vendredi, septembre 21, 2007

「概念枠という考え方そのものについて」について

本発表の目的
 本発表の目的は,アメリカの哲学者デイヴィドソン(Donald Davidson. 1917-2003)の論文「概念枠という考え方そのものについて 」(以下CSと略記)の議論を紹介することである.あわせてCSの議論に対するひとつの批判を取り上げ,それに関する自分の意見も付け加える.

なぜこの論文を扱うか
 私には,人間言語は翻訳可能であり,翻訳できないほど異なる言語は存在しないのではないか,という直観がある.CSはこのまさにこの問題を哲学的に論じている重要な論文である.
 より具体的には,CSにおいてデイヴィドソンは概念相対主義(言語相対主義)をある根本的な視点から批判的に検討している.概念相対主義は「言語によって世界の切り取り方が異なる」という興味深い主張だが,この立場をつきつめると翻訳不可能な言語の存在が導かれる.彼は概念相対主義の背後にある「枠組みと内容の二元論」がドグマであることを指摘し,最終的に概念枠というものには意味を与えることができないと結論した.
 
概念相対主義とはなにか
 デイヴィドソンの議論を見ていくにあたって,まず概念枠とはなにか,次に「概念枠と内容の二元論」とはなにかを説明し,さらにこの二元論を採用すると概念相対主義というものが導かれることを示そう.

概念枠とは
 デイヴィドソンはCSの最初で次のように述べている.

 概念枠とは経験を組織化する方法であり,感覚のデータに形式を与えるカテゴリー体系であり,個人や文化や時代が眼前の光景を探求するための視点である.(p. 192)

 つまり概念枠とは,我々があるものをある概念のもとで捉えるための装置である.例えば我々は概念枠によって,目の前のあるXを「雪」や「みぞれ」や「雹」と把握する.そういう装置として概念枠を理解すればよい.その上で彼はこの概念枠を言語と同一視してよいだろうと主張する.異なる言語でもそれらが相互に翻訳可能であれば,同じ概念枠に属していると考えられる.つまり概念枠は相互に翻訳可能な言語の集まりのことだと言える.

「概念枠と内容の二元論」とは
 片方に経験を組織化するものとしての概念枠(言語)があり,もう片方に組織化されていない世界がある,と考える二元論のことである.この二元論は我々にとって,(特に言語学を学んでいた自分にとって)サピア・ウォーフ的言語観として既になじみ深いものになっていると思われる .

 われわれは,生まれつき身につけた言語の規定する線に沿って自然を分割する.われわれに現実世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは,それらが,観察者にすぐ面して存在しているからというのではない.そうではなくて,この世界というものは,様々な印象の変転きわまりない流れとして提示されており,それを我々の心—つまり,我々の心の中にある言語体系というのと大体同じもの—が体系づけなくてはならないということなのである.われわれは自然を分割し,概念の形にまとめ上げ,現に見られるような意味を与えていく.そういうことができるのは,それをかくかくの仕方で体系化しようという合意にわれわれも関与しているからというのが主な理由であり,その合意はわれわれの言語社会全体で行なわれ,われわれの言語のパターンとしてコード化されているのである.

 言語が様々な印象の流れにすぎない自然を分割し体系化すると考えるこの言語観において,言語の第一次的な機能は,表現技術つまりコミュニケーションの道具ではなく,組織化されていない・個体化されていない世界を組織化することなのである.こうした主張はしばしば「言語が世界を切り取る」という形で表現される.
 
「概念枠と内容の二元論」からどのように概念相対主義がみちびかれるか
 「言語は世界を組織化・個体化するもの」という上の主張を受け入れたうえで,我々のものとは異なる概念枠をもつ人がいたと仮定しよう.その人は我々と異なる概念枠をもつのだから,我々とは異なる仕方で世界を組織化・個体化していることになる.こうして,概念枠と相対的に世界が異なる現れ方をすると考える立場が導かれる.概念相対主義は,我々のものとは異なる概念枠が複数存在し,その概念枠と相対的に世界が異なる現れ方をすると主張する立場のことである.
 この立場の主張を簡潔に示す有名な議論に,色彩と時間概念に関するものがある.例えば我々は虹を赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七色で「切り分ける」.それに対しナヴァホ語は青と緑を一つの単語でまとめてしまう.物理的には切れ目のないスペクトルを言語が切り分けている,だから日本語とナヴァホ語の使用者ではその目の前に現れる世界は異なる,というわけである.時間概念の議論 は,アメリカインディアンのホピ族の語彙には時間に関する語彙がないから,この民族は我々のような仕方で時間を捉えていないのだという議論である.

概念相対主義のどこを批判したのか
 概念相対主義は基本的な前提として「我々のものとは異なる概念枠が存在する」と考える.概念枠は翻訳可能な言語の集合であるから,上の文は「我々の言語に翻訳不可能な言語が存在する」という主張でもある.デイヴィドソンはこの主張が受け入れられないことを示すという形で概念相対主義批判を行った.

なぜ上の主張は受け入れられないのか:Aの場合
 CSは翻訳不可能性を二通りに分けて論じている.翻訳不可能という場合,我々の言語からみてA「全面的に翻訳不可能」B「部分的に翻訳不可能」という二つのタイプの言語が想定できる.Aの場合からみていくことにしよう.
 まずデイヴィドソンは,概念相対主義の言語観つまり概念枠と内容の二元論がしばしば持ち出す言語の基準を二つに分類する.それは「組織化」と「適合」である.この基準は①「言語は経験を組織化する」だとか,②「言語は経験と適合する」という形で表現される.①が意味するのは,言語は個体化されていない世界を原初的に個体化する,ということである.②が意味するのは,言語が世界のあり方に適合するということであるから,言語は真である,ということだ.
 こうした言語の基準は,我々の言語に翻訳不可能な言語の存在を保証してくれるだろうか.それはない,というのがデイヴィドソンの答えである.
 
概念枠は経験を組織化するという考えはなぜおかしいか
 デイヴィドソンは次のように述べている.

 単一の対象(世界,自然,等々)の組織化という概念に明瞭な意味を与えるためには,その対象が他の対象をふくんでいるか,他の対象から構成されていると理解される必要がある.戸棚を整理しようとする人は,その中のいろいろなものを整理するのである.もしも,靴やシャツではなく,戸棚そのものを整理せよと言われたなら,当惑してしまうだろう.(p.204)

 「戸棚を整理しようとする人は,その中のいろいろなものを整理する」というメタファーが意味するのは,組織化というのは(すでに個体化した)複数の対象を整理・分類することであって,分節化していない世界を原初的に分節化することではない,ということである.彼の主張によれば,組織化はすでに個体化した対象を前提としているのだから,どんな概念枠に属している人も同じような仕方で世界の個体化を行っていることを意味する.個体化の仕方を共有する概念枠どうしは必ず翻訳可能である.すなわち「経験の組織化」を言語の基準に使用とした場合,それを翻訳可能性から離れて理解することはできない,というわけである.

概念枠は経験に適合する(真である)という考えはなぜおかしいか
 「真である」というこの基準と概念相対主義の主張を合わせると,真でありながら我々の言語に翻訳不可能な言語が存在するということになる.これについてデイヴィドソンは次のように述べている.

 したがって,我々自身のものと異なる概念枠の規準は,概して真だが翻訳可能ではないもの,ということになる.これが有効な規準であるかどうかという問いは,言語に適用された真理概念を,翻訳可能性概念から独立に我々がどれだけ理解しているか,という問いに他ならない.私の考えでは,回答はこうなる.翻訳可能性概念から独立には,真理概念は全く理解できない.(p.207)

 なぜ真理概念は翻訳可能性概念とは独立に理解することはできないのだろうか?デイヴィドソンの考える理由はこうである.我々の真理という概念の用いられ方に関する直観を最もうまく具体化しているのは,タルスキの真理論である.つまり,ある言語のある文が真であることを理解するためには,その文の真理条件を知ること,つまりタルスキの定義したT文を理解することが必要である.そのためにはその文が我々の言語のどの文に翻訳されるか知らなければならない.したがってこの基準も翻訳可能性からは独立ではない,というものである.しかしなぜ,タルスキのT文の理解には,翻訳が不可欠なのだろうか.
 
タルスキのT文とは
 タルスキは,実質的に適切な真理の定義が満たすべき条件として,ある形式言語Lの真理定義から「Xが真であるのはpであるときまたそのときに限る」という形の文(T文)の全てが定理として帰結することを挙げた .重要なのは,Xにはその言語Lの任意の文,pにはそのメタ言語における翻訳が入るということである.
 例えば,

 「「○△?□!※▼☆」が真であるのは,雪が白いとき,そのときに限る」
 
 という具合である.
 「○△?□!※▼☆」に英語を代入して考えれば分かりやすいが,たとえ「○△?□!※▼☆」が,我々の耳には全くなじみのない異様な音列だったとしても状況は変わらない.上のような形でその真理条件を理解できているということは,「○△?□!※▼☆」が「雪は白い」に翻訳できることを知っていることになるのだ.デイヴィドソンは次のように述べている.
 
それ(タルスキの真理論)を成功させているのは,既知の言語への翻訳という概念の本質的な使用なのである.規約Tは真理概念の用いられ方に関する我々の最前の直観を具体化している.(p. 208)

 こうして「真である」ということを言語の基準と考えた場合,それを翻訳可能性と切り離して考えることは不可能という結論が導かれる.デイヴィドソンはここで,「我々の言語に全面的に翻訳不可能な言語が存在する」という主張には根拠がないことを示したことになる.

なぜ上の主張は受け入れられないのか:Bの場合
 これについて,デイヴィドソンはこう述べている.

 我々が翻訳の失敗を確認できるのは,それが十分に局所的なときである.というのは,一般的な翻訳の成功という背景のもとで,失敗を理解可能にするのに必要なものが準備されるからである.(p.204)
 
 ごく簡単に言って,翻訳が部分的に不可能ということは,裏を返せば他の部分は翻訳可能ということである.つまり,部分的に翻訳不可能な言語が存在したとしても,それは概念相対主義の主張を裏付けるものにはならないのである.

CSに対するひとつの批判
 以上のようにA・Bどちらの場合も翻訳不可能性がありえないことを示し,概念相対主義(「概念枠と内容の二元論」)の言うような複数の概念枠は存在せず,概念枠というものは無意味な想定,つまりドグマだと結論するのがCSの議論の大筋であるが,この議論に対するひとつの批判を考えたい.

あまりにも異なる個体化があるかもしれないではないか,という批判
 確認したように,デイヴィドソンは,組織化という言語の基準が受け入れられない理由として,組織化とはすでに個体化した対象を整理することであり,世界の原初的な個体化はどんな概念枠に属する人でも同じような仕方で行っている,ということを挙げていた.しかし何の根拠があって,同じような仕方で個体化を行っていると主張できるのだろうか.我々とはまったく別の個体化基準に従っている概念枠があるかもしれないではないか.

回答:認識できない概念枠を存在すると主張する根拠がない
 まずデイヴィドソンの次のような発言を見ておこう.

 我々は言語を精神から分離可能とは考えないことにする.言語を話すことは,それを失ってもなお思考能力を保てるような特性ではない.それゆえ,一時的に自分自身の枠組みを放棄することで,誰かが概念枠の比較のための有利な地点に立てるという見込みはないのである.(p. 195)

 つまり,言語が思考の道具であると考えるなら,その言語を全く放棄して,第三者的視点から,いわば神の視点からある二つの言語がもつ原初的な個体化の仕方を比較することはできないということである.
 そうだとするならば,我々はつねに我々の言語で,我々の視点から他の概念枠の可能性について考えることしかできない以上,我々は別の個体化基準に従う概念枠を認識できないことになるのではないだろうか.我々とは全く別の個体化を行っているとしたら,我々の個体化基準によってその概念枠を捉えるのは不可能であると思われる.捉えることはできないがそれは必ず存在するという主張は,幽霊は必ず存在するという主張のように,たいした根拠をもたないのではないだろうか.

さらなる批判:認識できなくてもとにかく別の個体化は存在しうるのではないか
 これに対して,捉えることができないからといってその存在までも疑う必要はない,という再批判が存在する.ネーゲルは「コウモリであるとはどのようなことか」においてこう述べている .

 …われわれの言語によっては,火星人やコウモリの現象学を詳細に記述することは望むべくもない,という事実があるからといって,コウモリや火星人が細部の豊かさにおいてわれわれのそれに十分比肩しうるほどの体験をもっているという主張が,無意味な主張として退けられてしまうことにはならない.…われわれには記述や理解が全くできないことについては,その実在性も論理的有意味性も認めないというのは,心理的な葛藤に解決策としては最も幼稚な形態であると言えよう.(pp. 266-267)

 つまり彼は,コウモリ・火星人の知覚意識に現れる世界がどのようなものか知りえないとしても,そのようなものが存在することは疑いえないだろうと考えている.コウモリ・火星人の運動の仕方や神経システムを知れば,それらが我々とは異なるある一定の個体化を持つ可能性を考えることができるというわけである.
 もしそうであるならば,ある人が我々には分からない身ぶりや音声で活動をしているのに直面したとき,その人がどんな個体化を行っているかは知りえないとしても,とにかく何らかの個体化をしているということだけは想定できることになり,翻訳不可能な概念枠がありうることになるのではないだろうか.

再回答1:信原幸弘(2004)
 こうした批判に対して信原は,我々はその人たちの行動を狩り・食事・歩行などとして理解しうるのだから,我々はその人たちの個体化をある程度は理解していることになるだろう,と述べている .
 しかしこれが批判に対する答えになっているのか,今の私には分かりかねる.確かに,われわれと似たような振る舞いをする人の個体化をある程度理解することは可能であろう.しかし,もし何をしているのか全く分からない人が目の前に現れたらどうするのか.我々は彼の個体化の内容を理解できないのではないだろうか.

再回答2:経験的事実の蓄積
 この発表の最後に,ネーゲル的な批判に対する回答になりうるものとして,人間の認知作用に関する経験的な研究の成果を取り上げることにする.認知言語学は,人間の認知が言語に深い影響を与えているという視点から研究を行う言語学の立場であるが,この立場からの研究に,上の批判に対する回答になりうるものがあるように思われる.それは,人間の行う認知作用は,人間である以上ある程度共通なのではないかという指摘である.
 例えば,目には三種類の錐体細胞があり,それぞれ赤緑,青黄,白黒の対比に反応するようにニューロンに結ばれており,色カテゴリーは,光の波長を人間の錐体細胞がどう捉え,それが脳内でどう処理されるかに従って生まれるのだということが明らかにされている .
 また,白と黒しか色名をもたないニューギニアのダニ族に新しい色名を教えたところ,焦点色(真っ赤な赤,真っ青な青など,いわゆる原色と呼ばれる色)を非焦点色よりも早く学習できたという報告がある.どちらの色にもダニ語で名前が着いていないにもかかわらず,である .
 このことは,色彩に関して大まかな区別しかしない言語でも,より細かい区別をするようになれば,どのような形で区分を入れていくかということが(人間の認知作用のせいで)既に前もって決められているということを意味しているように思われる .
  認知科学者のピンカーは,クワインの「ガヴァガイ」のように対象物と動作を一緒に固体化するような言語を仮定したうえで,進化論的に見た場合,物の種類と動作を分けて固体化するほうが効率的であると主張し,また赤ん坊を対象とした様々な実験を紹介することで,その可能性に疑問を投げかけている .
 こうした研究による経験的な事実の蓄積は,人間の認知の営みが行う原初的な個体化が,同じ人間である以上かなりの程度共通した形で特徴づけられているということを示唆していると思われる.もしそうだとすれば,あまりにも異なる個体化の存在は,想定できないだけではなく,存在しえないのではないだろうか.



参考文献
ここかえようかな,全部原書にさ
Davidson, D. (1985), “On the Very Idea of a Conceptional Scheme”, in Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford University Press, pp. 183-198(「概念枠という考え方そのものについて」,野本和幸・植木哲也他訳,『真理と解釈』,勁草書房,1991,所収).
Heider, Eleanor, R. (1972), “Universals in Color Naming and Memory”, in Journal of Experimental Psychology 93, pp. 10-20. 
タルスキ, A. (1944)「真理の意味論的観点と意味論の基礎」,坂本百大編『現代哲学基本論文集Ⅱ』,勁草書房,1987年,pp.52-120.
ウォーフ, B. L. (1956)「科学と言語学」,池上嘉彦訳『言語・思考・現実』講談社,1993年,所収( “Sience and Linguistics” in J. B. Caroll(ed.), Language, Thought and Reality, Cambridge, Mass., 1956).
ピンカー, S. (1995)『言語を生み出す本能(上)』日本放送協会出版.
ネーゲル, Th. (1979)「コウモリであるとはどのようなことか」永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房,1989年,所収(“What is it to be Like a Bat”, in Mortal Questions, 1979, Cambridge University Press. )
辻幸夫編(2003)『認知言語学への招待』大修館書店.
信原幸弘(2004)「デイヴィドソンの概念枠批判について」『筑波哲学』13号,pp. 22-32.
山梨正明・有馬道子編著(2003)『現代言語学の潮流』勁草書房.
井上京子(1998)『もし「右」や「左」がなかったら—言語人類学への招待』大修館書店.