mardi, octobre 25, 2005

sans titre

‘言語によってしか考えることができない’

(その人たちが言うような意味では)
そうともおもえません。
(たとえば部屋の模様がえを具体的に頭の中でかんがえている時)
(模様がえを、家具に見立てて四角にきった小さい紙切れを並び替えながらかんがえているとき)
(模様がえを、家具を縮小したプラモデルを作って並べ替えながらかんがえているとき)

そして譲歩してそうだった場合には
そこからどういったことを導けるのか、
を聞きたいです。

じぶんにとっては、別にふーンて感じです。
すごいこととは思わないです。

jeudi, octobre 20, 2005

tractatus.05


フレーゲの関数は、実質を持ってる。
だから、関数それ自身も対象として、また関数に入力できた。
しかし、『論考』:関数は言語のあり方を整理するための便法。
実質なし。入力項としての名と、出力項としての命題、それだけ。
関数をノミナルに考えてる。

フレーゲ:固有名は飽和した表現。他の何かによって補完される必要ない。
L・Wはある。固有名も、述語によって、補完されないといけない。

定義域が異なる関数を、もはやおなじ関数とは捉えない。
それは、定義域というのが、関数の意味と本質的に結びついているからである。
定義域と、値域は、その関数の論理形式を示すものだろう。
ということは、定義域が異なれば、関数の論理形式はもはやかわっている。と考える。
だから、別の関数なのである。


「命題関数が、定義域と独立に決まっていると考えるならば、トマトに“トマちゃん”という名前を付けたとして、「トマちゃんは神経質だ」偽になる「トマちゃんは神経質ではない」は真である」しかし、L・Wなら、「トマちゃんは神経質だ」は無意味だし、「トマちゃんは神経質でない」も真ではなく、無意味だ。と言うだろう。「トマト」の論理形式のなかに、「トマトーX」の定義域のなかに入ってないのだ、「神経質」は。

xは神経質である、という関数の定義域は、
人間とか、それっぽいやつ。普通は。
その定義域に、トマトが入ったとすると、
もうそれは、違う関数だと、かれは考える。
(規則が変わったのかな?だから、意味も変化していて。
トマトに、神経質だとか、そうではないとか
述べることができる世界においては、
「神経質」の意味が既に変化している…のかな)

tractatus.04

3 different understandings on the function- "wittgenstein, Frege, Russel"

a function: X is white
frege: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a true/false value.
russel: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a propsition. and this proposition is "the meaning of that expression". だから関数は、命題内容、対象において働く。
wittgenstein: proposition is just an expression. 関数は論理形式解明のための道具。domain is not references but names. range is not a true/ false value, but a proposition, which is just an expression.

tractatus.03


ある概念が自分自身に述語づけられる例
「漠然」は漠然としている
「猫」という概念は猫ではない(そうじゃない例)

W(x)を「xは自分自身に述語づけられない」という関数だとする

「漠然」は漠然としている、というのは、
漠然(漠然):Xは漠然としている、という関数に、
漠然という項を代入したものと考えられる 
だから、xは自分自身に述語づけられるというのは、
X(x)と書ける。
だから、W(x)=¬X(x)とかける!
Xは変項だ、からWを代入しよう
W(w)=¬W(w)
よって、矛盾する
オーケー、ラッセルのパラドクス、
オーケー!

mercredi, octobre 19, 2005

tractatus.02

論理空間をとらえるため、思考の限界へといくため、対象を言語で写し取り可能的結合を作るため、、対象というのを、捉えないといけないんですが、それには、対象の論理形式、つまり名の論理形式を捉えないといけないです。論理形式は、対象の、持ちうる性質を理解するといったいみで、捉えていないと、いけない(ほんとは、なぜとらえないといけないか、わかってません)。しかし、名の論理形式だけでは十分でなく、「この」という名指しが、個別、区別をし、名が論理形式を示唆する。このようにして、対象を切り出せる。しかしながら、そもそも論理形式はどうやってとらえんの?というと、そら、なじむことです。説明されるべき論理形式は全体に広がり、巡り巡って循環する。一つずつ説明することは不可能です。巻き込まれることでしか、解明されない。です。

jeudi, octobre 13, 2005

tractatus.01

note

「成立していない事態の場合、それはただ代理物の配列によって表現されているにすぎない。可能的なものがどこか人目につかずあっちの方に鎮座しているかのうような気分は払拭していただきたい。成立していない事態というのは、現実の代理物によって表現される以外、生存場所を持ちえないのである」

2.01 事態とは諸対象の結合である。

事態とは、対象という世界の中にあるもの(じっさいにある。事実)の代替物(像としての言語)を、実際に、結合させることである。それによって、可能な結合の全て、「論理空間」を考えることができる。

「論理空間とは、可能な事態の全て、世界のあり方の可能性として我々が考えられる限りの全てである」
ということは、論理空間の限界を確定すれば、思考の限界を確定したことになります。

論理空間を考えるには、それが、可能性というのを含んでいるから、可能性について考えられないといけないんだけど、この世界には、成立していることしかなくて、成立してないことってのは、この世界には文字通り「ない」のだ。だから可能性を考えるためには、現実の対象を言語で写し取って、それを並べ替えて、可能的結合(いろんな文、つまり考え)を作って、全部を考えてみないといけないのである。

論理形式:「ある対象の論理形式とは、その対象がどのような事態のうちにあらわれうるか、その論理的可能性の形式のことである。例えばある対象aが赤い色をしていたとしよう。対象aにとって赤という色は外的性質であり、他の色を持つこともありえた。つまり〈aは青い〉、〈aは黄色い〉等の事態も可能である。このことを「対象aは色という論理形式を持つ」と言う」

jeudi, octobre 06, 2005

generative grammar


…“科学では、事実を説明するための法則は、一般的、単純であると考える。
法則は、その適用範囲が一般的(いろんなことを説明できる)、
形式が単純(エレガント)であるほど、価値が高いとされる。

ただし、一般的であることに価値を置くのはどの科学にも当てはまるが、
単純さに価値を置くのは、
物理を中心にする非有機体をあつかう科学だけではないだろうか。

物理を中心とする近代科学の基本は、「自然は無駄がなく単純でエレガントに作られている」。

ところが生物学では、そうは考えない。生物の世界は、偶然や試行錯誤の結果現在に至った。
そのため単純でもエレガントでもありえない。
複雑な生物学的システムというのは、一般に「不完全」
たとえば利根川進の発言
「ネイチャーというのはロジカルではない、特に生命現象はロジカルでない」”って…

引用。

すべて疑問形にして書く。
生物の世界は単純でエレガントな形式から
なりたっているのではないのですか?
物理(近代科学)では、
「自然は無駄がなく、単純でエレガントに作られている」
とかんがえますが、
生物学ではそう考えないのですか?
生物学的システムは、基本的には、無駄なものとかいらなそうなものを、
いろいろ含んでるんですか?

物理の対象である非有機体の世界が、
無駄なく単純でエレガントに作られているのはなぜだ?


ホントカイー???

investigations#63

メモ的に
#62
共通の刺激という考え方がうまくいかないと。
もう「空間的に見てるときは空間的にみえてて、平面のときは、平面に見えるんだよ」
といいたくなる。
しかしそれは、説明にはなってない。
…視覚印象の分析をすれば、どういうときに、どのようにみえてるかということに答えられるような、説明を考えだせる。と思ったけど、結局できてない。
視覚印象の分析では。
では、L・Wは結局わかんねーじゃんということがいいたかったのか??
そうではなく#61何に見えてるのか、ということの答えは、その人の記述で、それが最後ということ。
その人がどう見てて、どう見てるとこたえるか、それが、なににみえてるかの回答になる。
しかし、それは、もともとの出発点に逆戻りした。
「なににみえます?」「魚」その時、その人は、「魚」と記述する限りにおいて、魚に見てる…。
というかんじ。
これじゃ最初の出発点にまた戻ってきてしまった。
けど出発点、じっさいのありようが、もっとも根本的ていいたい
彼。