説明でき,結局は真理関数的条件文に還元できると考える.
自然言語の条件文にとって,真理関数的な条件文の真理条件は必要条件,つまり最低限の制約だと考える.
しかし自然言語の条件文においては,この最低限の制約である真理関数的条件文の真理条件にすら違反するような場合が存在する.
しかしながら,これも語用論的要因を考えることで真理関数的条件文に還元できると…!
大胆不敵,快感刺激.

summa.03.3

実質含意のパラドクス

しかしこのパラドクスは,本当の意味でパラドキシカルなのではない.この…が示していることが真理関数的に正しいことは,真理表を見れば明らかである.
このパラドクスが示していることは,真理関数的な考え方だけでは捉えきれない条件文の用法が存在するということである.

その実際の用法を規制する他の要因を形式論理以外のところに求める道.それを語用論的要因と呼べば,これは坂原が条件文の考察においてとった道のことだ,といえるかもしれない.

様相を量化と組み合わせる困難
バーカン式
まで.

vendredi, avril 14, 2006

la chaine 02

2.2
まとめ
自然言語の条件文の意味は,真理関数的だとする.
するとそうはいえない例に直面する.
しかし,真理関数的に許容される条件分の一部は,
自然言語の条件文として許容され得るということ.
坂原はそこにあくまでもこだわる.

mercredi, avril 12, 2006

la chaine 01

:含意のパラドックスとは:
“qは真である.したがって,pを仮定するなら,qは真である.よってpならばq”という推論が,おかしいこと.その理由は,すでに真であることが分かっているqを導出するのに,つかう必要のない仮定pを導入し,仮定的世界を作っているから.

:条件文が偽になる:
もし,条件文の前件と後件の真理値決定が事実に基づいて独立に行われたら,前件が真で,後件が偽という場合が生じてしまうかもしれない.その時条件文全体は偽となる.それじゃあまずい.普段,こうした状況が起こらないために,どうしているのか.
推論の連鎖の中で,前件pは実際に,条件文を作るときの歯止めとしてはたらく.後件に偽であるものが来ないように,規制をかけている.
条件文を作る時に,前件pをもとに,「前件がこうだということは,後件にこれがきたら偽になってしまうから…」というような推論が行われ,調整が行われ,実際にできる条件文は「pを仮定すると,qは真」というものになる.(条件文と推論という概念をわけて考えること)

しかし,「もしあなたがノーマンに会いたいなら,彼はグランドホテルにいます」のような文においては,そんなことは起こっていないのでは?なぜなら,前件と後件は無関係だから.つまり,ノーマンに会いたかろうが,なかろうが,かれは,ホテルにいるのだ.前件が真でも,偽でも,後件には何の関係もない.ということは,これは,前件をもとにした推論をもとに後件を設定する,という説明の反例になるのでは??

しかしこれは,「疑似条件文」である.「pならばq」ではなくて,本当は「pならば,qであるから,r」という構造なのである.「ノーマンに会いたいなら,彼はグランドホテルにいますから,あなたはノーマンにグランドホテルであえます」ということだ.「pならばr」という条件文と考えれば,qをもとに推論を働かせ,rという後件を導いたと考えることができるだろう.
ではなぜ「pならばr」ではなく,「pならばq」という形をとるのか.それは後述の語用論的要因による.(語用論的要因というブラックボックスだ…)

mardi, mars 14, 2006

relevance.

SperberとWilsonによって開発された「関連性理論」は語用論の最新のモデルであり、Griceの理論の自然な発展形である。この理論では、発話解釈というものを、聞き手の心的表示に対して操作された演繹論的推論メカニズムであり、その操作は「人間の認知系は自分にとって関連ある情報に注意を払うようにデザインされている」という関連性の原理によって支配されている、と考える。関連性を決定する要因には、コンテクスト効果と処理労力の二つがある。関連性理論では、話し手の行為は、最適の関連性を目指していると仮定され、その仮定から、発話解釈の諸現象が解明され、Grice理論に内在する諸問題も克服される。

やることが決まってるなら 別に他の本は読まなくてもいい
ほかの課題はやんなくていい
それは いやだ
いやなら やるしかない
やれと なにかが 背中を おしてくるなら

lundi, mars 06, 2006

summa2.03.3

クワインがまちがってるところ
で、映画のマトリックスにすごく関係するところ
があります

p→qにそぐわないような経験eに直面した。
pを満たすが、qを満たさない。
そしたら、その推論を含む理論の全体が裁きにあう。

・経験e自体が間違ってた。
・論理θの根底にある論理Lが変だ。
・理論θに変なところがある。
・p→qという推論がただしいとされることが変だ。

一番したの「理論θでは、論理Lに従い、p→qという推論が妥当なものとして導出される」という判断
を改訂してみよう。とする。その改訂が良かったかどうかは、経験とのつきあわせにより、決定する。
そのあと、物事が矛盾しなければ、その改訂は良かった。

じゃあこの推論のやり方を改訂した場合と、そうでない場合の帰結を比較してみて、改訂した方がいいかそうでないか、確かめてみよう。

それで、改訂した場合、例えばAという結論が、でたとします。

そのとき、必ず、なんかの推論をしてます。「経験eに直面したら、p→qが無いんだから、こうなって、こうなって…Aという結論だ!」という具合に。
しかし、この「こうなって」が問題です。この「こうなって」というのは明かにある一つの推論です。その推論は、「理論θでは、p→qが否定されている論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」というしかたで導かれています。問題はくり返します。ではこの「理論θでは、p→qが否定された論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」という判断が正しい理由はどこにあるのでしょうか。クワイン流の全体論によれば、正しいと断言できる理由は一つもありません。

…じゃあまた、「理論θでは、p→qが否定された論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」を改訂しよう。○○はもう無いんだ。その上で出た結論と、そうでない○○を用いて導かれた結論を比較して、どっちがより現実の状況と整合的か調べよう。

それで、改訂した場合、例えばBという結論が、でたとします。

そのとき、必ず、なんかの推論をしてます。「経験eに直面したら、p→qと○○が無いんだから、こうなって、こうなって…Bという結論だ!」という具合に。
しかし、この「こうなって」が問題です。この「こうなって」というのは明かにある一つの推論です。その推論は、「理論θでは、p→q・○○が否定されている論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」というしかたで導かれています。問題はくり返します。では、この「理論θでは、p→q・○○が否定された論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」という判断が正しい理由はどこにあるのでしょうか。クワイン流の全体論によれば、正しいと断言できる理由は一つもありません。

…じゃあまた、「理論θでは、p→q・○○が否定されている論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」を改訂しよう… …以下無限に続く

mardi, février 28, 2006

summa2.03.2

:論理実証主義:
「検証」が意味論の中心に据えられている。ということは、意味による真理という分析的真理が、検証という認識論的性格を帯びる。そうした論理実証主義からでてきたクワインが分析的真理と、「何が起ころうとも確証される真理」つまり「アプリオリな真理」を同一視しているのは、当然といえば、当然である。
(飯田隆はこの自らの説明に自信がない)

もし体系全体が「裁き」に会うなら、この分析的な文も、実はおかしいかもしれないということ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもないということになるよ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもない...おかしいはず

3.4.
異なる規約が採用されて、「もう言葉の意味が異なっている」「異なる言語を話している」と?
しかし
「分」と「秒」の例は、異なる規約において同じような役割を果たす語の存在を明らかにしている。
新たな規約の採用によっても、言語全体の中での位置を変えていないのでは?
(新しい規約の採用は言語の「同一性」を破壊する、規約が新たに採用されるごとに「異なる言語」が出現するという主張は、言語の変化という事態を正しく捉えることを不可能にするのではないか)::丹治信春を読んだらいい

3.4.2
カルナップとクワインが表面的には酷似していること。しかし、「言語」と「事実」の間にはっきりとした区別があると考える点で、両者は決定的に異なる。

jeudi, février 16, 2006

summa2.03

カルナップは、人工言語に対しては意味論的規則を特定することで「分析性」の概念を定義できると主張する。

:クワインの批判:
「分析性」を定義しているように見えて、それは実は定義していない。
「それはあくまでも、個々の人工言語のひとつひとつについて、「文Sは言語Lにおいて分析的である」を別々に定義するものである」
L1において分析的、とL2において分析的が、それぞれ定義されたとしても、両者の間に共通しているのは、「分析的」という字面のみで、この二つは別のしかたで、異なる意味論的規則によって定義されたものである以上、本来両者の間には何ら共通性を仮定することが許されない。

もし共通点があるなら、それは既に「分析的」という概念が確立されているから。「意味による真理」という概念が理解されているから。

:クワインの批判に対する評価:
ある概念に対して明確で非循環的な定義がない場合にはその適切さも疑わしくなる:という誤りを犯している。
明示的定義を与えることができないからといって、その概念を理解していないということになるだろうか。

:ある概念が理解されているために必要なこと:
事例を挙げることができる・正しく使える・新しいモノにその概念が当てはまるか判断できる

・つまり明示的定義は必要ではない。

:もうひとつの考え方:
「意味」「同犠牲」「分析性」という概念が、言語活動を説明するための「理論的概念」だと考える。理論的概念が「あるものとして」受け取られるとき、何が必要か。それはその概念がどのような理論的目的のために導入されたものかが明確なこと。その概念が既存の概念とどのような関係に立つかが明確なこと。こうした理論的概念は、ある理論を下敷きにして導入される。明示的定義は、簡単に導入される。
あと別に「循環」といって非難されるべきことではない。LWいってたこと思い出す。

lundi, février 06, 2006

sans titre

語彙レベル
やる・くれる・もらう、というような語の日韓区別
おそらくparameterではない
経験にたよっている 学習しないといけない

でも一個ずつ語彙を経験によって学習しているとすると
基礎語彙の習得にかかる時間が短すぎる


文構造を決定するparameterが語彙習得を規定するというような方向で考えられればいいが 同じような文構造の日韓で 語彙構造けっこうちがうという事実

仮定
・いったん基礎を学ぶと 派生的なものは学ぶ必要がなくなる

しかしそれでも問題ある
・日本語では 使い方簡単に 学ばずにつかえるようになる それが原理によって保証されていると考えうる
・韓国語では 日本語と似たようなデータをもとにしているのに ひとつだけ制約があってつかえないということも同時になぜか身につける

つまり
同じ基礎的なものなのに 派生してくるのものが異なる


まとめ
言語習得がtheoryの出発点になっている領域 探求のそこここで実際の言語習得を参照してみる必要がある

vendredi, février 03, 2006

sans titre

英語の文 週に一本かく
中村真さんの禁煙みたいに

DIYハードコアをききながら

サイダー瓶を額にあててむこうがわ
のぞく

ホットのオレンジジュースのむ

そうして
あたまが つねに
ブレインストーム
ひらめきだ

mardi, janvier 31, 2006

summa2.02.2

こういうところがいちばんおもしれーーーからやめらんねーべらんめーなvolume up燃ーえたりねー枯れ枝夜唸る
waooooooooooooooooooooooooooo


:フォジランの指摘:
『論考』の論理体系は、無限個の個数の命題に「基本操作N」を2度適用することにより、存在量化を表現することができるが、全称量化は表せない。なぜならそのためには否定の操作Nを無限回適用しなければならないが、『論考』5.31は操作の無限回の適用を拒んでいるからである。しかしその修正は容易に行える。真の問題は多重量化についてである。

:野矢さんは存在量化を問題にする:
フォジランや飯田隆は無限個の個数の命題を一挙に操作することを当然のように受け入れているが、それはウィトゲンシュタイン自身の意図に反するものである。

:フォジランの多重量化についての指摘:
存在量化と全称量化が含まれる多重量化は、『論考』のやり方だと、どうしても操作の無限回の適用を必要としてしまう(全称量化の部分で)。これが、自身が設けている操作に関する制約と矛盾するため、『論考』は多重量化を扱えない。

:フォジランのあやまり:
フォジランは、存在量化と全称量化が含まれる多重量化の構成が可能なためには、(1)対象が有限である、か(2)操作が無限回適用されるかのどちらかが満たされなければならないとしている。その上で彼はまず(1)が4.463によって否定されていることを示し、次に(2)が5.31によって否定されるため、『論考』においては多重量化を扱うことができないと結論している。
しかし、野矢は(1)が4.463によって否定される、というフォジランの議論に疑問を抱いている。それは、4.463が論理空間の無限性を主張している命題ではない、と野矢が考えているからである。

:4.463について:
ここで、「無限に」という訳語をあてたくなる‘unendlich’という語は、(フォジランはそう解釈しているがしかし)論理空間の無限性を主張するために差し挟まれているのではない。
4.463は、「トートロジーは、「どのような大きさの論理空間であっても」、その全体に真理領域が及ぶ」ということを述べていると解釈されるべきである。そうだとすれば、この4.463に表現されていることは決して、論理空間が無限であるということと同一ではないのである。

このように、野矢は4.463が論理空間の無限性の主張と結びつくものではないと解釈している。ここでは野矢の解釈に従い、さらに『論考』において対象は単に無限ではないどころか、有限でなくてはならないと言わなければならないことを示そう。

:『論考』の対象がなぜ有限か:
有限の経験しか持たない人間が無限の対象に出会うには、操作による構成が必要となる。しかしこの操作によって構成されたものの間には、内的関係が生じてしまうのである。この内的関係が、『論考』の要請する要素命題の相互独立性と相容れないこと、それが『論考』が対象を有限に限っている理由である。

例えば、「0から初めて1を足す」といった操作によって構成される、自然数というものを考えてみよう。「aは2メートルだ」という命題と、「aは3メートルだ」という命題は両立不可能である。このように要素命題が両立不可能であることは、『論考』が要請している要素命題の相互独立性と矛盾する。こうした理由で『論考』は、無限へと通じる道である、数などの構成されるものを対象として認めていない。
このように、対象が有限にとどまるとすれば、要素命題も有限となる。よってフォジランや飯田が認めていたような、全称量化のための無限個の対象操作をする必要はなくなる(よってフォジランが提示した、存在量化と全称量化を含む多重量化を扱うことができる)。さらに、論理空間も有限になるため、可能な真理領域も有限の多様性しか持たない。それゆえ、すべての命題は真理操作を有限回適用すれば得られることになる。
こうして、『論考』内に不整合は生じていない。

:5.31が言いたかったこと:
以上のことから言えるのは、5.31は操作を有限回に制限しているのではないということである。そうではなく、そもそも対象が有限であり、論理空間も有限であるのだから、操作は有限回の適用のみで十分であるということを主張しているのである。

:相互独立性を取り除く:
さらに相互独立性の主張が取り除かれるとしたら、どうか。
要素命題の相互独立性を撤回するなら、操作による構成物を対象に含めることができる。
(この場合、操作の有限回の適用の主張は削除される。よって、フォジランが提示したような議論に乗っかったままですら、多重量化を処理することができる。)
(そのような対象は無限に構成できる。そのうえ論理空間は有限である。そうであるから、この操作によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。)

summa2.02

:飯田隆の解説による、フォジランが指摘した『論考』の問題点:

それは、『論考』の論理が、じつは述語論理のごく基本的な領域(多重量化)をも覆い得ないという点である

それは以下のような議論
(x)(∃y)Fxy:全称量化と存在量化の両方を含む多重量化を『論考』の「基本操作」(任意個の命題を全部否定したもの)で構成しようとすれば、註の(14)で言ってる方法になる。
この方法は
対象が有限個であるという制約か、
そうでなければ
操作が無限であるという仮定を要求する。
しかしながら、
対象が有限であるという主張は、『論考』が主張する論理空間の無限性と相容れない。
では操作が無限なのだ、と結論できるかというと、それもできない。
なぜなら「すべての真理関数は要素命題に対して真理操作を有限回くり返し適用することによって得られる」
と『論考』が述べているからである。つまり、操作は有限回に限られているのである。

このように上に挙げたような種類の多重量化は『論考』では扱えない、から『論考』は述語論理をカバーできない、とするのがフォジランの議論のようです

自分がこのフォジランの話で??と思ったのは、「対象が有限性が論理空間の無限性と相容れない」という点です。なぜなら「対象」が有限でも、それの有限個の「名」と有限個の規則で無限個の文を生成できるから。しかしこう言い得るためには、操作が無限であることが保証されていないといけないはずだ。この点で『論考』は操作を有限個に制限している。よってこのままでは自分が疑問に思ったところは反論になり得ない気がする。
(しかし、5.31は操作が有限でなくてはならないという制約を述べたものではないということが、後に示される)

飯田隆は、フォジランに賛成している。野矢さんは賛成していない。

dimanche, janvier 29, 2006

summa2.01

よく言語学で、認知言語学が出でくる背景として、論理学的意味論、真理条件的意味論が言語の意味の理解として十分でないという認識があったって、そんでそのもとはウィトゲンシュタインみたいな感じでいわれます。
ほんとにそんな単純な話かな…!

:真理条件から検証条件への転換:
命題の論理的分析:命題の真理条件を明示的に取り出すこと
真理条件:「像を実在と照合する」という『論考』の言葉を、「経験との照合」と読む論理実証主義者
フツーにそうかなとおもってたけど。彼らは経験主義者だからね。


:検証条件の帰結:
二値性の原則に影響。それを防ぐために、logical positivist:
要素命題以外の命題はすべて要素命題の真理関数として得ることができる
要素命題は決定可能である:感覚与件命題です
が導入される
ということは、要素命題以外の命題は、すべて感覚与件命題の真理関数として得られる。
ようするに、感覚与件命題だけあれば良い:感覚与件命題への還元主義


しかし『論考』の基準からすると、感覚与件命題は要素命題になり得ない
『論考』は、要素命題の相互独立性
感覚与件命題「これは赤い」は必然的に、「これは白い」を排除する。ということは、相互独立じゃねー。
だって相互独立だったら、片方の命題の真偽から、
もう片方の命題のいかなる真偽もみちびけない。
だってふたつは独立なんだから、両立可能ということ。
だから、「これは赤い」といったあとで、「これは白い」といえるはず。
でも実際はそうじゃない。
ということは、感覚与件命題は要素命題が満たすべき基準満たしていない。
ウィトゲンシュタインも後でこのことを認めた


1.3. :検証主義の内容:

:ヘンペルの議論のどこが大切か:
論理実証主義の「検証主義」への批判として今までなされてきたものは、「弱い」テーゼを考察すること。詳しくは「検証可能性」という概念をちゃんと定義できるかという議論。そんで、そもそもその検証可能性の基準が定式化できないんだから、これを命題の有意味性の基準にするなんて、根本から誤ってる、という流れの議論。その代表的なものが、ヘンペルの議論。



意味は「真理条件」なのか。「検証条件」なのか…という問いから、
:「文の意味=検証条件」という試みとしての、シュリック検討:
他の人たちは真理条件と検証条件を混同してるけど、シュリックは両者のギャップを埋めようとしている。
「直示的定義」「検証可能性」


:分子論的意味論というアイデア:
「単独の語—対象」という単純なつながり(アトミック)を想定するのでもなく、言語理解の単位を言語全体に求める(ホーリズム)のでもなく、言語理解の単位を文に求める。そんで、ひとつの文の理解は必ず他の多くの文の理解をともなっていなくてはならないという考え方。

分子論的意味論では、「語の意味は文の意味への寄与」。
経験主義的に言い直すと、「語の意味は文の検証条件への寄与」。
別に、語が有意味であるために、それが「単独で」何らかの経験と結びつけられている必要はない。

シュリックの議論は、単なる原子論的意味論と分子論的意味論の混同ではない、と考えうる。
シュリックは、直示的定義と、要素命題を関連づけている。
シュリックの議論は:(a)言語理解にとって、直示的定義に関する文の習得が基礎的である
(a)は、すべての文は直示的定義に用いられる文だけから構成された形の文に変形できるということ。
それは、「すべての文は直示的定義の文の真理関数だということ」この議論のもとは『論考』の要素命題。
『論考』5で、「命題は要素命題の真理関数である」といっている。
シュリックは、この要素命題と直示的定義を結びつけて考えた。
したがって「すべてのぶんは直示的定義の文の真理関数だ」という結論になる。

(b)そしてそういう特性を持つ文というものの意味は、「検証条件」である。
…え、なんで(a)みたい特性を持つ文の意味は「検証条件」になるの?
それはp. 102にかいてあるよ。

summa2.

公理(第一原理)からの演繹により、ある分野に属するすべての知識を体系化するという方法。
チョムスキーもこれかと思います。


近代の哲学者の問題意識
我々の認識にとって疑い得ないという意味での、「確実性」の問題。
確実性と必然性の混同が起きた。以下の議論はよく用いられる
(a)あるものが必然的なら、それは確実である
(a')あるものが確実でないなら、それは必然的ではない:対偶
(b)あるものが確実なら、それは必然的である:(a)の逆。これすら受け入れる
(b')あるものが必然的でないなら、それは確実でない:ということはこれも受け入れる
しかし(b')はおかしいでしょう。だって、「我あり」ということが疑い得ないとしても、その我が存在しなかった、もしくはこの我が、「自分じゃなかった」ことはいくらでも考えられる:必然的ではないが、確実。になってる、という反例がそんざいする。


ヒュームが激しく批判した後に必然性がまだ残りうるとされたのは、数学と論理学。
しかし、近代において論理学は、論理的推論は認識を広げてくれるものとは考えられていなかった。
論理的推論は、既に知られていること、前件に含まれていることをくり返すだけなら、確実なのは、必然なのは確かにそうだね。
けど、なんか既に含まれてるものをくり返してるから必然だというのは、本来の「知識」とは呼べないんじゃない?ちゃんとした事実の中に、これは必然的だ!と呼べるものがないとな…。


「ア・プリオリな認識とは経験に全く依存しない、ア・ポステリオリは経験に依存する」という区別ではない
だって『純粋理性批判』第2版緒言で、「われわれの認識がすべて経験をもって始まるということについては疑いがない」っていってるし。認識自体は、全部経験いるっていってるからな。

「ア・プリオリな認識とはその正当化のためにいかなる経験も必要としない、ア・ポステリオリな認識は必要とする」ということです


カントが用いている区別
・必然的—偶然的
・確実—不確実
・ア・プリオリ—ア・ポステリオリ
・分析的—総合的


上の3つは同じものとして考えられている:カント
分析的・総合的というのは:われわれの認識を増大させるか、そうでないか。
数学の知識は「ア・プリオリかつ総合的」とカントはいう(ちなみに論理学の知識はア・プリオリだが分析的)
つまり
「その正当化が経験に依存しないにもかかわらず、われわれの認識を増大させる判断」
でもそんなことってあるのか…。



他には物理学と、形而上学がそーゆー学問の候補だけど、後者は否定
なんでそういえるのかを説明すること、それが『純粋理性批判』の主要な目的と言えるだろう

mardi, janvier 24, 2006

sans titre

ウィトゲンシュタインの「そのように見る」は
「単にそのようにみなしている」と
「突然リアルなものとしてみえてくる」
との区別だよ
ちゃんとわかってなかった
きちんと整理してなかった
でも「そのように見る」ってことが
ぼくらにとってリアルだってことは
いつもわかってた
だってジャズをやっているから
くやしいぜ

lundi, janvier 23, 2006

sans titre

parameter:80年代研究進んだ。
リチャードケイン:ロマンス語の研究とか。パラメタ—は同一言語間にある方言間の差異も結局説明する…。
多総合的な言語(アメリカインディアン語)/孤立語(中国語)この二つはかなり違う語。かなり大きなところ(上位の?)のパラメータが異なる気がします。
これを決めてるパラメータがイタリア語とフランス語の違いを決めてるパラメータと同じであるとは思えない…。だってイタリア語とフランス語、方言ぐらいだもん違い。
前者のようなパラメータと後者のパラメータの違いとか、考える必要性でてくる。
そもそもパラメータとは何かという問い。また根本的な問いに戻る。

あるものを設定して、その存在を証明するために、様々な経験的研究行う
面白い成果が得られて一段落ついたとき、そのもの自体の位置づけが今度は問題になる
また根本的な問いに戻る。
しかし過去の遺産をふまえて。そしてrevised versionになったら、そこからまた経験的な研究していける。
それがくり返す限り、進歩する。
その繰り返しがストップしたら、方法論として行き詰まる…。

jeudi, janvier 12, 2006

summa.03.2

知らなかったこと:指示対象を欠く確定記述に対するラッセルの態度は「on denoting」で初めて変化したわけではなく、「no denoting」をかく直前はフレーゲ的立場を取っていた。「on denoting」でその立場を批判した。

『数学の原理』:何でも存在者に対応
「命題の存在的含意」:フレーゲ的:空な確定記述はSinn(meaning)あるがBedeutung(denotation)ないという立場

新しく知ったこと:指示対象を持たない確定記述の他に、指示対象を持たない固有名の問題があること

表示句は意味論的単位ではない:これが「no denoting」でラッセルがたどり着いた答え
ということは、意味論的関係として残るものは、語とその指示対象だ:そこからの帰結
しかしこの結論では、フレーゲが「意義と意味について」を書いたときの問題へと逆戻りではないだろうか
そうではない

それはpp. 191-192に書いてある
一見すると「スコットは『ウェイバレー』の作者である」という文は「a=b」の形式に見えるが、「b」は表示句であるため、従って意味論的単位を形成するものではない。「b」単独で何かを指示することはない。「表示句「b」のmeaning」は存在しない。フレーゲと同じ枠組みに乗っかっていない。よってp. 191の議論も適応されない。

summa.03.1

フツーの「コトバ」と「モノ」の関係:心理的
表示の関係つまり「ガイネン」と「モノ」の関係:論理的

論理学の対象:論理的な普遍的などこかに存在する対象どうしの関係:これが論理的。

いままで意味論意味論といってきたその論の基礎、つまり「語がそれ以外の何かを代理している」という大事なことが、心理的といって排除されようとしている。錯乱。

the+single noun: definite descriptions

『数学の原理』のときにおけるラッセルの確定記述の問題:
ガイネンのみを構成要素としてもつ命題を表現してる文が、なんでモノであるソクラテスについてのものになるのか。実際そうなっちゃってるけど、じゃあそれはなんでなのか。

summa.03

3.denotingの問題

・項は存在者と同義
thingとconceptにわけられる。
thingは固有名で指示される。

denoting phrase; a man はdenoting conceptをindicateしているがそれが含まれるSocrates is a manという命題は、そのconceptについての命題ではない。

denoting phrase(もちろん固有名ではない)はconceptを指示する、しかしそれが含まれる命題はそのconceptについての命題ではない。文が表現している命題は、実際のmanである。
ということは、固有名を用いない時は概念を指すといっといて、固有名ではないのに表示句のときは実在のものをさすんですか。このときだけなんで。
なんで…
表示句の問題:ガイネンしか指示しないはずの表現で、モノが指示できちゃってますけど…という問題。
“いやーdenoting phraseの時だけは別なんですわ”とラッセルはいってます。

mercredi, janvier 04, 2006

sans titre

宇都宮をすこしうろついてました
正月からレコード屋があいてました
その店はドープです
ほとんどハードコアパンクだけです
初期パンクすらあんまおいてない
店長もいいかんじに無愛想です
80年代に活動してたSiCというのや
イタリア語で歌っているtomorrowというのや
知らないの勧めてもらったりして
何枚か買いました

いわゆるジャパコアがすきです
ジャパコアってのは
僕がうまれたころ保育園だったころ
日本の黎明期 相当のアンダーグラウンド
やってたバンドがだいたいそう呼ばれてます
すこしずつ集めてます

それよりずっとわかいですけど
Exclaimってバンドがいて
ホントに
かっこいいです

周りにはそーゆーハードコアパンクきいてる友達は
いないので あんまそーゆー話はしないです

その店長とは二言三言 ぼそぼそと話をしました
それだけだったけど
ほんとに上がりました

ある特別な感情を共有してました

自分のゆるぎない核は ここにあって
そっから ぜんぶがでている と思います

vendredi, décembre 23, 2005

summa.02.5

意義1言葉の理解の相関者
意義2真理条件
フレーゲに従いたかったらこの二つを結びつけるものが必要だ。
結びつけないようにしたいなーという気持ちがでてくるのは、

指示対象を持たない単称名の場合。
そーゆーときはさ、何か理解はしてるけど、真理条件はないんですわ、といいたくなる。だからそうした表現が出てくる文も、何か理解はできるけど、真理条件はないんですわみたいなね。でもフレーゲは文の理解は真理条件の把握です、と言ってる。フレーゲに従うなら真理条件がないのに文の理解はある、ということはできない。

指示対象がない単称名が含まれるときフレーゲは「その文は無意味」とのべる。
ラッセルは、「その文は偽」とのべる。すこしまえまでそーゆー理解。

summa.02.4

文の真理値=イミに影響をあたえない語の意味的要素=陰影
(日本語の例のような批判を受けてもなお陰影は副次的なものとして残される。意義が副次的なのは、フレーゲのいってる以外の理由では、言語的コミュニケーションにとってもっとも基礎的なのはいわれたことが真であるか偽であるかだ。とすればそれに関係している意義が大切だ。これは認知意味論からは反対される)
個々の言語行為がどのような種類のもの(疑問・命令…)であるか。またどのような内容のものであるか。
前者を明らかにするのが、力に関する理論。後者は意義の理論が明らかにする。
異なる種類に言語行為を通じて共通であるような言語行為の内容を否定することは、すべての語に関してそれが用いられるごとにその意味が異なるという帰結を生む。(体系的意味論の不可能性のへと赴く)
この帰結はこれまでであったことのない文を自ら発したり理解できるという事実との間に緊張を生む。
かーーーーーーーーーーーーーなり重要だ!

summa.02.3

Über Sinn und Bedeutung(1892)
2.3.2
イミに関する合成原理:文のイミはそれを構成する部分表現のイミと文の構造によって決定される。
イミに関する文脈原理:語のイミはそれが現れる文のイミ(真理値)への寄与である。
「信じる」「望む」:propsitional attitudeの動詞が作る文脈:“内包的文脈”という。
言語の理論はその言語においてどのような推論が妥当であるかについての特徴づけを含んでいなくてはならない。推論の妥当性にとって決定的な役割を果たすような意味的要素を文が所有しているとするならば、その意味的要素として真理値を選択するのは、もっとも自然な選択であるといえる。
(S→B)意義はイミを決定する
意義はイミを前提する。イミは意義の先にある。フレーゲのイミ論は意義論を支配してる。
なんでかはよんでくれ何度でも。
固有名の意義:その指示対象が決まるための条件

summa.02.2

語の意味の特徴づけは、「その語が現れる文全体の意味への寄与」という観点からなされれないといけない。
「固有名の意味とは何か」という問いの答えは、
「それが現れる文の意味に対してどのような寄与をなすのか」についての答えになってないといけない。
文全体の意味に対する語の意味の寄与を明らかにすることで、
語の意味以外の要素で、文の意味に寄与しているもの、
つまり構造を明らかにすることができる。
・文脈原理がいうように語はそれが現れる文に対して、意味的な寄与をする。文全体に対する意味的な寄与として個々の語が意味を持つ故に、我々は既知の語からのみ成り立つ文については、それが初めて出会うヤツでも意味理解できるのである。
(初めての文でも理解できるようになるような、その文の意味に対する語の意味の寄与というのは、もっと具体的にはどのようなものか……??論理形式とか、カテゴリーとかかな)

文脈原理は意味の一般的説明に関わる:語の意味は文の意味の寄与
合成原理は個々の文の意味に関わってる:文の意味はそれを構成している語の意味と構造(論理形式、へ?これってなにー?L・Wとはちがうんすか?)の把握によって決定される。
一見反対のこといってる。でも別に。違う次元についての話だからそもそも。
意味の一般的説明においては文が第一義的(文脈原理)。個々の文の理解においては語が第一義的(合成原理)。

investigations#8

さらに、「見るの解剖」

#88、89ある「見る」の概念それは見なす(regard as)とにている。しかしそれより、「見る」に近いんだ。「として見る」よりこまかい。「として見えてて」さらに、うわ生きてる!みたいな。

「見なす」それがなんだか分かる限りにおいて、ずっと起こっている。「ああおばさんね…みたいな」
「そのように見る」突然本人そのもののように見える「ウサギが見てるよこれ!斜めうえのほうさ!」って叫んじゃうとき「そのように見てますね」

オバーサンの絵であることには何の疑いもない。
そのとき生きている!オバーさん本人がそこにいるように見えてくるとき、
そこが分かれ目です。
それって、ほんとにオバーさんに微笑みかけられた時の感覚の表現と同じなのか:
(同じになることもあるかな……)。こっちの場合に、何らかの体験をしている。「微笑みかけてる!」みたいな。

ちょい前までは、「見る」「見なす」「知る」の区別やってましたよね。
今度から、広くいえる「見る」(「知るとは区別されるもの」)のときに、
ある種の体験がともなうものを見ていく。

概念=本質とかじゃなくて、「普段使ってる言葉のルール」
「aはxでもありうる」という言語ゲーム(つまり「見なす」から「知る」へと…)をどのようにして覚える?
……L・Wの答えは、「ごっこ遊び」

#99先生は、対象が変化する、といったがしてないんじゃないすか〜これは?
でもいい。これは間違ってたとしてもそこから深い方にいけるやつだ。
単なるテンポの変化がある瞬間からそうでなくなる。
別物に聞こえてくる。アスペクトといえるかな。
同一性をつなぎ止めるのはテーマのメロディかとおもう。

investigations#81

#81ふるまいの微妙な陰影という概念。これはスポーツや楽器のこつだ。重大なのは、それが行動の違いを引き起こすからだ!

#82this is what i treat it as:この表現分かんなくてくやしがる。私はそれをこれこれのもの(実物)としてあつかう:見てる場合・そのものと接してる時と同じようにふるまいたくなるとき、「見てる」という。
たんにしってるというとき、そんな「入り込んでない」。態度が違うということ。

#83L・Wの大切なconclusion:見る・として見るの共通点:二つは同じではない。が、目の前にその実物があるような態度を取る。HE図のときはもちろん「見てる」ときとは違いますよ、でもねーウサギのアスペクトを見てる時はウサギを見てる時と「ちょっと」同じ態度をとりますよ。態度という観点から「見る」「知る」…を考えていきます。

どの程度か?を見ていこうとする態度がL・Wいつもやばすぎる。

lundi, décembre 19, 2005

sans titre

poverty of stimulous の問題が有効でないとしたら、UGの設定自体が崩れる。母語としてるひと、外国語として学習してる人、たとえば日本語の活用の習得のスピードと直観がちがう。(おれに「たべる」にくらべて「すべる」が活用の面から見て例外的な動詞だといういしきがあった?)動詞の活用をすべて経験から覚えるの?ぜんぶの動詞の活用をここにおぼえるのではなく、類推という認知的な能力をもとに何らかの規則を理解するのではないか。UGなんて別に出さなくてもいい話である。“ただしもし類推しかしていないとしたら例外的な「すべる」の活用については、全員が一度まちがうはずである。アメリカの子供がgo→goedと言ってしまうことがあるように。そしてそのあと親とかにまちがってるよとなおされないと学べないはずである。”しかしそうとは考えられないだろう。“そうでなければ一度全員が「すべった」もしくは「すべらない」という、「たべる」には出てこない活用を耳にし、みにつけたと考えられる。”そうかもしれない。もしくは、基本語彙として、UGを発動させる初期データの中に活用を含めて入っているとも考えられるだろう。

まとめ

1.UGが全然関係してないといえる領域
2.そんでデータが等質ではない。
3.なのにみんなの直観がいっちする

この3つがそろうとUGを設定することを無意味にする。体系を一気に崩壊させる。
たとえば、日本語の活用。UGに入ってるわけがない。身に付けたとしか考えられない。

“いやUGに言及することなくこの現象を説明できる。UGとは別の問題に還元することができる。
言語習得の能力とは別に、類推という認知的な、動物も持ってるけど人間においてとくに強力に発達した能力によって、活用を身に付けたとも考えられる。(そのばあい、「射る」という動詞などで母語話者の直観が一致しないことが説明できる。じぶんはまちがえてた)。そうです、アナロジーとか帰納(induction)という人間が持っている高度な能力です。

じゃあ、UGとかどうのとかいろいろいってるけど、ぜんぶこのさ認知というさ、高度な一般的な学習機構・学習機能の能力で身につけてんじゃないの。言語の習得だけUGとかいって独立に設定してますけど、言語にかかわらない強力な人間の認知システムで説明できんじゃん。なんで言語だけ特別視するのか(つーかそーゆー認知みたいの語の理解に不可欠とか、脳のモジュール性が否定されているとか…)。”

……
サルはUG持ってないからヒトみたい言語はなせないと説明するのか・サルもヒトも認知能力もってるけどサルとヒトと程度が違いすぎてサルははなせないと説明するのか。
……
UGみたいのが進化の過程で突然変異としてemergeしたと考えるのか
認知能力があるときに飛躍的に進歩した結果でそれは連続してると考えるのか
……
しばらくむかし友人にぜんぶそれ脳がもってる期待値をだす能力みたいなもんでといわれてそれがかなり強力で頭からはなれなかったのですがやっとその反論のないようがりかいできたようなきがする。だからとても今日はよかった。そのさきにはこれからいく

samedi, décembre 10, 2005

summa.02

specify:どのようなものか述べる:特徴づける:定義する…。
単称名の特徴づけを「それがどのような存在者を指すかについての考察」から引き出そうとするのは間違ってる。
「単称名とは対象をさす表現である」という感じで特徴づけたとします。
これでオケーにもしなるとしたら、対象ていう概念ももう規定されてるはずですよね。
”そうすると、数詞が単称名であるかどうかは、数詞のさす存在者、すなわち数が対象であるかどうかが、この前もって与えられている対象の判定に照らして判定されることになる”
もう対象が何かってことはさきにあたえられてんだ。そんでそれにてらして、「あ、この数詞のさす存在者(数)は対象をさしてるから、この数詞は単称名だ」とのべるってこと。
これは、数詞が単称名であることから出発して、数が対象であると結論するフレーゲの議論とは逆。

”対象がさすものが単称名であるのではなく、単称名のさすのが対象であるという主張は存在論的カテゴリーに対する文法的カテゴリーの第一義性というテーゼに裏付けられている。
フレーゲも、数詞が文法的には単称名として振舞うことから、数が対象であるという結論を引き出せると考えたに違いない”

もし、自然言語の理論を、述語論理をモデルにして構築しようとしたら、その述語論理の根幹にあってそこからすべてが派生してくる「単称名とは何か」という問題は、非常に重要であらざるをえない。

summa.01

文法的カテゴリーの分類のしかた:その語と入れ替えてもその文が依然として文法的に適正なら、同じカテゴリーだ。
「文法性を保存する相互置換可能性」
文と単称名(飽和した表現、基礎的カテゴリー)を特定すれば、あとは派生的に導かれる。その導き方は、その基礎的なヤツの一部をさらにargumentと見なすこと。
argumentのカテゴリーがNであり、argumentにふさわしい表現を代入した結果得られる表現のカテゴリーがSであるとき、(S/N)と表現できます。

tractatus.16

transzendental
論理が超越論的:
単に、経験によって把握し得ないという意味ではない。この世界に対して超越的でありつつも、なおこの世界がこのようであるために要請されるもの、それが「超越論的」と呼ばれるものである。実際、論理は、それ自身を語ることはできないが、世界を語るために、世界が語られたようであるために、不可欠であるのです。
倫理が超越論的

永遠の相のもとにとらえる
対象を、論理空間とともに捉える。それは、論理空間の礎石として捉える。論理空間の構造を見て取る、その時対象は不動の実体となる。変化するのは諸対象の配列であり、対象そのものは変化しない。
また、対象は消滅することもない。死んだ。でも思考可能である限りウィトゲンシュタインという対象は存在している。対象は変化せず、生成消滅もしない。これが、対象が実体であるということの意味である。

論理空間とともに、対象を論理空間を構成する不変の礎石として見る:これが永遠の相のもとにとらえるということである。ただし、この永遠の相のもとで捉えるのは、論理的な分析によって、論理空間を明らかにすることによってなされる。つまり、啓示とかではないのさ

死が人生の出来事でない理由
論理空間を張るための超越論的条件として、私の生が必要だ。ということ。
私が死んだら、論理空間は消滅し、私はいっさいの思考の足場を失う。
私が私の死を考えるということは、この論理空間の消滅を考えるということ。
しかし、論理空間の消滅なんて考えることはできない。
とすれば、私の死は考えられないのではないか。
つまり、論理空間に私の死は含まれないのではないか。
でもさ、私は、他人の死と同じように、自分の死について考えることができます。

論理空間に含まれる最大の虚構であるという。

tractatus.15

例えば、¬P∧Pがトートロジーであること、それは、Pに対してこのように真理操作を施せば真理領域が論理空間全体に及ぶということ。この事実が、ここに含まれる論理語「でない」「かつ」の真理操作としてのあり方を示している。
このように、論理語をある仕方で組み合わせると、真理領域が論理空間全体に及ぶ命題ができる、この記号構成上の事実がそこで用いられている真理操作(論理語)の内実を明確にするのである。

『論考』が考える論理学の役割:論理語の真理操作としてのあり方を明確にする学問。そして論理語の内実は、上記のように、ある命題がトートロジーであることによって、明確に示される。だから論理学はトートロジーに関わろうとする。

論理学がトートロジーに関わるのは、それが必然的真理として、偶然的真理とは異なる真理の領域を明らかにするからではない。

tractatus.14

入力が何であれ、真を出力する、という考え方自体、『論考』とはちがう。だって、『論考』は論理語を真理関数とはしてないから、別に、真を出力したりしない。

素朴な規約主義が証明の必然性を説明できない理由を繰り返し確認する

tractatus.13

・frege and Russell:
Number is an attribute of a set. For example, when we say "there's 10 apples", the number 10 is an attribute of the set 'apple'.
Or, number is a set composed of sets members is same number. For instance, 10 is an enormous set composed of sets. and all these sets' members are 10 each.
・wittgenstein:
Number is the number of algorithm(???). Number is the number(frequency) of operation. Hense, it is not a name any more than the logic operator is. (it is no more a name than the logic operator is)
Therefore, '1+1=2' is not a tautology as logical empiricists say. The reason is that number is not a name. Thus, '1+1=2' is not a proposition.

lundi, décembre 05, 2005

sans titre

生成文法で、syntacticなparameterだけじゃなくて
lexiconに関係することも、考察の対象になっている、
つまり、81年にbreakthroughがあったugの下位理論には
含まれてないことも研究されていることを知った。
言語の間で単語の意味が微妙に違うことを、
どう説明するかということが(おそらく)考察されている事を知った。
とても興味がある。

mercredi, novembre 30, 2005

sans titre



お久しぶり、
こっちでは、こっちに棲んでる鬼が
稀代のストーリーテラーがヤバい本だしたよ。
おれたちにはくれたんだ。うれしかった。感謝。
がっつり、読ましてもらいました。
よかったら手にとってみてよ。

ヤバいヤバいいってる「だけ」じゃいみねえ
ってbosstinoがいってる気がする。
このほんでもおなじさ

samedi, novembre 19, 2005

tractatus.14

「私の言語の限界が、世界の限界を意味する」

私の言語の限界はいかにして確定されるか、それは私がいかなる要素命題をもっているか、いかなる対象にであっているか、いかなる存在論的経験をしてるかによっています。その言語の限界は、確かに、論理空間の限界と一致してます。よって、「私の言語の限界が、世界の限界を意味します」

「世界は私の世界である」とはなんでいえるか

私は他の存在論について、語ることも示すこともできない。自分の論理空間の外にあるから。
私の存在論は語ることでできず、しめすのみ。語るための前提だから。
という考え方

「世界は私の世界である」:「世界の限界を定める対象領域」と「私の世界の限界を定める対象領域」がおなじであるという考え方の表明ですこれは。ただし「世界は私の認識した範囲だけに限られる」というのではありません。もちろん私が確認してない事態というのはあります。でも私は、世界の全部の対象について語りうる、出会える原理的に。ということは、世界にある対象の全部と、私の世界にある対象の全部は、最終的に一致する。かな?でももし、世界のそとにあるもの、語り得ないものも世界・対象として認めたら、ウィトゲンシュタインみたいな独我論はとれないよ。

他の存在が他の存在論を開いているかもしんないと、いう「かもしれない」というのは、どれほど強い実感であっても、根拠のない実感でしかあり得ない。きっとあるだろうと思う、それはしかしまともな思考ではあり得ない。こうウィトゲンシュタインは考えた。そこから、自分は??

(「ウィトゲンシュタインが「私の言語」と述べる理由は、名と対象の意味論的関係が私の志向性に基づくからというのではない。私はそう結論したい」:飯田隆みたいな結論を受け入れないとしたら、これを受け入れることになるか。そうしたら、



…志向性というのが像関係を成立させているというのは転倒で、その逆である、という考え方に組することになるのか。)

done!よろしい!

tractatus.13

要素命題の相互独立性、これをL・Wはドグマ的に信じている。そこから、『論考』の対象が有限であることも説明できる。つまり、自然数のように無限個のものを捉えたかったら、操作によって構成するのでなければならない(フレーゲ的な関数観とは異なるため)。しかし、操作によって構成したものどうしの間には、内的関係が生じてしまうのである。(例えば、「aは3メートル」という命題は「aは4メートル」と両立不可能、という関係が生じる。「aは3メートル」といったら論理語の働きによらず、「aは4メートルではない」ということを含意)。これは相互独立性に抵触する。だから、構成したもの・無限のもの(具体的には自然数)を『論考』は対象として認めていません。こうして『論考』においては、対象には、存在論的な経験で出会うしかありません。
しかし、相互独立性、それが間違ってるとしたら、対象が有限である必要はなくなる。対象を無限に構成していける。

5.32 すべての真理関数は、要素命題に対し操作を有限回くりかえし適用することによって得られる。
これは真理操作が無限界適用されてはならないという趣旨の発言ではなく、実際問題として、有限回の真理操作ですべての真理関数(命題)は得られる、つまり論理空間は有限だということを表明しているのである。けどねー要素命題の相互独立性を撤回するなら、対象は無限に構成できて、しかも論理空間は有限。しかし操作の「以下同様」によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。
こうして、不具合は生じない。

tractatus.12

『論考』の体系:論理語に全称量化子、存在量化子がはいってない。命題論理にとどまる。述語論理はカバーしてない。
対象が有限であるときは、述語論理が必要とする表現力は論考の範囲でまかなえる。
では対象が無限のとき、「すべてが点灯している」をどう表すか。「aかつbかつcかつ…」と無限のかつであらわせばいいのか。
それはダメって論考に書いてある。

「真理操作の無限回の適用を拒むほど厳格に構成主義的立場を取ろうとするものが、無限個の基底を一気に操作するようなことを許すだろうか」
操作をうける命題も有限個じゃないと。
ということは、論考の対象は有限なのかい。(無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れる、ということは対象が有限だから論理空間も有限だという説明では不十分だということになります)
『論考』的には、対象が何個あるのかということは、個人の体験に依存する。(不十分)

上限はない:原理的には無限の対象にであうことができる
無限ではない:実際無限の対象に出会うような経験はない

というのが、仮に『論考』の考え方だとします。でもよー無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れるのです。ということは対象が有限だからといって論理空間も有限だといえなくなります。『論考』の説明は不十分だということになります。
とおもってたら、、、だよマジで。

tractatus.11

関数f(x)=x+1に自然数を構成する力のないこと:lwのいい分
0を代入して、1を得る、そしてまた代入し、2を…そして自然数。というわけにはいかない。なぜならL・Wによれば関数はドメインとコミになってはじめて意味を確定する。それゆえ、定義域が最初0なら、それを代入したf(x)=x+1にこんどは1を代入する、ということはできない。1がだいにゅうできるためには、最初から定義域に1が含まれてないといけない。ソーユー感じで、f(x)=x+1で自然数を出したいのなら、最初から定義域に自然数が含まれてないといけない。それゆえf(x)=x+1では、自然数を構成できない。

フレーゲ
P∧Qの、P、Qは変項。ここにT/Fが代入される。出力は、P∧Qの真偽:構成要素の真偽から、命題の真偽への関数:それを真理関数とよぶ。
L・W
P∧Qの、P、Qは変項ではない。命題。P∧Qはただの命題。∧はP、そしてQが真となるような具体的状況(真理領域)の共通部分を取り出すという「操作」である:だから別に、関数ではない。かれも真理関数っていってるけど、それはいささかも関数ではない。

L・Wに従ったとして、論理がア・プリオリ、とL・Wみたいにいえるとする。すると、論理語は、真理関数ではありえない。だってもし論理語が関数だとすると、関数は定義域にいぞんしてますから、その定義域は、いかなる対象があるかということに依存します。いかなる対象があるか、ということは、ア・プリオリに定まらないです。ということは、論理語が関数だと考えるのは、おかしい。
しかし、操作だったらいつも同じ。どんなモンがきても、操作はいつも一定のもの。∧(共通部分)∨(合併)…。
つまり、論理のア・プリオリ性とは、操作のア・プリオリ性のことである。

論理空間のア・プリオリ性:
いかなる対象(名)が存在するか、いかなる要素命題(事態)があるか(これが決まれば論理空間は決定する)
このことは、ある命題の真偽(経験によって確かめること)に先立つ。(認識論的経験に先立つ)
しかし論理空間自体はいかなる要素命題があんのかに依存している。したがって、強いアプリオリではない。

論理空間の可能性について。それが「理解可能性」だということ。だって、論理空間がW1〜W4みたいなもんだとすれば、まず、W4の真理性が存在論的に要請される。そうじゃねーと、対象aや対象bに出会えなかったり、するときがありますもん。まず、成り立ってるところから(事実から)いかないと、そっからじゃないと可能性も何もないっす。いま論理空間がこうだということは、これこれがなりたっている、そして、そうじゃないこともありえた…これじゃまちがってるな???なんども戻ってくること。p. 162

dimanche, novembre 13, 2005

le 9 octobre

sunday 9 October

ある待合室で
物理を専門にしたという職員にはなしかけられる
おそらく明らかに大学生風でない風体・態度と
哲学という言葉が気にかかったのだろう、
 哲学などやってくっていけるのかね?
と突然尋ねる

食っていけるということでアナタが意味していることはどようようなことですかもし生活していくというような意味ならバイトでも何でもして食っていけばいいだけの話ではないですかそこに何の問題があると言いたいのですか本当にしかるべき状況になれば段ボールでもブルーシートでも集めて暮らしていきますその程度の覚悟もなくて哲学などできるはずもない確かにポストもなくて大変ですよねでも頑張っていくつもりですみたいなことお前に言うつもりはまったくねえ

しかし、哲学なんて、何なんだね?
そんなこと、おそらく何度も自問した
つまり、彼は明らかにかつて自分のなかに存在していた
自分のなかに存在したダークサイドです

恐れ、怒りはダークサイドへと導く、ジェダイは恐れない
学ぶことを。

lundi, novembre 07, 2005

investigations#74

#74また最初に戻ってきた。ここまで「見る」「考える」「として見る」をブレインストーミングするため、みんなにどーなってんの?を考えさせるため詳細に進めてきた。ここからまた始まる。
「見る」:反省の欠如(意識の焦点化の欠如、疑いのない態度)
「考える」:(自分の意識の焦点に持ってくる。反省)
おそらく。「として見る」は「考えるの始まり」だ!!!!!!

#78アスペクト変わったあと、その後その見方が持続する時、その時、「見てる」のか「として見る」なのか。こんなこというために、ずっと論じてきてる。

(詳細な、観察により、概念を分類していく、こまかくどんな場合は?とかをみていく。
アリストテレス霊魂論と意図的ではないはずだが酷似)

アスペクト:見え方みたいもん#25らへんをみるとわかる

例えば、それまで、まったくアヒルにしか見えてなくて、他にみえかたあるって知らなかったのに、いきなり、「ウサギ!」ってなった時、その浮き上がってきたものを「見てる」「として見る」どっちやねん。
その瞬間は「見てる」のきがするんすよ。そんで、あとはどっちも行き来できるんで「として見る」だとおもうんすよ。
いまんとこ。

investigations#72

#72
“でも、そんなことやって、「見る」「知る」「として見る」の区別とかいって、哲学とかいってがんばってやってっっけど、生理学的に調べればわかんじゃないの?典型的に「見る」と言えるような場合の脳の状態を、fMRIでしらべて、また「知る」の典型的な時に活動してる脳の部分をまたfMRIでみて、ひかくすればいいじゃん。この脳波でてるときは、「見る」で、ここが活発になってる時は、「知る」なんだ、ってわかんじゃん。原因がわかんないなら、科学が進歩すればわかります。哲学でやるいみなくない?”

さりげなく根本に関わる問題、それとなく書いてある。

彼はいみあるといっている。その理由は

investigation#68

#68階段を、突き抜けてる一本の線、の絵。ああ、これは階段の中を線がとおってて、中を通ってる部分は見えてないけど、階段は段になってるから、所々、みえてんのね。
そうわかって、いるのに、わかってんのに、そう見ることができない人。他には、これは、平面にかいてあるけど、ああそうだ、見方によっては浮き上がって見える絵だ。とわかってんのに、そう見ることができない人。この人は、できる人と結果として何が異なってくるんだろう?
行動。(例えば、その図をつかって立体幾何学の論証をさせた時、その図をそう見れてない人は、途中から論証についていけなくなる、ということがおきるかもしれない)
その人が、そう見えてるかって、ほんとは分かんないのだけど、外から見たときの基準:適切にふるまってるか。それが認定基準になってますね。


#69「…を見る」「…として見る」「…を知る」の区別がここらへんからなされてくる。
矢が首を貫通しているように見える鳥の絵。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか
矢が首を貫通しているように見える鳥のシルエット。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか

基準は、リアリティだと理解する。リアルな時、それを見てる。リアルじゃなくなるに従い、それは、知るになる。

tractatus.10


『論理形式について』『哲学的考察』をもとにした考察
数:「きっかり」=「他はならなかった」:複合的っていうからには、…はならなかった、…はならなかった、…はならなかった…と無限に続く分析をするのかよ。というか、…は存在していない対象だから、名はつかないよ。だから「他はならなかった」という句は成立し得ない。

・ある要素命題から、他の要素命題が帰結することはない。(帰結するときは、要素命題ではない)
・命題相互の論理的関係は、論理語の働きによるもの。論理語を持たない要素命題が論理的関係にたつことはあり得ない。
・ある要素命題の真偽は、他の要素命題の真偽に対して、論理的に何の影響も与えない。
 

そんなことないよ。論理語持たなくてもね。「これは青い」は「これは青くない」を含意する。
このような、論理語の働きによらない論理的関係を彼は、後に「文法」と呼びます。
(上のヤツは、『論考』に存在するドグマだといえる)

でも別にそれだけで、それは、『論考』を崩壊させはしない。(論理空間のありかた、無内容な表現が、増える、まあそれだけよ。)
要素命題の考え方、保持。論理語に関する考え方、保持。世界のあり方を記述した命題が像という性格を持つという考え方、保持。
です。

tractatus.09

なぜ単純な対象が必要か

論理空間は、確定していなければならない。そのために、単純な対象が要請される。
論理空間は確定しているとL・Wは考えていた。そこから、論理空間を確定するための、単純な対象があるのでなければならない、ということが導かれてくる。
単純な対象を把握した上で、
4.116 およそ考えられることはすべて、明晰に考えられうる
(論理空間は確定していて、その論理空間を私たちは捉えることができる。そしてさらにその外にあるものを、内側から限界づけることにより、示すことができる)
と述べているのではない。逆aruyo。
こうできるのでなくてはならないはずで、だからこそ単純な対象を必要としている。

tractatus.08

複合命題の、複合的な指示対象が存在しない時、その命題は、偽になる。

「「N夫妻は動物園に行く」という命題は「花子は動物園に行く、かつ、太郎は動物園に行く、かつ、花子と太郎は夫婦である」のように分析される、もし結婚していなかったら、「花子と太郎は夫婦である」の部分が偽であるため、「N夫妻は動物園に行く」は偽である」
「aはf」という要素命題を考えよう。「a」「はf」も名である。その指示対象は単純。そのaがいないとき、無意味になる。偽ではない。これは、大切だ。
「というのも、「aはf」は要素命題であるから、その名がいかなる対象をも表さないということになれば、それは単純に像として成立していないものとなり、像でないものに対しては、真とはいえないのはもちろん、もはや偽とはいえない」

ここに、単純なのものと複合的なものの決定的ちがい。名は対象を表す、だからその指示が空振りし、名指されるべき対象が存在しないということになったら、それはもう名ではない。
それゆえ、名ではないものを含んだ表現は、無意味となる。
(ちょっと変に思うのは、性質語で単純といわれている「白い」とかが名ではないときってあるのか)

(でもだいたいはそうなってないよね。何も指示してないような語が入ってる文が無意味だとすぐいえないってラッセルも気づいてた通りだ)
他方、複合的なものを表す表現は、名ではなく、その構成要素に関する記述に他ならない。記述された複合物が存在しないとしても、その記述が偽であったとして捉えられる。(ラッセルの分析に近い)

tractatus.07

語ることが成立する前提:その命題が真であったときに…
矛盾は、真ではない。よって語ってない。

to-torojiga munaiyou na koto
understand??

tractatus.06

論理語は、名ではない。名だとすると、¬¬p, とpが異なる事実を表していることになるが、実際はそうでないため。
「論理空間」に否定はない。可能な事態に、否定的なものはない。

mardi, octobre 25, 2005

sans titre

‘言語によってしか考えることができない’

(その人たちが言うような意味では)
そうともおもえません。
(たとえば部屋の模様がえを具体的に頭の中でかんがえている時)
(模様がえを、家具に見立てて四角にきった小さい紙切れを並び替えながらかんがえているとき)
(模様がえを、家具を縮小したプラモデルを作って並べ替えながらかんがえているとき)

そして譲歩してそうだった場合には
そこからどういったことを導けるのか、
を聞きたいです。

じぶんにとっては、別にふーンて感じです。
すごいこととは思わないです。

jeudi, octobre 20, 2005

tractatus.05


フレーゲの関数は、実質を持ってる。
だから、関数それ自身も対象として、また関数に入力できた。
しかし、『論考』:関数は言語のあり方を整理するための便法。
実質なし。入力項としての名と、出力項としての命題、それだけ。
関数をノミナルに考えてる。

フレーゲ:固有名は飽和した表現。他の何かによって補完される必要ない。
L・Wはある。固有名も、述語によって、補完されないといけない。

定義域が異なる関数を、もはやおなじ関数とは捉えない。
それは、定義域というのが、関数の意味と本質的に結びついているからである。
定義域と、値域は、その関数の論理形式を示すものだろう。
ということは、定義域が異なれば、関数の論理形式はもはやかわっている。と考える。
だから、別の関数なのである。


「命題関数が、定義域と独立に決まっていると考えるならば、トマトに“トマちゃん”という名前を付けたとして、「トマちゃんは神経質だ」偽になる「トマちゃんは神経質ではない」は真である」しかし、L・Wなら、「トマちゃんは神経質だ」は無意味だし、「トマちゃんは神経質でない」も真ではなく、無意味だ。と言うだろう。「トマト」の論理形式のなかに、「トマトーX」の定義域のなかに入ってないのだ、「神経質」は。

xは神経質である、という関数の定義域は、
人間とか、それっぽいやつ。普通は。
その定義域に、トマトが入ったとすると、
もうそれは、違う関数だと、かれは考える。
(規則が変わったのかな?だから、意味も変化していて。
トマトに、神経質だとか、そうではないとか
述べることができる世界においては、
「神経質」の意味が既に変化している…のかな)

tractatus.04

3 different understandings on the function- "wittgenstein, Frege, Russel"

a function: X is white
frege: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a true/false value.
russel: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a propsition. and this proposition is "the meaning of that expression". だから関数は、命題内容、対象において働く。
wittgenstein: proposition is just an expression. 関数は論理形式解明のための道具。domain is not references but names. range is not a true/ false value, but a proposition, which is just an expression.

tractatus.03


ある概念が自分自身に述語づけられる例
「漠然」は漠然としている
「猫」という概念は猫ではない(そうじゃない例)

W(x)を「xは自分自身に述語づけられない」という関数だとする

「漠然」は漠然としている、というのは、
漠然(漠然):Xは漠然としている、という関数に、
漠然という項を代入したものと考えられる 
だから、xは自分自身に述語づけられるというのは、
X(x)と書ける。
だから、W(x)=¬X(x)とかける!
Xは変項だ、からWを代入しよう
W(w)=¬W(w)
よって、矛盾する
オーケー、ラッセルのパラドクス、
オーケー!

mercredi, octobre 19, 2005

tractatus.02

論理空間をとらえるため、思考の限界へといくため、対象を言語で写し取り可能的結合を作るため、、対象というのを、捉えないといけないんですが、それには、対象の論理形式、つまり名の論理形式を捉えないといけないです。論理形式は、対象の、持ちうる性質を理解するといったいみで、捉えていないと、いけない(ほんとは、なぜとらえないといけないか、わかってません)。しかし、名の論理形式だけでは十分でなく、「この」という名指しが、個別、区別をし、名が論理形式を示唆する。このようにして、対象を切り出せる。しかしながら、そもそも論理形式はどうやってとらえんの?というと、そら、なじむことです。説明されるべき論理形式は全体に広がり、巡り巡って循環する。一つずつ説明することは不可能です。巻き込まれることでしか、解明されない。です。

jeudi, octobre 13, 2005

tractatus.01

note

「成立していない事態の場合、それはただ代理物の配列によって表現されているにすぎない。可能的なものがどこか人目につかずあっちの方に鎮座しているかのうような気分は払拭していただきたい。成立していない事態というのは、現実の代理物によって表現される以外、生存場所を持ちえないのである」

2.01 事態とは諸対象の結合である。

事態とは、対象という世界の中にあるもの(じっさいにある。事実)の代替物(像としての言語)を、実際に、結合させることである。それによって、可能な結合の全て、「論理空間」を考えることができる。

「論理空間とは、可能な事態の全て、世界のあり方の可能性として我々が考えられる限りの全てである」
ということは、論理空間の限界を確定すれば、思考の限界を確定したことになります。

論理空間を考えるには、それが、可能性というのを含んでいるから、可能性について考えられないといけないんだけど、この世界には、成立していることしかなくて、成立してないことってのは、この世界には文字通り「ない」のだ。だから可能性を考えるためには、現実の対象を言語で写し取って、それを並べ替えて、可能的結合(いろんな文、つまり考え)を作って、全部を考えてみないといけないのである。

論理形式:「ある対象の論理形式とは、その対象がどのような事態のうちにあらわれうるか、その論理的可能性の形式のことである。例えばある対象aが赤い色をしていたとしよう。対象aにとって赤という色は外的性質であり、他の色を持つこともありえた。つまり〈aは青い〉、〈aは黄色い〉等の事態も可能である。このことを「対象aは色という論理形式を持つ」と言う」

jeudi, octobre 06, 2005

generative grammar


…“科学では、事実を説明するための法則は、一般的、単純であると考える。
法則は、その適用範囲が一般的(いろんなことを説明できる)、
形式が単純(エレガント)であるほど、価値が高いとされる。

ただし、一般的であることに価値を置くのはどの科学にも当てはまるが、
単純さに価値を置くのは、
物理を中心にする非有機体をあつかう科学だけではないだろうか。

物理を中心とする近代科学の基本は、「自然は無駄がなく単純でエレガントに作られている」。

ところが生物学では、そうは考えない。生物の世界は、偶然や試行錯誤の結果現在に至った。
そのため単純でもエレガントでもありえない。
複雑な生物学的システムというのは、一般に「不完全」
たとえば利根川進の発言
「ネイチャーというのはロジカルではない、特に生命現象はロジカルでない」”って…

引用。

すべて疑問形にして書く。
生物の世界は単純でエレガントな形式から
なりたっているのではないのですか?
物理(近代科学)では、
「自然は無駄がなく、単純でエレガントに作られている」
とかんがえますが、
生物学ではそう考えないのですか?
生物学的システムは、基本的には、無駄なものとかいらなそうなものを、
いろいろ含んでるんですか?

物理の対象である非有機体の世界が、
無駄なく単純でエレガントに作られているのはなぜだ?


ホントカイー???

investigations#63

メモ的に
#62
共通の刺激という考え方がうまくいかないと。
もう「空間的に見てるときは空間的にみえてて、平面のときは、平面に見えるんだよ」
といいたくなる。
しかしそれは、説明にはなってない。
…視覚印象の分析をすれば、どういうときに、どのようにみえてるかということに答えられるような、説明を考えだせる。と思ったけど、結局できてない。
視覚印象の分析では。
では、L・Wは結局わかんねーじゃんということがいいたかったのか??
そうではなく#61何に見えてるのか、ということの答えは、その人の記述で、それが最後ということ。
その人がどう見てて、どう見てるとこたえるか、それが、なににみえてるかの回答になる。
しかし、それは、もともとの出発点に逆戻りした。
「なににみえます?」「魚」その時、その人は、「魚」と記述する限りにおいて、魚に見てる…。
というかんじ。
これじゃ最初の出発点にまた戻ってきてしまった。
けど出発点、じっさいのありようが、もっとも根本的ていいたい
彼。

jeudi, septembre 29, 2005

sans titre

holismという主張について、
引っかかったところが解決した。

ある命題を捨て去って、体系を保とうとするとき
確かにどれかを選ぶけど、
ひとつを選ぶけど、その選択肢は、たくさんある。

もし、テレビの映らないときに、
あれなんでだろう?
そして、
“自分の目が正常である”
という命題を破棄したとして、
医者にいって、目を治してもらって、
うちに帰ってきたら、テレビがよく見えたとする。
そのときに、じゃあ自分の目のせいだったんだ、
というふうに納得して、もいいが、
実は、その医者はやぶ医者で、自分の目など治していなかったが、
医者のいうことだから信じてしまっていて、
実は、停電していただけだった、と考え直すこともできる、
このように、どこまでも、「でもそれが原因なんじゃん」と
いいきれずに、続いていく。この特定の、命題が、絶対に間違っているとは、
いいきれない。間違ってないかもしんない。
もしくは、間違ってるととして捨てさることができるものが、ほかにもある。

で、いいんだろうか…?自信ネース。

その中で、これを捨てたら、うまくいきそう、
なものを、捨てる。たとえば、これを捨てたら、ほかの信念についても
いろいろと考え直さないといけないようなやつは、
なるべく捨てない。
なるべく、ダメージがすくないものを選択しようとする、
という努力はある。

mardi, septembre 27, 2005

part2 #60

ある画像が浮いているように見える時と、おいてあるように見える時とで、何か明確な違いがあるとすれば、それは、記述の仕方ぐらいで、また、解釈の観点から何か説明しようと試みても、同語反復にしかならない。ということが言いたいのか…??

jeudi, septembre 22, 2005

untitled

fontが明朝体だったので、
気に入ってこのやつにかえてみました。パクリです。

ちなみにとくにすきなのは、「osaka・等幅」というやつです。
いいです。
ほかにもyakitori,shotaro?,pico,airlineなど、
いろいろ手にいれました、thx.

macにしてから、ネットて見てる画面の字も
簡単にかえられるようになったので、いろいろやってみてます。
osakaはできるけど、でもアルファベットの文字を「osaka等幅」
にできない。ので明朝体。明朝体もヒラギノと平成明朝てのがあって、

たぶん筑波大のロゴwebとかの上にでてるやつ、は平成明朝、

とおもう。

mercredi, septembre 21, 2005

sono3

#55じゃあ、「この三角形がなんかを表しているような、そんな絵を描いてみよ、その絵が表しているものが、…として見えているものである」

これはつまり、この図形のアスペクトを一つに固定してみよう、ということであると思います。
アスペクトはいろいろあるけど、ある背景を持った絵の中に放り込むと、
あるアスペクトしか生じなくなるということ。
たとえば、草原や、太陽を描くと、山にしか見えなくなります。
aspect te nani?
(これが#54までの批判に対する新たな説明になっているのかは、理解できていない)

#55までは「見る」といってて、急に「描く」ということが問題になったのはどうしてだろう。
それは「見る」という行為と、「描く」という行為が逆関数なっているからです。
「見る」という行為:ある図を言語に変換すること
「描く」という行為:言語を図に変換すること
(三角形の図をxとおき、見え方をy1:立っている山、y2:倒れている塔、y3:フックにかかっているワイヤー…とすると、「この図xのみえかた(意味)はyである」という関数:「の意味(x)=y」ができる。
この関数の逆関数をとると、「この言語表現yは図xである」という関数:「の絵(y)=x」になる)

この三角形は何を表しているか、という問いは、この図形がある絵の中におかれたら(これはアスペクトを意図的に一つに固定する行為)、何に見えるか?のすべてのバリエーションを考えること。






しかし、以下の問いは残ったままになる。
「じゃあ、ある図形がある絵の中に持ち込まれたとき、なぜ・どのようにして、何かに見えるのか」
「そもそも、私たちは視覚からどうして意味を読み取るのか」
iya somo somo
「なぜ、絵画は絵画として見えるのか、単なる色の分布にすぎないのに」

sono2

しかし、この説明で、「上にフックがあると解釈する」ということと、
「ぶらさがっていると見る」ということの間に何の違いがあるのでしょうか。

「フックがあると解釈する」ということはつまり「何かにぶら下がっているワイヤーのようなものと解釈する」ことと同じです。
つまり、「この図形を何かにぶら下がっているのもとして解釈するときには、何かにぶら下がっているものとして見える」と言っているのと同じことです。

つまり、ぶら下がって見えるということを説明するのために、
ぶら下がっているという言葉をすでにつかってしまっていて、結局何の説明にもなっていません。

「解釈」というのを使った説明が、うまくいかないとなると、
「じゃあ、共通のものを見てるのに、違って見えるというのは何故なんだ!」ということになります。
「共通の刺激という事実/違ったものに見えるという事実」がうまく説明できないので。二つの事実があるのに、どうして説明できない…?
ここでこの人たちが前提としているのは「一方に共通の刺激が、それに二次的な解釈が」という考え方です。
L・Wはそれらを前提とする考え方を繰り返し批判しています。workしないということは、前提が誤っている。

『探究』Ⅱについてのノート

二等辺三角形が、等しい長さの一辺を下にして、描かれている。
この図形を見たときに、「何に見えますか」と聞かれたとします。

そのとき人によって、山・くさび・ぶら下がっているもの・
短い一辺を下にして立っているはずだった図形が転倒している…のように、
様々な別のものとして見ることができると思います。

ここまではいいと思います。
見ようと思えば、いろんなものに見えてくると思います。

それはなぜか。なぜこの三角形が、様々なものに見えるんだろうか。

それに対するひとつの説明は、「ある人は頂点の部分にフックがあると考える、そのように解釈すれば、そのときにはそれにぶら下がっているように見ることができるし、またある人は下に草原を、上に太陽を想定するという解釈を加えている、そのような時には、山と見る事ができるのだ」というものです。

このような説明の仕方をとろうとする人たちは、
「各人の目に入ってくる視覚情報(センスデータ)は同じだが、
そこに施す解釈が違うので、違って見える」という考え方をしています。

共通の刺激・そこに施す解釈、です。