mercredi, novembre 30, 2005

sans titre



お久しぶり、
こっちでは、こっちに棲んでる鬼が
稀代のストーリーテラーがヤバい本だしたよ。
おれたちにはくれたんだ。うれしかった。感謝。
がっつり、読ましてもらいました。
よかったら手にとってみてよ。

ヤバいヤバいいってる「だけ」じゃいみねえ
ってbosstinoがいってる気がする。
このほんでもおなじさ

samedi, novembre 19, 2005

tractatus.14

「私の言語の限界が、世界の限界を意味する」

私の言語の限界はいかにして確定されるか、それは私がいかなる要素命題をもっているか、いかなる対象にであっているか、いかなる存在論的経験をしてるかによっています。その言語の限界は、確かに、論理空間の限界と一致してます。よって、「私の言語の限界が、世界の限界を意味します」

「世界は私の世界である」とはなんでいえるか

私は他の存在論について、語ることも示すこともできない。自分の論理空間の外にあるから。
私の存在論は語ることでできず、しめすのみ。語るための前提だから。
という考え方

「世界は私の世界である」:「世界の限界を定める対象領域」と「私の世界の限界を定める対象領域」がおなじであるという考え方の表明ですこれは。ただし「世界は私の認識した範囲だけに限られる」というのではありません。もちろん私が確認してない事態というのはあります。でも私は、世界の全部の対象について語りうる、出会える原理的に。ということは、世界にある対象の全部と、私の世界にある対象の全部は、最終的に一致する。かな?でももし、世界のそとにあるもの、語り得ないものも世界・対象として認めたら、ウィトゲンシュタインみたいな独我論はとれないよ。

他の存在が他の存在論を開いているかもしんないと、いう「かもしれない」というのは、どれほど強い実感であっても、根拠のない実感でしかあり得ない。きっとあるだろうと思う、それはしかしまともな思考ではあり得ない。こうウィトゲンシュタインは考えた。そこから、自分は??

(「ウィトゲンシュタインが「私の言語」と述べる理由は、名と対象の意味論的関係が私の志向性に基づくからというのではない。私はそう結論したい」:飯田隆みたいな結論を受け入れないとしたら、これを受け入れることになるか。そうしたら、



…志向性というのが像関係を成立させているというのは転倒で、その逆である、という考え方に組することになるのか。)

done!よろしい!

tractatus.13

要素命題の相互独立性、これをL・Wはドグマ的に信じている。そこから、『論考』の対象が有限であることも説明できる。つまり、自然数のように無限個のものを捉えたかったら、操作によって構成するのでなければならない(フレーゲ的な関数観とは異なるため)。しかし、操作によって構成したものどうしの間には、内的関係が生じてしまうのである。(例えば、「aは3メートル」という命題は「aは4メートル」と両立不可能、という関係が生じる。「aは3メートル」といったら論理語の働きによらず、「aは4メートルではない」ということを含意)。これは相互独立性に抵触する。だから、構成したもの・無限のもの(具体的には自然数)を『論考』は対象として認めていません。こうして『論考』においては、対象には、存在論的な経験で出会うしかありません。
しかし、相互独立性、それが間違ってるとしたら、対象が有限である必要はなくなる。対象を無限に構成していける。

5.32 すべての真理関数は、要素命題に対し操作を有限回くりかえし適用することによって得られる。
これは真理操作が無限界適用されてはならないという趣旨の発言ではなく、実際問題として、有限回の真理操作ですべての真理関数(命題)は得られる、つまり論理空間は有限だということを表明しているのである。けどねー要素命題の相互独立性を撤回するなら、対象は無限に構成できて、しかも論理空間は有限。しかし操作の「以下同様」によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。
こうして、不具合は生じない。

tractatus.12

『論考』の体系:論理語に全称量化子、存在量化子がはいってない。命題論理にとどまる。述語論理はカバーしてない。
対象が有限であるときは、述語論理が必要とする表現力は論考の範囲でまかなえる。
では対象が無限のとき、「すべてが点灯している」をどう表すか。「aかつbかつcかつ…」と無限のかつであらわせばいいのか。
それはダメって論考に書いてある。

「真理操作の無限回の適用を拒むほど厳格に構成主義的立場を取ろうとするものが、無限個の基底を一気に操作するようなことを許すだろうか」
操作をうける命題も有限個じゃないと。
ということは、論考の対象は有限なのかい。(無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れる、ということは対象が有限だから論理空間も有限だという説明では不十分だということになります)
『論考』的には、対象が何個あるのかということは、個人の体験に依存する。(不十分)

上限はない:原理的には無限の対象にであうことができる
無限ではない:実際無限の対象に出会うような経験はない

というのが、仮に『論考』の考え方だとします。でもよー無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れるのです。ということは対象が有限だからといって論理空間も有限だといえなくなります。『論考』の説明は不十分だということになります。
とおもってたら、、、だよマジで。

tractatus.11

関数f(x)=x+1に自然数を構成する力のないこと:lwのいい分
0を代入して、1を得る、そしてまた代入し、2を…そして自然数。というわけにはいかない。なぜならL・Wによれば関数はドメインとコミになってはじめて意味を確定する。それゆえ、定義域が最初0なら、それを代入したf(x)=x+1にこんどは1を代入する、ということはできない。1がだいにゅうできるためには、最初から定義域に1が含まれてないといけない。ソーユー感じで、f(x)=x+1で自然数を出したいのなら、最初から定義域に自然数が含まれてないといけない。それゆえf(x)=x+1では、自然数を構成できない。

フレーゲ
P∧Qの、P、Qは変項。ここにT/Fが代入される。出力は、P∧Qの真偽:構成要素の真偽から、命題の真偽への関数:それを真理関数とよぶ。
L・W
P∧Qの、P、Qは変項ではない。命題。P∧Qはただの命題。∧はP、そしてQが真となるような具体的状況(真理領域)の共通部分を取り出すという「操作」である:だから別に、関数ではない。かれも真理関数っていってるけど、それはいささかも関数ではない。

L・Wに従ったとして、論理がア・プリオリ、とL・Wみたいにいえるとする。すると、論理語は、真理関数ではありえない。だってもし論理語が関数だとすると、関数は定義域にいぞんしてますから、その定義域は、いかなる対象があるかということに依存します。いかなる対象があるか、ということは、ア・プリオリに定まらないです。ということは、論理語が関数だと考えるのは、おかしい。
しかし、操作だったらいつも同じ。どんなモンがきても、操作はいつも一定のもの。∧(共通部分)∨(合併)…。
つまり、論理のア・プリオリ性とは、操作のア・プリオリ性のことである。

論理空間のア・プリオリ性:
いかなる対象(名)が存在するか、いかなる要素命題(事態)があるか(これが決まれば論理空間は決定する)
このことは、ある命題の真偽(経験によって確かめること)に先立つ。(認識論的経験に先立つ)
しかし論理空間自体はいかなる要素命題があんのかに依存している。したがって、強いアプリオリではない。

論理空間の可能性について。それが「理解可能性」だということ。だって、論理空間がW1〜W4みたいなもんだとすれば、まず、W4の真理性が存在論的に要請される。そうじゃねーと、対象aや対象bに出会えなかったり、するときがありますもん。まず、成り立ってるところから(事実から)いかないと、そっからじゃないと可能性も何もないっす。いま論理空間がこうだということは、これこれがなりたっている、そして、そうじゃないこともありえた…これじゃまちがってるな???なんども戻ってくること。p. 162

dimanche, novembre 13, 2005

le 9 octobre

sunday 9 October

ある待合室で
物理を専門にしたという職員にはなしかけられる
おそらく明らかに大学生風でない風体・態度と
哲学という言葉が気にかかったのだろう、
 哲学などやってくっていけるのかね?
と突然尋ねる

食っていけるということでアナタが意味していることはどようようなことですかもし生活していくというような意味ならバイトでも何でもして食っていけばいいだけの話ではないですかそこに何の問題があると言いたいのですか本当にしかるべき状況になれば段ボールでもブルーシートでも集めて暮らしていきますその程度の覚悟もなくて哲学などできるはずもない確かにポストもなくて大変ですよねでも頑張っていくつもりですみたいなことお前に言うつもりはまったくねえ

しかし、哲学なんて、何なんだね?
そんなこと、おそらく何度も自問した
つまり、彼は明らかにかつて自分のなかに存在していた
自分のなかに存在したダークサイドです

恐れ、怒りはダークサイドへと導く、ジェダイは恐れない
学ぶことを。

lundi, novembre 07, 2005

investigations#74

#74また最初に戻ってきた。ここまで「見る」「考える」「として見る」をブレインストーミングするため、みんなにどーなってんの?を考えさせるため詳細に進めてきた。ここからまた始まる。
「見る」:反省の欠如(意識の焦点化の欠如、疑いのない態度)
「考える」:(自分の意識の焦点に持ってくる。反省)
おそらく。「として見る」は「考えるの始まり」だ!!!!!!

#78アスペクト変わったあと、その後その見方が持続する時、その時、「見てる」のか「として見る」なのか。こんなこというために、ずっと論じてきてる。

(詳細な、観察により、概念を分類していく、こまかくどんな場合は?とかをみていく。
アリストテレス霊魂論と意図的ではないはずだが酷似)

アスペクト:見え方みたいもん#25らへんをみるとわかる

例えば、それまで、まったくアヒルにしか見えてなくて、他にみえかたあるって知らなかったのに、いきなり、「ウサギ!」ってなった時、その浮き上がってきたものを「見てる」「として見る」どっちやねん。
その瞬間は「見てる」のきがするんすよ。そんで、あとはどっちも行き来できるんで「として見る」だとおもうんすよ。
いまんとこ。

investigations#72

#72
“でも、そんなことやって、「見る」「知る」「として見る」の区別とかいって、哲学とかいってがんばってやってっっけど、生理学的に調べればわかんじゃないの?典型的に「見る」と言えるような場合の脳の状態を、fMRIでしらべて、また「知る」の典型的な時に活動してる脳の部分をまたfMRIでみて、ひかくすればいいじゃん。この脳波でてるときは、「見る」で、ここが活発になってる時は、「知る」なんだ、ってわかんじゃん。原因がわかんないなら、科学が進歩すればわかります。哲学でやるいみなくない?”

さりげなく根本に関わる問題、それとなく書いてある。

彼はいみあるといっている。その理由は

investigation#68

#68階段を、突き抜けてる一本の線、の絵。ああ、これは階段の中を線がとおってて、中を通ってる部分は見えてないけど、階段は段になってるから、所々、みえてんのね。
そうわかって、いるのに、わかってんのに、そう見ることができない人。他には、これは、平面にかいてあるけど、ああそうだ、見方によっては浮き上がって見える絵だ。とわかってんのに、そう見ることができない人。この人は、できる人と結果として何が異なってくるんだろう?
行動。(例えば、その図をつかって立体幾何学の論証をさせた時、その図をそう見れてない人は、途中から論証についていけなくなる、ということがおきるかもしれない)
その人が、そう見えてるかって、ほんとは分かんないのだけど、外から見たときの基準:適切にふるまってるか。それが認定基準になってますね。


#69「…を見る」「…として見る」「…を知る」の区別がここらへんからなされてくる。
矢が首を貫通しているように見える鳥の絵。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか
矢が首を貫通しているように見える鳥のシルエット。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか

基準は、リアリティだと理解する。リアルな時、それを見てる。リアルじゃなくなるに従い、それは、知るになる。

tractatus.10


『論理形式について』『哲学的考察』をもとにした考察
数:「きっかり」=「他はならなかった」:複合的っていうからには、…はならなかった、…はならなかった、…はならなかった…と無限に続く分析をするのかよ。というか、…は存在していない対象だから、名はつかないよ。だから「他はならなかった」という句は成立し得ない。

・ある要素命題から、他の要素命題が帰結することはない。(帰結するときは、要素命題ではない)
・命題相互の論理的関係は、論理語の働きによるもの。論理語を持たない要素命題が論理的関係にたつことはあり得ない。
・ある要素命題の真偽は、他の要素命題の真偽に対して、論理的に何の影響も与えない。
 

そんなことないよ。論理語持たなくてもね。「これは青い」は「これは青くない」を含意する。
このような、論理語の働きによらない論理的関係を彼は、後に「文法」と呼びます。
(上のヤツは、『論考』に存在するドグマだといえる)

でも別にそれだけで、それは、『論考』を崩壊させはしない。(論理空間のありかた、無内容な表現が、増える、まあそれだけよ。)
要素命題の考え方、保持。論理語に関する考え方、保持。世界のあり方を記述した命題が像という性格を持つという考え方、保持。
です。

tractatus.09

なぜ単純な対象が必要か

論理空間は、確定していなければならない。そのために、単純な対象が要請される。
論理空間は確定しているとL・Wは考えていた。そこから、論理空間を確定するための、単純な対象があるのでなければならない、ということが導かれてくる。
単純な対象を把握した上で、
4.116 およそ考えられることはすべて、明晰に考えられうる
(論理空間は確定していて、その論理空間を私たちは捉えることができる。そしてさらにその外にあるものを、内側から限界づけることにより、示すことができる)
と述べているのではない。逆aruyo。
こうできるのでなくてはならないはずで、だからこそ単純な対象を必要としている。

tractatus.08

複合命題の、複合的な指示対象が存在しない時、その命題は、偽になる。

「「N夫妻は動物園に行く」という命題は「花子は動物園に行く、かつ、太郎は動物園に行く、かつ、花子と太郎は夫婦である」のように分析される、もし結婚していなかったら、「花子と太郎は夫婦である」の部分が偽であるため、「N夫妻は動物園に行く」は偽である」
「aはf」という要素命題を考えよう。「a」「はf」も名である。その指示対象は単純。そのaがいないとき、無意味になる。偽ではない。これは、大切だ。
「というのも、「aはf」は要素命題であるから、その名がいかなる対象をも表さないということになれば、それは単純に像として成立していないものとなり、像でないものに対しては、真とはいえないのはもちろん、もはや偽とはいえない」

ここに、単純なのものと複合的なものの決定的ちがい。名は対象を表す、だからその指示が空振りし、名指されるべき対象が存在しないということになったら、それはもう名ではない。
それゆえ、名ではないものを含んだ表現は、無意味となる。
(ちょっと変に思うのは、性質語で単純といわれている「白い」とかが名ではないときってあるのか)

(でもだいたいはそうなってないよね。何も指示してないような語が入ってる文が無意味だとすぐいえないってラッセルも気づいてた通りだ)
他方、複合的なものを表す表現は、名ではなく、その構成要素に関する記述に他ならない。記述された複合物が存在しないとしても、その記述が偽であったとして捉えられる。(ラッセルの分析に近い)

tractatus.07

語ることが成立する前提:その命題が真であったときに…
矛盾は、真ではない。よって語ってない。

to-torojiga munaiyou na koto
understand??

tractatus.06

論理語は、名ではない。名だとすると、¬¬p, とpが異なる事実を表していることになるが、実際はそうでないため。
「論理空間」に否定はない。可能な事態に、否定的なものはない。