mardi, janvier 31, 2006

summa2.02.2

こういうところがいちばんおもしれーーーからやめらんねーべらんめーなvolume up燃ーえたりねー枯れ枝夜唸る
waooooooooooooooooooooooooooo


:フォジランの指摘:
『論考』の論理体系は、無限個の個数の命題に「基本操作N」を2度適用することにより、存在量化を表現することができるが、全称量化は表せない。なぜならそのためには否定の操作Nを無限回適用しなければならないが、『論考』5.31は操作の無限回の適用を拒んでいるからである。しかしその修正は容易に行える。真の問題は多重量化についてである。

:野矢さんは存在量化を問題にする:
フォジランや飯田隆は無限個の個数の命題を一挙に操作することを当然のように受け入れているが、それはウィトゲンシュタイン自身の意図に反するものである。

:フォジランの多重量化についての指摘:
存在量化と全称量化が含まれる多重量化は、『論考』のやり方だと、どうしても操作の無限回の適用を必要としてしまう(全称量化の部分で)。これが、自身が設けている操作に関する制約と矛盾するため、『論考』は多重量化を扱えない。

:フォジランのあやまり:
フォジランは、存在量化と全称量化が含まれる多重量化の構成が可能なためには、(1)対象が有限である、か(2)操作が無限回適用されるかのどちらかが満たされなければならないとしている。その上で彼はまず(1)が4.463によって否定されていることを示し、次に(2)が5.31によって否定されるため、『論考』においては多重量化を扱うことができないと結論している。
しかし、野矢は(1)が4.463によって否定される、というフォジランの議論に疑問を抱いている。それは、4.463が論理空間の無限性を主張している命題ではない、と野矢が考えているからである。

:4.463について:
ここで、「無限に」という訳語をあてたくなる‘unendlich’という語は、(フォジランはそう解釈しているがしかし)論理空間の無限性を主張するために差し挟まれているのではない。
4.463は、「トートロジーは、「どのような大きさの論理空間であっても」、その全体に真理領域が及ぶ」ということを述べていると解釈されるべきである。そうだとすれば、この4.463に表現されていることは決して、論理空間が無限であるということと同一ではないのである。

このように、野矢は4.463が論理空間の無限性の主張と結びつくものではないと解釈している。ここでは野矢の解釈に従い、さらに『論考』において対象は単に無限ではないどころか、有限でなくてはならないと言わなければならないことを示そう。

:『論考』の対象がなぜ有限か:
有限の経験しか持たない人間が無限の対象に出会うには、操作による構成が必要となる。しかしこの操作によって構成されたものの間には、内的関係が生じてしまうのである。この内的関係が、『論考』の要請する要素命題の相互独立性と相容れないこと、それが『論考』が対象を有限に限っている理由である。

例えば、「0から初めて1を足す」といった操作によって構成される、自然数というものを考えてみよう。「aは2メートルだ」という命題と、「aは3メートルだ」という命題は両立不可能である。このように要素命題が両立不可能であることは、『論考』が要請している要素命題の相互独立性と矛盾する。こうした理由で『論考』は、無限へと通じる道である、数などの構成されるものを対象として認めていない。
このように、対象が有限にとどまるとすれば、要素命題も有限となる。よってフォジランや飯田が認めていたような、全称量化のための無限個の対象操作をする必要はなくなる(よってフォジランが提示した、存在量化と全称量化を含む多重量化を扱うことができる)。さらに、論理空間も有限になるため、可能な真理領域も有限の多様性しか持たない。それゆえ、すべての命題は真理操作を有限回適用すれば得られることになる。
こうして、『論考』内に不整合は生じていない。

:5.31が言いたかったこと:
以上のことから言えるのは、5.31は操作を有限回に制限しているのではないということである。そうではなく、そもそも対象が有限であり、論理空間も有限であるのだから、操作は有限回の適用のみで十分であるということを主張しているのである。

:相互独立性を取り除く:
さらに相互独立性の主張が取り除かれるとしたら、どうか。
要素命題の相互独立性を撤回するなら、操作による構成物を対象に含めることができる。
(この場合、操作の有限回の適用の主張は削除される。よって、フォジランが提示したような議論に乗っかったままですら、多重量化を処理することができる。)
(そのような対象は無限に構成できる。そのうえ論理空間は有限である。そうであるから、この操作によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。)

summa2.02

:飯田隆の解説による、フォジランが指摘した『論考』の問題点:

それは、『論考』の論理が、じつは述語論理のごく基本的な領域(多重量化)をも覆い得ないという点である

それは以下のような議論
(x)(∃y)Fxy:全称量化と存在量化の両方を含む多重量化を『論考』の「基本操作」(任意個の命題を全部否定したもの)で構成しようとすれば、註の(14)で言ってる方法になる。
この方法は
対象が有限個であるという制約か、
そうでなければ
操作が無限であるという仮定を要求する。
しかしながら、
対象が有限であるという主張は、『論考』が主張する論理空間の無限性と相容れない。
では操作が無限なのだ、と結論できるかというと、それもできない。
なぜなら「すべての真理関数は要素命題に対して真理操作を有限回くり返し適用することによって得られる」
と『論考』が述べているからである。つまり、操作は有限回に限られているのである。

このように上に挙げたような種類の多重量化は『論考』では扱えない、から『論考』は述語論理をカバーできない、とするのがフォジランの議論のようです

自分がこのフォジランの話で??と思ったのは、「対象が有限性が論理空間の無限性と相容れない」という点です。なぜなら「対象」が有限でも、それの有限個の「名」と有限個の規則で無限個の文を生成できるから。しかしこう言い得るためには、操作が無限であることが保証されていないといけないはずだ。この点で『論考』は操作を有限個に制限している。よってこのままでは自分が疑問に思ったところは反論になり得ない気がする。
(しかし、5.31は操作が有限でなくてはならないという制約を述べたものではないということが、後に示される)

飯田隆は、フォジランに賛成している。野矢さんは賛成していない。

dimanche, janvier 29, 2006

summa2.01

よく言語学で、認知言語学が出でくる背景として、論理学的意味論、真理条件的意味論が言語の意味の理解として十分でないという認識があったって、そんでそのもとはウィトゲンシュタインみたいな感じでいわれます。
ほんとにそんな単純な話かな…!

:真理条件から検証条件への転換:
命題の論理的分析:命題の真理条件を明示的に取り出すこと
真理条件:「像を実在と照合する」という『論考』の言葉を、「経験との照合」と読む論理実証主義者
フツーにそうかなとおもってたけど。彼らは経験主義者だからね。


:検証条件の帰結:
二値性の原則に影響。それを防ぐために、logical positivist:
要素命題以外の命題はすべて要素命題の真理関数として得ることができる
要素命題は決定可能である:感覚与件命題です
が導入される
ということは、要素命題以外の命題は、すべて感覚与件命題の真理関数として得られる。
ようするに、感覚与件命題だけあれば良い:感覚与件命題への還元主義


しかし『論考』の基準からすると、感覚与件命題は要素命題になり得ない
『論考』は、要素命題の相互独立性
感覚与件命題「これは赤い」は必然的に、「これは白い」を排除する。ということは、相互独立じゃねー。
だって相互独立だったら、片方の命題の真偽から、
もう片方の命題のいかなる真偽もみちびけない。
だってふたつは独立なんだから、両立可能ということ。
だから、「これは赤い」といったあとで、「これは白い」といえるはず。
でも実際はそうじゃない。
ということは、感覚与件命題は要素命題が満たすべき基準満たしていない。
ウィトゲンシュタインも後でこのことを認めた


1.3. :検証主義の内容:

:ヘンペルの議論のどこが大切か:
論理実証主義の「検証主義」への批判として今までなされてきたものは、「弱い」テーゼを考察すること。詳しくは「検証可能性」という概念をちゃんと定義できるかという議論。そんで、そもそもその検証可能性の基準が定式化できないんだから、これを命題の有意味性の基準にするなんて、根本から誤ってる、という流れの議論。その代表的なものが、ヘンペルの議論。



意味は「真理条件」なのか。「検証条件」なのか…という問いから、
:「文の意味=検証条件」という試みとしての、シュリック検討:
他の人たちは真理条件と検証条件を混同してるけど、シュリックは両者のギャップを埋めようとしている。
「直示的定義」「検証可能性」


:分子論的意味論というアイデア:
「単独の語—対象」という単純なつながり(アトミック)を想定するのでもなく、言語理解の単位を言語全体に求める(ホーリズム)のでもなく、言語理解の単位を文に求める。そんで、ひとつの文の理解は必ず他の多くの文の理解をともなっていなくてはならないという考え方。

分子論的意味論では、「語の意味は文の意味への寄与」。
経験主義的に言い直すと、「語の意味は文の検証条件への寄与」。
別に、語が有意味であるために、それが「単独で」何らかの経験と結びつけられている必要はない。

シュリックの議論は、単なる原子論的意味論と分子論的意味論の混同ではない、と考えうる。
シュリックは、直示的定義と、要素命題を関連づけている。
シュリックの議論は:(a)言語理解にとって、直示的定義に関する文の習得が基礎的である
(a)は、すべての文は直示的定義に用いられる文だけから構成された形の文に変形できるということ。
それは、「すべての文は直示的定義の文の真理関数だということ」この議論のもとは『論考』の要素命題。
『論考』5で、「命題は要素命題の真理関数である」といっている。
シュリックは、この要素命題と直示的定義を結びつけて考えた。
したがって「すべてのぶんは直示的定義の文の真理関数だ」という結論になる。

(b)そしてそういう特性を持つ文というものの意味は、「検証条件」である。
…え、なんで(a)みたい特性を持つ文の意味は「検証条件」になるの?
それはp. 102にかいてあるよ。

summa2.

公理(第一原理)からの演繹により、ある分野に属するすべての知識を体系化するという方法。
チョムスキーもこれかと思います。


近代の哲学者の問題意識
我々の認識にとって疑い得ないという意味での、「確実性」の問題。
確実性と必然性の混同が起きた。以下の議論はよく用いられる
(a)あるものが必然的なら、それは確実である
(a')あるものが確実でないなら、それは必然的ではない:対偶
(b)あるものが確実なら、それは必然的である:(a)の逆。これすら受け入れる
(b')あるものが必然的でないなら、それは確実でない:ということはこれも受け入れる
しかし(b')はおかしいでしょう。だって、「我あり」ということが疑い得ないとしても、その我が存在しなかった、もしくはこの我が、「自分じゃなかった」ことはいくらでも考えられる:必然的ではないが、確実。になってる、という反例がそんざいする。


ヒュームが激しく批判した後に必然性がまだ残りうるとされたのは、数学と論理学。
しかし、近代において論理学は、論理的推論は認識を広げてくれるものとは考えられていなかった。
論理的推論は、既に知られていること、前件に含まれていることをくり返すだけなら、確実なのは、必然なのは確かにそうだね。
けど、なんか既に含まれてるものをくり返してるから必然だというのは、本来の「知識」とは呼べないんじゃない?ちゃんとした事実の中に、これは必然的だ!と呼べるものがないとな…。


「ア・プリオリな認識とは経験に全く依存しない、ア・ポステリオリは経験に依存する」という区別ではない
だって『純粋理性批判』第2版緒言で、「われわれの認識がすべて経験をもって始まるということについては疑いがない」っていってるし。認識自体は、全部経験いるっていってるからな。

「ア・プリオリな認識とはその正当化のためにいかなる経験も必要としない、ア・ポステリオリな認識は必要とする」ということです


カントが用いている区別
・必然的—偶然的
・確実—不確実
・ア・プリオリ—ア・ポステリオリ
・分析的—総合的


上の3つは同じものとして考えられている:カント
分析的・総合的というのは:われわれの認識を増大させるか、そうでないか。
数学の知識は「ア・プリオリかつ総合的」とカントはいう(ちなみに論理学の知識はア・プリオリだが分析的)
つまり
「その正当化が経験に依存しないにもかかわらず、われわれの認識を増大させる判断」
でもそんなことってあるのか…。



他には物理学と、形而上学がそーゆー学問の候補だけど、後者は否定
なんでそういえるのかを説明すること、それが『純粋理性批判』の主要な目的と言えるだろう

mardi, janvier 24, 2006

sans titre

ウィトゲンシュタインの「そのように見る」は
「単にそのようにみなしている」と
「突然リアルなものとしてみえてくる」
との区別だよ
ちゃんとわかってなかった
きちんと整理してなかった
でも「そのように見る」ってことが
ぼくらにとってリアルだってことは
いつもわかってた
だってジャズをやっているから
くやしいぜ

lundi, janvier 23, 2006

sans titre

parameter:80年代研究進んだ。
リチャードケイン:ロマンス語の研究とか。パラメタ—は同一言語間にある方言間の差異も結局説明する…。
多総合的な言語(アメリカインディアン語)/孤立語(中国語)この二つはかなり違う語。かなり大きなところ(上位の?)のパラメータが異なる気がします。
これを決めてるパラメータがイタリア語とフランス語の違いを決めてるパラメータと同じであるとは思えない…。だってイタリア語とフランス語、方言ぐらいだもん違い。
前者のようなパラメータと後者のパラメータの違いとか、考える必要性でてくる。
そもそもパラメータとは何かという問い。また根本的な問いに戻る。

あるものを設定して、その存在を証明するために、様々な経験的研究行う
面白い成果が得られて一段落ついたとき、そのもの自体の位置づけが今度は問題になる
また根本的な問いに戻る。
しかし過去の遺産をふまえて。そしてrevised versionになったら、そこからまた経験的な研究していける。
それがくり返す限り、進歩する。
その繰り返しがストップしたら、方法論として行き詰まる…。

jeudi, janvier 12, 2006

summa.03.2

知らなかったこと:指示対象を欠く確定記述に対するラッセルの態度は「on denoting」で初めて変化したわけではなく、「no denoting」をかく直前はフレーゲ的立場を取っていた。「on denoting」でその立場を批判した。

『数学の原理』:何でも存在者に対応
「命題の存在的含意」:フレーゲ的:空な確定記述はSinn(meaning)あるがBedeutung(denotation)ないという立場

新しく知ったこと:指示対象を持たない確定記述の他に、指示対象を持たない固有名の問題があること

表示句は意味論的単位ではない:これが「no denoting」でラッセルがたどり着いた答え
ということは、意味論的関係として残るものは、語とその指示対象だ:そこからの帰結
しかしこの結論では、フレーゲが「意義と意味について」を書いたときの問題へと逆戻りではないだろうか
そうではない

それはpp. 191-192に書いてある
一見すると「スコットは『ウェイバレー』の作者である」という文は「a=b」の形式に見えるが、「b」は表示句であるため、従って意味論的単位を形成するものではない。「b」単独で何かを指示することはない。「表示句「b」のmeaning」は存在しない。フレーゲと同じ枠組みに乗っかっていない。よってp. 191の議論も適応されない。

summa.03.1

フツーの「コトバ」と「モノ」の関係:心理的
表示の関係つまり「ガイネン」と「モノ」の関係:論理的

論理学の対象:論理的な普遍的などこかに存在する対象どうしの関係:これが論理的。

いままで意味論意味論といってきたその論の基礎、つまり「語がそれ以外の何かを代理している」という大事なことが、心理的といって排除されようとしている。錯乱。

the+single noun: definite descriptions

『数学の原理』のときにおけるラッセルの確定記述の問題:
ガイネンのみを構成要素としてもつ命題を表現してる文が、なんでモノであるソクラテスについてのものになるのか。実際そうなっちゃってるけど、じゃあそれはなんでなのか。

summa.03

3.denotingの問題

・項は存在者と同義
thingとconceptにわけられる。
thingは固有名で指示される。

denoting phrase; a man はdenoting conceptをindicateしているがそれが含まれるSocrates is a manという命題は、そのconceptについての命題ではない。

denoting phrase(もちろん固有名ではない)はconceptを指示する、しかしそれが含まれる命題はそのconceptについての命題ではない。文が表現している命題は、実際のmanである。
ということは、固有名を用いない時は概念を指すといっといて、固有名ではないのに表示句のときは実在のものをさすんですか。このときだけなんで。
なんで…
表示句の問題:ガイネンしか指示しないはずの表現で、モノが指示できちゃってますけど…という問題。
“いやーdenoting phraseの時だけは別なんですわ”とラッセルはいってます。

mercredi, janvier 04, 2006

sans titre

宇都宮をすこしうろついてました
正月からレコード屋があいてました
その店はドープです
ほとんどハードコアパンクだけです
初期パンクすらあんまおいてない
店長もいいかんじに無愛想です
80年代に活動してたSiCというのや
イタリア語で歌っているtomorrowというのや
知らないの勧めてもらったりして
何枚か買いました

いわゆるジャパコアがすきです
ジャパコアってのは
僕がうまれたころ保育園だったころ
日本の黎明期 相当のアンダーグラウンド
やってたバンドがだいたいそう呼ばれてます
すこしずつ集めてます

それよりずっとわかいですけど
Exclaimってバンドがいて
ホントに
かっこいいです

周りにはそーゆーハードコアパンクきいてる友達は
いないので あんまそーゆー話はしないです

その店長とは二言三言 ぼそぼそと話をしました
それだけだったけど
ほんとに上がりました

ある特別な感情を共有してました

自分のゆるぎない核は ここにあって
そっから ぜんぶがでている と思います