jeudi, décembre 21, 2006

12/21

自然科学になるべきである:
といっても実際は物理学的な方法を用いているわけではない。
これは、方便としていっている。それまでものに決別するため。

デカルト的:
方法論的可能性をかんがえまくって、これだ、という理論化
体系化をする。

ポールロワイヤル:
人間の根本を探るのがやるべきことなんだと明示したてんを
引き合いに出している。

認知言語学:
UGを設定せずに,全部,一般的な認知能力で
説明できると考えるのは,認知言語学のなかでも一部にすぎない.

mardi, décembre 19, 2006

sans titre

いま つぎ なにするかかんがえてる
すごく楽しい

ずっと未完成のまま 凄まじい勢いで
だから荒木にあこがれる

vendredi, décembre 15, 2006

sans titre

デュシャンは 「8年間の水泳訓練」といっていたそうだ 


わたしの場合はどうだろうか
ここまで書いてみて 知的な達成感は
ないと言い切れる 最初から 
わかっていた しかし 
3年前にした選択が契機となって 
さまざまな偶然のおかげで
これからもわたしにとって
大切でありつづけるものを
たくさんもたらしてくれた

jeudi, novembre 30, 2006

メモ

日 時  11月30日(木) 15:30〜17:00
場 所  上智大学 中央図書館 8階 L-812会議室
テーマ
二つの言語
−チョムスキーと後期ウィトゲンシュタインの言語観の関係について
講 師
鬼界 彰夫
使用言語
日本語
その他
申込不要、参加無料
問合せ先
上智大学 外国語学部 言語学副専攻 ℡ 03(3238)4107
 

jeudi, novembre 23, 2006

evnine.02

1. 4.
・心的性質を他の心的性質に関係づけるような法則は存在しない.心的なもの,規範的性格と全体論だってことは1. 2.で見た通り.
・心理学は科学じゃネーーー.と主張している.なんでか.ある心的性質を他の心的性質に関係づけるような法則:心理法則は存在しないとdは考えるから.
・なんで心理法則は存在しないと言えるのか.それは,規範的性格と,全体論的性格をもつからだって.
・つまり…「もしある人の信念と欲求のすべてを個別的に相互に独立に規定することが可能だとしたら,科学的本性を備えた心理的法則を手に入れることもできるだろう.しかし,心的なものの全体論,規範的性格のゆえに,これは不可能なのである」ふうううううううううむ.わかったぞ!!!こういう理由で,dは心理法則はムリと主張する.

evnine.01

1. 2.
・例えば,ジャングルに迷い込んだあなたが,言葉も,何も分かんない部族に遭遇して,殺されたり,つれてかれて何かされないために,敵だと思われないために,こいつらは何を話している?何をしている?何を考えている?ということを必死に探るときにやっていることを:根源的解釈.と呼ぼう.

・根源的解釈:①規範的解釈にしたがって進む.あと,②全体論的に進む.
・規範的原則:「フツーーーはこうだよね」ってことをしろって話.
・根源的解釈が規範的原則に従わなきゃなんないというのは「まあこんなおかしなことはやんないでしょう,ぐらいの想定を,フツーの想定をもって根源的解釈をやれ」ってことだ.
・信念を持つことそれ自体,もう規範的法則に従うことを意味する.
つまり,信念を抱いている限りにおいて,明白な矛盾をあえて信じたりとか,そーゆー類いのことはしない.
「ある生き物が命題的態度(信念)を持つなら,その生き物はほぼ合理的なのだ(essays on davidson:action and events1985)」dのかなり強固な主張.
・ある人に「こいつはこういうこと考えてるな」と,ある信念を帰属させる.それはなんでやるか.それは,「こいつがこう考えてると想定すると,なるほどこいつのとってる行動にうまくつじつまがあうな」てのがあるからである.こーゆーことを我々はしらずしらずやっている.こういうふうにして,心的状態が他の行為を正当化できるのだ.

②全体論的とは:
たとえば,相手が「突然踏み込んで来た俺に対して怒っている」と考えると全くつじつまの合わなくなるような行動をとり始めた(やさしく服を着せてくれたとか).でもだからって「こいつはおこってないんだ」と考える必要はない.他のとこに変更を加えれば,依然としてこの「怒っている」という信念を相手に帰属させ続けることができる.他に何らかの信念をもってたのかもしれないじゃんね.たとえば,「ほんとは怒ってたけど,俺をだまそうとしていた」「服を着せるのは生け贄のための儀式だった」とかね.ある証拠をもとにひとつの心的状態を指定して否定するのはむり.帰属させた信念の全体がさばきにあう(クワインのホーリズムと全く同じ).
「心的状態の帰属はまとめて行うしかない」と言っている.

lundi, novembre 20, 2006

覚え書き

ジョゼフ・コスースという作家が写真と実物と言葉の「ショベル」を展示する
これがデュシャンの系譜だとは どーゆーことか?
あと この作品の主題はウィトゲンシュタインが
『探究』Ⅱのあるところでいってることと
ゼッタイすっげーカンケイしてるのだが
どーカンケイしてるのか
すっかり忘れちまった!


「ドナルド・デイヴィドソン(経過の理論.根源的解釈.寛容の原理.等)とデシベルエレクトロ」
「生成文法にもとづいた言語分析の哲学的意義」


発展的忘却      ←
↑           ↑ 
コムデギャルソン→鷲田清和

長谷川祐子→マシューバーニー⇔伊勢神宮⇔(もののあはれ・
                     侘び寂び・
                    芭蕉・禅)⇔杉本博司
                    ↓
                発展的忘却  
   

mardi, octobre 31, 2006

investigations.8.(-#153)

語の意味体験とは
行為・行動の 微細な調整を可能にしてくれるような言語使用
微細な言語の使用の際、流れているもの、感じているもの。
それがあってはじめて難しいことが可能になるような、そういう体験。
それを体験できているやつが、うまくできる、達人の技になれる。

(言語使用の例だが、たとえば、楽器の演奏や、スポーツのコツといったものもそれにはいるだろう。)


(つまり、楽器の演奏のときに感じれてるものをアスペクトと呼ぶとしたら、ここら辺からウィトゲンシュタインが問題にしようとしている語の意味体験という概念とアスペクトの関係は…???
語の意味体験≒アスペクト…という方向の結論へむかうはずじゃないだろーか)

「語の意味体験」と「語の意味」はちがう。語の意味とは体験であるってことでもない。

「語のいみは、僕らが日常でつかっているその使い方だ」いまのlw
「語の意味てのは、使ったとき、聞いたとき心の中に起こる体験のようなものだ」かつてのlw

ⅱ、ⅳでこれを誘発するような例をあげている。バラの例。
はじめ、バラという語を使ったとき、心の中でそういった体験をするように感じる。
なのに何回も繰り返しその言葉を口にすると、それが感じられなくなる。
てことは、最初にかんじれたその体験こそが、バラという語のいみではないか???
という問いの提起。
ⅱとⅳをみよ

samedi, octobre 21, 2006

investigations:8(noya)

アスペクトの変化を知覚できないとは:
L・Wはアスペクト盲を,アスペクトの変化を知覚できないことだとした.
それは,野矢の言い方では,対象との内的連関性を主題化して捉えることができない,ということを意味する.

じゃあアスペクト盲の人は,〈として見る〉ことはできるのか????
これは,できると前演習のとき言ってしまったような気がする.しかし,できないはずだ.
〈として見る〉自体が,変化をあらかじめ想定している,といったらいいのか….それで,意思の作用で,ある一方を選ぶ,と.
〈として見る〉という事態が生じる時点で既に,揺らぎが想定されている.この対象は,例えば○という対象と内的連関がある,または△と言う対象とも…ということが,直観的に捉えられているのでないか.いやそうであるはずだ.そうじゃない場合だったら,〈として見る〉は生じないはずだもん.その時は〈見る〉しかないのだよ.

例えば「若い女の絵」を見ている場合,この対象が「若い女の絵」である,ということ自体(つまり,この絵という対象と,それが表しているものの内的な連関)は,野矢の言い方では,「完全に(おそらく意識の)背景に退いている」よ.
そんで「老婆」かな??って揺らぎが出てきたときに初めて,〈として見る〉ことがいみをもってくる.

心理学の哲学1:「我々はそれが変化するときのみ,アスペクトを意識するようになる」

つまり,アスペクト盲の人は,アスペクトを見ない.
「揺らぎ」がこないひと.
「アスペクト盲とは,内的連関性を断ち切られ個別的感覚にとどまるしかない人間のことではなく,
内的連関性が常に暗黙の了解のうちに退いておりけっして主題化しない人間のことである.
そのとき,彼は「日常生活者」としては我々とほとんど変わるところがないことになろう」
日常に「揺らぎ」を起こすような場面はほとんどねー.よって日常生活,俺らと同じで別に困んない.

だが意味体験はどうか…??揺らぎ…ふつーに使う時はそんなにいしきしないかも.
でも,言葉の方はアスペクトよりも,揺らぎをかんじるときあるのじゃないだろーか.

mardi, octobre 03, 2006

sans titre

“みず の ない うみ” 試論

「人は同じ川の流れに二度と入ることは無い,そして,入る」とはヘラクレイトスの言の又聞きだ.この文の訳自体が間違っていたとしても構わない.最初の文は「万物は流転する」ということ.不思議なのは一見矛盾する「そして入る」というところだ.それをこう考えている.

日々,すこしずつ変わっている.しかし日々は日々で変わらない姿で在り,自分は昨日と同じことを今日も明日も繰り返している.時折,実は変わっていたことに気づいたりする.

“みず の ない うみ”がこうしたことがらのアナロジーのように聞こえてならない.
曲全体は非常に長くいつ終わるとも知れない.曲中で音は気づかないほど微細な変化を続ける.はっと気づくとそれまでとは変化している.しかし曲は続いたままだ…

全ては変化し,一カ所にはとどまらない.日本にも似たような考え方が存在する.仏教的諦観「無常」とそれに根ざした情動「もののあはれ」である.

最近「無常」の認識とは,はかない人生に対する落胆ではなく,
常に変化し,常に自ら始源となり,新たな次元へと常に自分を開いていこうとする姿勢,なのではないかという示唆を得た,気がする…「新たな次元へ自分を開いていく」なんて,こんなことを言うのはダサイのかもしれないが.(杉本博司(2005),長谷川祐子(2006)の混同により)

ところで,曲の最後,ベルが何度も鳴らされ,その感覚がだんだんと狭くなっていき,止まる.この箇所は最終部でありながら,「何かのはじまり」を告げているかのようだ.

つまり,この最終部に至ってジムオルークが言っているのはこんなことのように私には聞こえるのだ.
「繰り返し続いていくもののなかで,実は存在している変化に気づくこと,それが次の次元へと自分を開く,その始源になるのだ」と.

曲中の微細な変化は,決して大げさな感動を呼び起こさない.喚起されるのはもっと小さな感情,これだと特定できないような「感情の機微」である,はずだ.まさに「ああ,はれ」と言葉の漏れ出るような.

“みず の ない うみ”を以上のような「変化と,継続・繰り返しのアナロジー」として捉えること,それを通過した自分は,それまでの自分とは常に変わっているはずだ,と信じる.常に変わった自分は始源となり,変わらない日々の生活を暮らす




参考文献
杉本博司(2005)『苔のむすまで』新潮社.
長谷川祐子(2005)「もののあはれの受肉— マシュー・バーニー『拘束のドローイング9ができるまで』」『ART iT』アートイット,第9号,pp. 112 - 113.

lundi, octobre 02, 2006

sans titre

理論選択の合理的基準を示して,それに従うとどうしてより正しい理論が選べるのかということに答えること.
映画『マトリックス』で主人公がやったのはこうしたことだ,と大まかに言えるだろう.
科学哲学ではこれを「科学的合理性のメタ正当化」と呼ぶ.

mardi, septembre 19, 2006

investigations.7(130)

#130-131
1. 見る
2. アスペクトを視る
3. 考える
4. 驚く

1. 4. 意識的にコントロールできない部分がある
2. 3. 意識的にコントロールできる

3. 4. 2. 焦点的な意識の対象がある

2. ≒見る+考える となんども言われる
それは焦点的だが、しかし「考える」(i think that...命題知)のようなやりかたで意識を焦点化させているのではない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ではなんだというのか?よくわからない。

#133
アスペクトが多義的であること。
私たちがある対象の多義的な性質を知覚する、というとき、たとえば、ウサギ・アヒルの図について、「ウサギに見える」というときを考えよう。(=アスペクト知覚の際起こっていることのLWによる説明)

「ウサギに見える」というのは対象にウサギの性質があるのではない。
対象と、今まで見たウサギ、ウサギの写真、などを頭の中で結び付けている。
ある対象に、何かのコンテクスト(背景・周りの状況)を読み込んでいる。
そうしてできた対象と「ウサギ」のつながりを知覚している。

アスペクトがあり、それをみるのではない。あるモノとほかの概念を結びつけること、それが本人にはアスペクトとして浮かんでくる。

コンテクストを読み込み、対象をあるほかのものと結びつける(ウサギ…)
それが「見え」として本人に浮かんでくる。
(気づかないためアスペクトが先に存在するように感じてしまう)

これはLWの好きな考え方だ。規則に関する考え方:規則がありそれに従うのではなく、何か習慣的にやること、繰り返すこと、いつもやること、それが次第に規則として抽象的に取り出されてくる。

dimanche, septembre 17, 2006

la chaine 06

今日少し、卒論の見通しが立った。

WILMETに擬似条件文の記述
REBOISに条件以外の記述多数
朝倉(2002)の指摘がなぜ仏語の本に見当たらないか。
→意識されない。(意識されない、だと?????)
VOGUE(1986-87)に担わせるはずの役割はこの本でも十分なはず
林のmeme si論文(事実的譲歩文)memeの役割
なぜsiだけのほうががすくないか
→わかりやすさ(論拠を強める)
古石(2006)
林(2001)
坂原(1985)暗黙の前提・譲歩文・擬似条件文
坂原:もう一度確認をとる
REBOISを材料に

c'est tous juste si.../si...c'est que
subordonneeの部分が事実か、条件かを確認

si(adverbe)REBOISの指摘をみる(展望として)

vendredi, juin 30, 2006

la chaine 05

1. 彼は毎週金曜にシンゴスターにいく.
2. しかし,今日は金曜であっても彼はシンゴスターにいかない.
なぜなら,今日は店が休みだから.

最後の「なぜなら今日は店が休みだから」は,1.の条件文が持っていた暗黙の前提を破壊する文である.
言い換えれば,1.が持っている言及世界とは異なる世界を構築する役割を果たしている.
その時,1.の言及世界において保証されていたpとqの関連は,もはやない.そのためpとqのことについて述べるのには何の妥当性もない.しかし発話者は,それまで存在していたpとqの関連への「思いが捨てきれない」,関連を「忘れることができない」(pとqは関連がある,しかし足りないことがあったのだ,と考える).
そして「pであってもqではない」と発言する.

譲歩「pであってもqではない」
それまで抱いていたpとqの関連についての信念を否定するような事実があり,そのことは事実として認める,しかし,もと抱いていたそのpとqの関連についての信念を捨て去るには忍びない,という話者の思考が現れたものである.
____________________________________

では「pであってもqだ」はどうなるか?
考え:もと前提されていたことが「pならば¬q」で,そうじゃない事実があって,それを受けても,話者はpと¬qの関連についての信念を保持したままなので,「pであってもqだ」と述べる.

lundi, juin 19, 2006

investigation.7(113)

他人の感情をどうやって知る?がテーマ。

自分の感情は「感じる」、この出発点からいくと、他人のは感じることができないから、分からない、というふうになる。
こうして、感情は「私的な対象」だという結論に至る。
他人のは分かることできない
これを振り払うための議論:LWの強迫観念

他人のと自分ので内容が異なるのか?
そうは考えない、普段交換可能なものとして扱うだろう。

#118
「悲しみを聞く」「悲しみを感じる」前者と後者は概念的に区別できると…
したがっている「論理」が違う、
媒体を通じて感じる:間接的
直接に悲しみを怒りを、見る、聞く。
(見るという行為の直接性について)
本当か??この議論には納得できない。
ある種のレトリック、強く感じたことを言おうとするときに…
実例が示されないと納得できない。

#120
表情を読み取れない人、つまり感情アスペクト知覚不能な人が出てきた。
これはシークエンス8の主題になる。
なぜこれを出してくるか?
これまでのアスペクトより、他者への態度をより含む。(他人の表情だから)
こーユー表情の人に、従ってこーゆー感情の人に、どういう行為をしたらいいか
→それは倫理へとつながる。

“悲しみに対して盲目な人”
生理的に、もしくは論理的に。
意に介さない人もいる。読み取れるが、無視する人。
赤ん坊は生理的にできない。
このひとは、生理的にできないのではなく、
規範を逸脱している、こういう意味で論理的といっている。

今日、ドイツ語で読み始めた。楽ではないが、
向き合っている瞬間、永遠に続けばいいと思う。

dimanche, juin 04, 2006

investigations:6(100)

#100? シークエンス番号6から

:サブシークエンス1:アスペクトの分類を進める

一口にアスペクトといってもいろんなのがある.
そして,原初的な知覚能力さえあればいいヤツと,その人がどんな知識を持っているかに関係してくるヤツがある.
L・Wの興味は後者のアスペクトである.

:サブシークエンス2:107から.様々な知覚概念の「論理」

「見る」という概念の論理.
110. 頂点,底辺というのをまだ知らない子供は,そう「見る」ことが出来ないのか,説明の意味が分からないのか…前者だとL・Wは言う.
ある概念に「精通していること」,それが「見る」ための「論理的」条件(「論理的」=「見る」という概念がもつ論理にてらしあわせて,という意味)
歯痛ー原初的知覚
見るー知識が関係する
(サブシークエンス1で確認されたL・Wの興味にしたがってこのように考えられる)
つまり,「見る」のは,生理的な条件の内側に,よりきつい条件,知識・概念の条件が有る.
(知識によっても見える見えない,あるとしたら,知識によりみてるものが違う…というトマスクーンのような立場への道を開いている….少しいやだ)


:それ,これ,(das)に点が打ってあることについて:
L・Wがそうするのはdeictiqueな用法のときである.anaphoreではないときである.
ここには彼のある確信がある.それはそういう仕方でしか示せないものが存在するという確信.
L・Wの非常に重要な概念:(現実の実践のこと:あまり意味を理解できない)

mercredi, mai 24, 2006

summa.03.7

カルナップアイデアは,必然的的真理=全ての状態記述における真理(状態記述=可能世界の言語相当物)というものだった.
そういう,言語相当物で可能世界を置き換えるのではなく,その可能世界という概念を未定義語として導入したこと:クリプキの業績

可能世界意味論の新しいところ
1. 様相論理の式の真理性は,各可能世界と相対的に評価される
2. 到達可能性:世界w'で真であることが全て,世界wで可能である(真であるとは限らない)とき,w'はwから到達可能であるという(wに変化を施すことで,w'にいける).
3.

必然的な真理,可能的な真理というのも,到達可能性を用いて定義される.
可能世界wにおいて必然的な真理:wから到達可能などの可能世界においても真である真理

必然的にAというような様相的な式の真理条件がこうして定義できたので,あとは普通の論理とやり方同じでいい.

samedi, mai 20, 2006

la chaine 04

「pならばq」といっておきながら,「pかつ〜q」だという可能性も考慮している場合がある.それは何なのか?(日常の条件文に関する様相的性格を認めないとこういう議論はでてこないが.)なぜそのような事態が可能か?

この視点にたち進む.
それで,日常の条件文発話の際に重要なことは,pは単独でqの十分条件になっている訳ではなく.qの十分条件を構成する命題の集合の中で,その時最も言う価値の高い命題である,そして,そのp以外の命題も既に与えられている,暗黙の前提になっているということを合わせて初めて,pはqの十分条件としての資格を得るということ.

演繹定理の例,分かったか.E0は,十分条件となる信念の全体,そんでE1⊃pならばqは,E1という暗黙の前提の上で,pならばqということ.E1は言及世界とも言える.もし,「お湯に手を入れること」が普通な社会だったら,なんかタイにある唐揚げ屋とか?だったら,p(お湯に手を入れる)ということは,わざわざ言うに値しないので,Eのなかに引っ込んでしまう.そんであらたにr(断熱手袋をしない)という命題がコンテクストに合うように,登場してくる.でもそれは,E0⊃qという同一の信念のこと.

「沸騰しているお湯に手を入れれば,やけどする」「なぜ?」という会話があるとせよ.
その場合,話し手と聞き手は,同じような言及世界を構築できていない.
聞き手は「なぜ?」と問い返すことで,暗黙の前提を問いただしている.

などなど.しかし一番上の問題はまだ.この後のようだ.

sans titre

渋々ほりはじめた地下水脈が,思わぬところで
大きな別の水脈にぶつかった気分
もしくはそれはもともと巨大な一つの水脈だったような感触.

vendredi, mai 19, 2006

alex rosemberg. 01

なぜ科学的説明が法則を含むか?
という問いに、因果関係という観点から取り組む。
現象をコントロールし、予測する、
そのことは因果関係についての知識が与えてくれる。
だから因果関係の説明を科学者は求める。
つまり科学は因果関係の説明である。
因果関係の説明は、ある出来事の原因だけを言うんじゃなく、
そこに働いている法則をもいわなきゃだめだと考えられている。
つまり「こういう法則が働くから、この原因から、この結果が生じる」
といった具合に。
ではなぜ法則もいわないといけないか。
それは、因果関係とは、法則に支配された出来事の連続 だから。
ある法則にしたがい、この原因から、この結果が生じるということ。
(言い換えるなら、因果的な出来事の連続は、
一般的な法則の一例となっている)

:まとめ:
科学は因果関係の説明で、
かつ、因果関係は法則に支配された出来事の連続
だとしたら、
科学の説明は法則を必要とする、ということがかなり
直接的に導かれる。


しかし、論理実証主義者たちは
「科学の説明が法則を含む必要性」について
論じたこのような議論を非難した。

それがなんでか???いまいちわかってない。
来週に期待する。

いま、ひとつ思いついたこと!

先生が指導してくる方向とは まったくちがくやれ

様相論理 もしくは「確率論的」な分析というものもある
論文は先生が教えてくれるものとは別に 自分で引っ張ってくる 
それは 条件文を分析しているやつだ 
つまり 山を高くする
そのほうが楽しいでしょう

jeudi, mai 18, 2006

summa.03.6

4.4.3
:スマリヤンのクワイン批判:
確定記述と名前,同等に扱うな!(ラッセル以来の議論).
:クワインの立場:
単称名:名前と記述は分けなくてもいい

:スマリヤンの批判の骨子:
「惑星の数が7より大きいということは必然的である」
これは,
「惑星の数が実際いくつであろうとも,それが7より大きいということは必然的である」
と読めば,偽.
しかし「現に惑星の数が7よりも大きいことは必然的である」と読めば,
これは真だよ!
後者の読みをクワインは無視して,様相の量化はできねーとか言ってるけど,ラッセルの記述の論理からこの振二つの読みが生じることは分かる.記述のスコープの話だ.この記述のスコープを狭くしかとってないクワインは後者の読みを考慮してないと.

:クワインの再反論:
様相内部への量化が意味をなすことを前提とした議論だから,論点先取だと.

:しかし:
様相内部への量化がいけないって,なんでいえんの?クワインの議論に従えばそうなるけど,そうじゃないって前提から出発してんだから.

:それでもやはり:
ではなぜスマリヤンのいうようなスコープの広い読みを採用しなきゃいけないのか.その根拠もない.
しかもクワインにとって必要なのは,狭いスコープの読みが可能だというその事実だけなのだ.狭いスコープの読みがダメだ!という根拠が見つからない限り,クワインの議論は無傷.

:スマリヤンのいいところ:
固有名と,記述を一緒にするな!
:スマリヤンの指摘:
様相的文脈においては,対応する指示対象が存在する場合でも,記述句の論理的振る舞いが,名前のそれとはことなる.つまり,固有名と,記述を一緒にするな!


「純正指示表現」:純粋に指示対象の機能だけを持つ表現.
記述は,そうじゃない.名前はそうであるけれども.
もし,純粋に指示表現なら,様相的だろうがそうじゃなかろうが,代入可能なのでは(つまり指示的に不透明ではないのでは)?

このように純正指示表現を様相の文脈において得られる文が有意味だとするのが「アリストテレス的」であるという指摘はまあいいとして,そのkeyになる純正指示表現なんてあるんですかそもそも?という問題.
ラッセル,フレーゲ…ううむ.

:バーカン・マーカス!:
固有名はtagだと!!かーなり大胆.大胆すぎるのでは??
だってそんなこというと,
1. □(ヘスペラス=フォスフォラス)が真だということになる.「認識論上の身分の違い」はどうなる…?
2. あと,固有名にもSinnがあって,そのSinnていうのはつまり,「夜明けに西の空に見える星」とか,要するに記述なんですよ.じゃあ,記述と固有名,ホントに別れてると言えるんですか?

この反論をやぶったのはクリプキ

summa.03.5

「純粋に指示的な表現」:単称名で単に対象を指示するだけのやつ.
「指示的に不透明な表現」:代入可能性の原理が成り立たない.

:クワインの様相内部への量化に対する批判:
・様相的文脈は代入可能ではない(□(9>7)に惑星の数=7を代入すると変)
・代入可能でない文脈は,指示的に不透明である.
・それゆえ,様相的文脈は,指示的に不透明である.
・指示的に不透明な文脈内部への量化はいけない
(小泉八雲=ラフカディオ・ハーンを知らないと「∃x(xが日本で生まれたのではないことを太郎は知らない)」が,八雲の場合,偽となり,ハーンは真となることがあり得る.これは代入可能性の原理に反する)
・それゆえ,指示的に不透明である様相的文脈内部への量化はいけない

:クワインへの反論:
1. 様相的文脈は指示的に透明だ!
2. 指示的に不透明だが,量化できる!

1.が有力だと見なされるようになった,それはなんでか??言語的必然性が必然性のすべてを尽くすという考え方が捨て去られたからです.

クワイン:指示的に不透明な文脈はなんでも引用のようなものだと,する!指示的に不透明な表現を全て駆逐すること.それがクワインの目標.

:結局クワインの様相論理批判とは:
必然性=分析性という考え方をとる限りにおいては,様相的文脈内部に量化を施すことは無駄だというクワインの批判は成功する.
でも,分析性=必然性じゃないとしたらどうなる?

summa.03.4

量化理論に様相を導入すること,できるんすか?その批判の最たるもの,それはクワインによるものである.
カルナップの仕事を批判するクワイン.

(なんでカルナップはそっち(様相)に行こうとしたのか,それは,タルスキの仕事のせいで,純粋な論理的構文論ではイカン!という認識を得たから.意味に言及=様相へのコミット).

クワインがなぜカルナップを認めないか,それは,彼が様相論理を考えるさいに,「分析性」と「必然性」を等置しているから.
そのいみではクワインは正しい

カルナップ:「規約」が論理や数学の基礎を与えると.論理実証主義だ.

jeudi, mai 11, 2006

sans titre

形式の意味に文脈がintegrateされてるって考え方を採用するなら、形式の意味と語用論的要因を分ける考え方の問題点が把握できていないといけない。


あした、先生の1人に大学院のことを言え

jeudi, avril 27, 2006

la chaine 03

坂原はあくまでも,条件文の意味は真理関数的に捉えることが可能だという立場にたつ.
そこからはみ出るものも語用論的要因として説明でき,結局は真理関数的条件文に還元できると考える.
自然言語の条件文にとって,真理関数的な条件文の真理条件は必要条件,つまり最低限の制約だと考える.
しかし自然言語の条件文においては,この最低限の制約である真理関数的条件文の真理条件にすら違反するような場合が存在する.
しかしながら,これも語用論的要因を考えることで真理関数的条件文に還元できると…!
大胆不敵,快感刺激.

summa.03.3

実質含意のパラドクス

しかしこのパラドクスは,本当の意味でパラドキシカルなのではない.この…が示していることが真理関数的に正しいことは,真理表を見れば明らかである.
このパラドクスが示していることは,真理関数的な考え方だけでは捉えきれない条件文の用法が存在するということである.

その実際の用法を規制する他の要因を形式論理以外のところに求める道.それを語用論的要因と呼べば,これは坂原が条件文の考察においてとった道のことだ,といえるかもしれない.

様相を量化と組み合わせる困難
バーカン式
まで.

vendredi, avril 14, 2006

la chaine 02

2.2
まとめ
自然言語の条件文の意味は,真理関数的だとする.
するとそうはいえない例に直面する.
しかし,真理関数的に許容される条件分の一部は,
自然言語の条件文として許容され得るということ.
坂原はそこにあくまでもこだわる.

mercredi, avril 12, 2006

la chaine 01

:含意のパラドックスとは:
“qは真である.したがって,pを仮定するなら,qは真である.よってpならばq”という推論が,おかしいこと.その理由は,すでに真であることが分かっているqを導出するのに,つかう必要のない仮定pを導入し,仮定的世界を作っているから.

:条件文が偽になる:
もし,条件文の前件と後件の真理値決定が事実に基づいて独立に行われたら,前件が真で,後件が偽という場合が生じてしまうかもしれない.その時条件文全体は偽となる.それじゃあまずい.普段,こうした状況が起こらないために,どうしているのか.
推論の連鎖の中で,前件pは実際に,条件文を作るときの歯止めとしてはたらく.後件に偽であるものが来ないように,規制をかけている.
条件文を作る時に,前件pをもとに,「前件がこうだということは,後件にこれがきたら偽になってしまうから…」というような推論が行われ,調整が行われ,実際にできる条件文は「pを仮定すると,qは真」というものになる.(条件文と推論という概念をわけて考えること)

しかし,「もしあなたがノーマンに会いたいなら,彼はグランドホテルにいます」のような文においては,そんなことは起こっていないのでは?なぜなら,前件と後件は無関係だから.つまり,ノーマンに会いたかろうが,なかろうが,かれは,ホテルにいるのだ.前件が真でも,偽でも,後件には何の関係もない.ということは,これは,前件をもとにした推論をもとに後件を設定する,という説明の反例になるのでは??

しかしこれは,「疑似条件文」である.「pならばq」ではなくて,本当は「pならば,qであるから,r」という構造なのである.「ノーマンに会いたいなら,彼はグランドホテルにいますから,あなたはノーマンにグランドホテルであえます」ということだ.「pならばr」という条件文と考えれば,qをもとに推論を働かせ,rという後件を導いたと考えることができるだろう.
ではなぜ「pならばr」ではなく,「pならばq」という形をとるのか.それは後述の語用論的要因による.(語用論的要因というブラックボックスだ…)

mardi, mars 14, 2006

relevance.

SperberとWilsonによって開発された「関連性理論」は語用論の最新のモデルであり、Griceの理論の自然な発展形である。この理論では、発話解釈というものを、聞き手の心的表示に対して操作された演繹論的推論メカニズムであり、その操作は「人間の認知系は自分にとって関連ある情報に注意を払うようにデザインされている」という関連性の原理によって支配されている、と考える。関連性を決定する要因には、コンテクスト効果と処理労力の二つがある。関連性理論では、話し手の行為は、最適の関連性を目指していると仮定され、その仮定から、発話解釈の諸現象が解明され、Grice理論に内在する諸問題も克服される。

やることが決まってるなら 別に他の本は読まなくてもいい
ほかの課題はやんなくていい
それは いやだ
いやなら やるしかない
やれと なにかが 背中を おしてくるなら

lundi, mars 06, 2006

summa2.03.3

クワインがまちがってるところ
で、映画のマトリックスにすごく関係するところ
があります

p→qにそぐわないような経験eに直面した。
pを満たすが、qを満たさない。
そしたら、その推論を含む理論の全体が裁きにあう。

・経験e自体が間違ってた。
・論理θの根底にある論理Lが変だ。
・理論θに変なところがある。
・p→qという推論がただしいとされることが変だ。

一番したの「理論θでは、論理Lに従い、p→qという推論が妥当なものとして導出される」という判断
を改訂してみよう。とする。その改訂が良かったかどうかは、経験とのつきあわせにより、決定する。
そのあと、物事が矛盾しなければ、その改訂は良かった。

じゃあこの推論のやり方を改訂した場合と、そうでない場合の帰結を比較してみて、改訂した方がいいかそうでないか、確かめてみよう。

それで、改訂した場合、例えばAという結論が、でたとします。

そのとき、必ず、なんかの推論をしてます。「経験eに直面したら、p→qが無いんだから、こうなって、こうなって…Aという結論だ!」という具合に。
しかし、この「こうなって」が問題です。この「こうなって」というのは明かにある一つの推論です。その推論は、「理論θでは、p→qが否定されている論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」というしかたで導かれています。問題はくり返します。ではこの「理論θでは、p→qが否定された論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」という判断が正しい理由はどこにあるのでしょうか。クワイン流の全体論によれば、正しいと断言できる理由は一つもありません。

…じゃあまた、「理論θでは、p→qが否定された論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」を改訂しよう。○○はもう無いんだ。その上で出た結論と、そうでない○○を用いて導かれた結論を比較して、どっちがより現実の状況と整合的か調べよう。

それで、改訂した場合、例えばBという結論が、でたとします。

そのとき、必ず、なんかの推論をしてます。「経験eに直面したら、p→qと○○が無いんだから、こうなって、こうなって…Bという結論だ!」という具合に。
しかし、この「こうなって」が問題です。この「こうなって」というのは明かにある一つの推論です。その推論は、「理論θでは、p→q・○○が否定されている論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」というしかたで導かれています。問題はくり返します。では、この「理論θでは、p→q・○○が否定された論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」という判断が正しい理由はどこにあるのでしょうか。クワイン流の全体論によれば、正しいと断言できる理由は一つもありません。

…じゃあまた、「理論θでは、p→q・○○が否定されている論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」を改訂しよう… …以下無限に続く

mardi, février 28, 2006

summa2.03.2

:論理実証主義:
「検証」が意味論の中心に据えられている。ということは、意味による真理という分析的真理が、検証という認識論的性格を帯びる。そうした論理実証主義からでてきたクワインが分析的真理と、「何が起ころうとも確証される真理」つまり「アプリオリな真理」を同一視しているのは、当然といえば、当然である。
(飯田隆はこの自らの説明に自信がない)

もし体系全体が「裁き」に会うなら、この分析的な文も、実はおかしいかもしれないということ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもないということになるよ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもない...おかしいはず

3.4.
異なる規約が採用されて、「もう言葉の意味が異なっている」「異なる言語を話している」と?
しかし
「分」と「秒」の例は、異なる規約において同じような役割を果たす語の存在を明らかにしている。
新たな規約の採用によっても、言語全体の中での位置を変えていないのでは?
(新しい規約の採用は言語の「同一性」を破壊する、規約が新たに採用されるごとに「異なる言語」が出現するという主張は、言語の変化という事態を正しく捉えることを不可能にするのではないか)::丹治信春を読んだらいい

3.4.2
カルナップとクワインが表面的には酷似していること。しかし、「言語」と「事実」の間にはっきりとした区別があると考える点で、両者は決定的に異なる。

jeudi, février 16, 2006

summa2.03

カルナップは、人工言語に対しては意味論的規則を特定することで「分析性」の概念を定義できると主張する。

:クワインの批判:
「分析性」を定義しているように見えて、それは実は定義していない。
「それはあくまでも、個々の人工言語のひとつひとつについて、「文Sは言語Lにおいて分析的である」を別々に定義するものである」
L1において分析的、とL2において分析的が、それぞれ定義されたとしても、両者の間に共通しているのは、「分析的」という字面のみで、この二つは別のしかたで、異なる意味論的規則によって定義されたものである以上、本来両者の間には何ら共通性を仮定することが許されない。

もし共通点があるなら、それは既に「分析的」という概念が確立されているから。「意味による真理」という概念が理解されているから。

:クワインの批判に対する評価:
ある概念に対して明確で非循環的な定義がない場合にはその適切さも疑わしくなる:という誤りを犯している。
明示的定義を与えることができないからといって、その概念を理解していないということになるだろうか。

:ある概念が理解されているために必要なこと:
事例を挙げることができる・正しく使える・新しいモノにその概念が当てはまるか判断できる

・つまり明示的定義は必要ではない。

:もうひとつの考え方:
「意味」「同犠牲」「分析性」という概念が、言語活動を説明するための「理論的概念」だと考える。理論的概念が「あるものとして」受け取られるとき、何が必要か。それはその概念がどのような理論的目的のために導入されたものかが明確なこと。その概念が既存の概念とどのような関係に立つかが明確なこと。こうした理論的概念は、ある理論を下敷きにして導入される。明示的定義は、簡単に導入される。
あと別に「循環」といって非難されるべきことではない。LWいってたこと思い出す。

lundi, février 06, 2006

sans titre

語彙レベル
やる・くれる・もらう、というような語の日韓区別
おそらくparameterではない
経験にたよっている 学習しないといけない

でも一個ずつ語彙を経験によって学習しているとすると
基礎語彙の習得にかかる時間が短すぎる


文構造を決定するparameterが語彙習得を規定するというような方向で考えられればいいが 同じような文構造の日韓で 語彙構造けっこうちがうという事実

仮定
・いったん基礎を学ぶと 派生的なものは学ぶ必要がなくなる

しかしそれでも問題ある
・日本語では 使い方簡単に 学ばずにつかえるようになる それが原理によって保証されていると考えうる
・韓国語では 日本語と似たようなデータをもとにしているのに ひとつだけ制約があってつかえないということも同時になぜか身につける

つまり
同じ基礎的なものなのに 派生してくるのものが異なる


まとめ
言語習得がtheoryの出発点になっている領域 探求のそこここで実際の言語習得を参照してみる必要がある

vendredi, février 03, 2006

sans titre

英語の文 週に一本かく
中村真さんの禁煙みたいに

DIYハードコアをききながら

サイダー瓶を額にあててむこうがわ
のぞく

ホットのオレンジジュースのむ

そうして
あたまが つねに
ブレインストーム
ひらめきだ

mardi, janvier 31, 2006

summa2.02.2

こういうところがいちばんおもしれーーーからやめらんねーべらんめーなvolume up燃ーえたりねー枯れ枝夜唸る
waooooooooooooooooooooooooooo


:フォジランの指摘:
『論考』の論理体系は、無限個の個数の命題に「基本操作N」を2度適用することにより、存在量化を表現することができるが、全称量化は表せない。なぜならそのためには否定の操作Nを無限回適用しなければならないが、『論考』5.31は操作の無限回の適用を拒んでいるからである。しかしその修正は容易に行える。真の問題は多重量化についてである。

:野矢さんは存在量化を問題にする:
フォジランや飯田隆は無限個の個数の命題を一挙に操作することを当然のように受け入れているが、それはウィトゲンシュタイン自身の意図に反するものである。

:フォジランの多重量化についての指摘:
存在量化と全称量化が含まれる多重量化は、『論考』のやり方だと、どうしても操作の無限回の適用を必要としてしまう(全称量化の部分で)。これが、自身が設けている操作に関する制約と矛盾するため、『論考』は多重量化を扱えない。

:フォジランのあやまり:
フォジランは、存在量化と全称量化が含まれる多重量化の構成が可能なためには、(1)対象が有限である、か(2)操作が無限回適用されるかのどちらかが満たされなければならないとしている。その上で彼はまず(1)が4.463によって否定されていることを示し、次に(2)が5.31によって否定されるため、『論考』においては多重量化を扱うことができないと結論している。
しかし、野矢は(1)が4.463によって否定される、というフォジランの議論に疑問を抱いている。それは、4.463が論理空間の無限性を主張している命題ではない、と野矢が考えているからである。

:4.463について:
ここで、「無限に」という訳語をあてたくなる‘unendlich’という語は、(フォジランはそう解釈しているがしかし)論理空間の無限性を主張するために差し挟まれているのではない。
4.463は、「トートロジーは、「どのような大きさの論理空間であっても」、その全体に真理領域が及ぶ」ということを述べていると解釈されるべきである。そうだとすれば、この4.463に表現されていることは決して、論理空間が無限であるということと同一ではないのである。

このように、野矢は4.463が論理空間の無限性の主張と結びつくものではないと解釈している。ここでは野矢の解釈に従い、さらに『論考』において対象は単に無限ではないどころか、有限でなくてはならないと言わなければならないことを示そう。

:『論考』の対象がなぜ有限か:
有限の経験しか持たない人間が無限の対象に出会うには、操作による構成が必要となる。しかしこの操作によって構成されたものの間には、内的関係が生じてしまうのである。この内的関係が、『論考』の要請する要素命題の相互独立性と相容れないこと、それが『論考』が対象を有限に限っている理由である。

例えば、「0から初めて1を足す」といった操作によって構成される、自然数というものを考えてみよう。「aは2メートルだ」という命題と、「aは3メートルだ」という命題は両立不可能である。このように要素命題が両立不可能であることは、『論考』が要請している要素命題の相互独立性と矛盾する。こうした理由で『論考』は、無限へと通じる道である、数などの構成されるものを対象として認めていない。
このように、対象が有限にとどまるとすれば、要素命題も有限となる。よってフォジランや飯田が認めていたような、全称量化のための無限個の対象操作をする必要はなくなる(よってフォジランが提示した、存在量化と全称量化を含む多重量化を扱うことができる)。さらに、論理空間も有限になるため、可能な真理領域も有限の多様性しか持たない。それゆえ、すべての命題は真理操作を有限回適用すれば得られることになる。
こうして、『論考』内に不整合は生じていない。

:5.31が言いたかったこと:
以上のことから言えるのは、5.31は操作を有限回に制限しているのではないということである。そうではなく、そもそも対象が有限であり、論理空間も有限であるのだから、操作は有限回の適用のみで十分であるということを主張しているのである。

:相互独立性を取り除く:
さらに相互独立性の主張が取り除かれるとしたら、どうか。
要素命題の相互独立性を撤回するなら、操作による構成物を対象に含めることができる。
(この場合、操作の有限回の適用の主張は削除される。よって、フォジランが提示したような議論に乗っかったままですら、多重量化を処理することができる。)
(そのような対象は無限に構成できる。そのうえ論理空間は有限である。そうであるから、この操作によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。)

summa2.02

:飯田隆の解説による、フォジランが指摘した『論考』の問題点:

それは、『論考』の論理が、じつは述語論理のごく基本的な領域(多重量化)をも覆い得ないという点である

それは以下のような議論
(x)(∃y)Fxy:全称量化と存在量化の両方を含む多重量化を『論考』の「基本操作」(任意個の命題を全部否定したもの)で構成しようとすれば、註の(14)で言ってる方法になる。
この方法は
対象が有限個であるという制約か、
そうでなければ
操作が無限であるという仮定を要求する。
しかしながら、
対象が有限であるという主張は、『論考』が主張する論理空間の無限性と相容れない。
では操作が無限なのだ、と結論できるかというと、それもできない。
なぜなら「すべての真理関数は要素命題に対して真理操作を有限回くり返し適用することによって得られる」
と『論考』が述べているからである。つまり、操作は有限回に限られているのである。

このように上に挙げたような種類の多重量化は『論考』では扱えない、から『論考』は述語論理をカバーできない、とするのがフォジランの議論のようです

自分がこのフォジランの話で??と思ったのは、「対象が有限性が論理空間の無限性と相容れない」という点です。なぜなら「対象」が有限でも、それの有限個の「名」と有限個の規則で無限個の文を生成できるから。しかしこう言い得るためには、操作が無限であることが保証されていないといけないはずだ。この点で『論考』は操作を有限個に制限している。よってこのままでは自分が疑問に思ったところは反論になり得ない気がする。
(しかし、5.31は操作が有限でなくてはならないという制約を述べたものではないということが、後に示される)

飯田隆は、フォジランに賛成している。野矢さんは賛成していない。

dimanche, janvier 29, 2006

summa2.01

よく言語学で、認知言語学が出でくる背景として、論理学的意味論、真理条件的意味論が言語の意味の理解として十分でないという認識があったって、そんでそのもとはウィトゲンシュタインみたいな感じでいわれます。
ほんとにそんな単純な話かな…!

:真理条件から検証条件への転換:
命題の論理的分析:命題の真理条件を明示的に取り出すこと
真理条件:「像を実在と照合する」という『論考』の言葉を、「経験との照合」と読む論理実証主義者
フツーにそうかなとおもってたけど。彼らは経験主義者だからね。


:検証条件の帰結:
二値性の原則に影響。それを防ぐために、logical positivist:
要素命題以外の命題はすべて要素命題の真理関数として得ることができる
要素命題は決定可能である:感覚与件命題です
が導入される
ということは、要素命題以外の命題は、すべて感覚与件命題の真理関数として得られる。
ようするに、感覚与件命題だけあれば良い:感覚与件命題への還元主義


しかし『論考』の基準からすると、感覚与件命題は要素命題になり得ない
『論考』は、要素命題の相互独立性
感覚与件命題「これは赤い」は必然的に、「これは白い」を排除する。ということは、相互独立じゃねー。
だって相互独立だったら、片方の命題の真偽から、
もう片方の命題のいかなる真偽もみちびけない。
だってふたつは独立なんだから、両立可能ということ。
だから、「これは赤い」といったあとで、「これは白い」といえるはず。
でも実際はそうじゃない。
ということは、感覚与件命題は要素命題が満たすべき基準満たしていない。
ウィトゲンシュタインも後でこのことを認めた


1.3. :検証主義の内容:

:ヘンペルの議論のどこが大切か:
論理実証主義の「検証主義」への批判として今までなされてきたものは、「弱い」テーゼを考察すること。詳しくは「検証可能性」という概念をちゃんと定義できるかという議論。そんで、そもそもその検証可能性の基準が定式化できないんだから、これを命題の有意味性の基準にするなんて、根本から誤ってる、という流れの議論。その代表的なものが、ヘンペルの議論。



意味は「真理条件」なのか。「検証条件」なのか…という問いから、
:「文の意味=検証条件」という試みとしての、シュリック検討:
他の人たちは真理条件と検証条件を混同してるけど、シュリックは両者のギャップを埋めようとしている。
「直示的定義」「検証可能性」


:分子論的意味論というアイデア:
「単独の語—対象」という単純なつながり(アトミック)を想定するのでもなく、言語理解の単位を言語全体に求める(ホーリズム)のでもなく、言語理解の単位を文に求める。そんで、ひとつの文の理解は必ず他の多くの文の理解をともなっていなくてはならないという考え方。

分子論的意味論では、「語の意味は文の意味への寄与」。
経験主義的に言い直すと、「語の意味は文の検証条件への寄与」。
別に、語が有意味であるために、それが「単独で」何らかの経験と結びつけられている必要はない。

シュリックの議論は、単なる原子論的意味論と分子論的意味論の混同ではない、と考えうる。
シュリックは、直示的定義と、要素命題を関連づけている。
シュリックの議論は:(a)言語理解にとって、直示的定義に関する文の習得が基礎的である
(a)は、すべての文は直示的定義に用いられる文だけから構成された形の文に変形できるということ。
それは、「すべての文は直示的定義の文の真理関数だということ」この議論のもとは『論考』の要素命題。
『論考』5で、「命題は要素命題の真理関数である」といっている。
シュリックは、この要素命題と直示的定義を結びつけて考えた。
したがって「すべてのぶんは直示的定義の文の真理関数だ」という結論になる。

(b)そしてそういう特性を持つ文というものの意味は、「検証条件」である。
…え、なんで(a)みたい特性を持つ文の意味は「検証条件」になるの?
それはp. 102にかいてあるよ。

summa2.

公理(第一原理)からの演繹により、ある分野に属するすべての知識を体系化するという方法。
チョムスキーもこれかと思います。


近代の哲学者の問題意識
我々の認識にとって疑い得ないという意味での、「確実性」の問題。
確実性と必然性の混同が起きた。以下の議論はよく用いられる
(a)あるものが必然的なら、それは確実である
(a')あるものが確実でないなら、それは必然的ではない:対偶
(b)あるものが確実なら、それは必然的である:(a)の逆。これすら受け入れる
(b')あるものが必然的でないなら、それは確実でない:ということはこれも受け入れる
しかし(b')はおかしいでしょう。だって、「我あり」ということが疑い得ないとしても、その我が存在しなかった、もしくはこの我が、「自分じゃなかった」ことはいくらでも考えられる:必然的ではないが、確実。になってる、という反例がそんざいする。


ヒュームが激しく批判した後に必然性がまだ残りうるとされたのは、数学と論理学。
しかし、近代において論理学は、論理的推論は認識を広げてくれるものとは考えられていなかった。
論理的推論は、既に知られていること、前件に含まれていることをくり返すだけなら、確実なのは、必然なのは確かにそうだね。
けど、なんか既に含まれてるものをくり返してるから必然だというのは、本来の「知識」とは呼べないんじゃない?ちゃんとした事実の中に、これは必然的だ!と呼べるものがないとな…。


「ア・プリオリな認識とは経験に全く依存しない、ア・ポステリオリは経験に依存する」という区別ではない
だって『純粋理性批判』第2版緒言で、「われわれの認識がすべて経験をもって始まるということについては疑いがない」っていってるし。認識自体は、全部経験いるっていってるからな。

「ア・プリオリな認識とはその正当化のためにいかなる経験も必要としない、ア・ポステリオリな認識は必要とする」ということです


カントが用いている区別
・必然的—偶然的
・確実—不確実
・ア・プリオリ—ア・ポステリオリ
・分析的—総合的


上の3つは同じものとして考えられている:カント
分析的・総合的というのは:われわれの認識を増大させるか、そうでないか。
数学の知識は「ア・プリオリかつ総合的」とカントはいう(ちなみに論理学の知識はア・プリオリだが分析的)
つまり
「その正当化が経験に依存しないにもかかわらず、われわれの認識を増大させる判断」
でもそんなことってあるのか…。



他には物理学と、形而上学がそーゆー学問の候補だけど、後者は否定
なんでそういえるのかを説明すること、それが『純粋理性批判』の主要な目的と言えるだろう

mardi, janvier 24, 2006

sans titre

ウィトゲンシュタインの「そのように見る」は
「単にそのようにみなしている」と
「突然リアルなものとしてみえてくる」
との区別だよ
ちゃんとわかってなかった
きちんと整理してなかった
でも「そのように見る」ってことが
ぼくらにとってリアルだってことは
いつもわかってた
だってジャズをやっているから
くやしいぜ

lundi, janvier 23, 2006

sans titre

parameter:80年代研究進んだ。
リチャードケイン:ロマンス語の研究とか。パラメタ—は同一言語間にある方言間の差異も結局説明する…。
多総合的な言語(アメリカインディアン語)/孤立語(中国語)この二つはかなり違う語。かなり大きなところ(上位の?)のパラメータが異なる気がします。
これを決めてるパラメータがイタリア語とフランス語の違いを決めてるパラメータと同じであるとは思えない…。だってイタリア語とフランス語、方言ぐらいだもん違い。
前者のようなパラメータと後者のパラメータの違いとか、考える必要性でてくる。
そもそもパラメータとは何かという問い。また根本的な問いに戻る。

あるものを設定して、その存在を証明するために、様々な経験的研究行う
面白い成果が得られて一段落ついたとき、そのもの自体の位置づけが今度は問題になる
また根本的な問いに戻る。
しかし過去の遺産をふまえて。そしてrevised versionになったら、そこからまた経験的な研究していける。
それがくり返す限り、進歩する。
その繰り返しがストップしたら、方法論として行き詰まる…。

jeudi, janvier 12, 2006

summa.03.2

知らなかったこと:指示対象を欠く確定記述に対するラッセルの態度は「on denoting」で初めて変化したわけではなく、「no denoting」をかく直前はフレーゲ的立場を取っていた。「on denoting」でその立場を批判した。

『数学の原理』:何でも存在者に対応
「命題の存在的含意」:フレーゲ的:空な確定記述はSinn(meaning)あるがBedeutung(denotation)ないという立場

新しく知ったこと:指示対象を持たない確定記述の他に、指示対象を持たない固有名の問題があること

表示句は意味論的単位ではない:これが「no denoting」でラッセルがたどり着いた答え
ということは、意味論的関係として残るものは、語とその指示対象だ:そこからの帰結
しかしこの結論では、フレーゲが「意義と意味について」を書いたときの問題へと逆戻りではないだろうか
そうではない

それはpp. 191-192に書いてある
一見すると「スコットは『ウェイバレー』の作者である」という文は「a=b」の形式に見えるが、「b」は表示句であるため、従って意味論的単位を形成するものではない。「b」単独で何かを指示することはない。「表示句「b」のmeaning」は存在しない。フレーゲと同じ枠組みに乗っかっていない。よってp. 191の議論も適応されない。

summa.03.1

フツーの「コトバ」と「モノ」の関係:心理的
表示の関係つまり「ガイネン」と「モノ」の関係:論理的

論理学の対象:論理的な普遍的などこかに存在する対象どうしの関係:これが論理的。

いままで意味論意味論といってきたその論の基礎、つまり「語がそれ以外の何かを代理している」という大事なことが、心理的といって排除されようとしている。錯乱。

the+single noun: definite descriptions

『数学の原理』のときにおけるラッセルの確定記述の問題:
ガイネンのみを構成要素としてもつ命題を表現してる文が、なんでモノであるソクラテスについてのものになるのか。実際そうなっちゃってるけど、じゃあそれはなんでなのか。

summa.03

3.denotingの問題

・項は存在者と同義
thingとconceptにわけられる。
thingは固有名で指示される。

denoting phrase; a man はdenoting conceptをindicateしているがそれが含まれるSocrates is a manという命題は、そのconceptについての命題ではない。

denoting phrase(もちろん固有名ではない)はconceptを指示する、しかしそれが含まれる命題はそのconceptについての命題ではない。文が表現している命題は、実際のmanである。
ということは、固有名を用いない時は概念を指すといっといて、固有名ではないのに表示句のときは実在のものをさすんですか。このときだけなんで。
なんで…
表示句の問題:ガイネンしか指示しないはずの表現で、モノが指示できちゃってますけど…という問題。
“いやーdenoting phraseの時だけは別なんですわ”とラッセルはいってます。

mercredi, janvier 04, 2006

sans titre

宇都宮をすこしうろついてました
正月からレコード屋があいてました
その店はドープです
ほとんどハードコアパンクだけです
初期パンクすらあんまおいてない
店長もいいかんじに無愛想です
80年代に活動してたSiCというのや
イタリア語で歌っているtomorrowというのや
知らないの勧めてもらったりして
何枚か買いました

いわゆるジャパコアがすきです
ジャパコアってのは
僕がうまれたころ保育園だったころ
日本の黎明期 相当のアンダーグラウンド
やってたバンドがだいたいそう呼ばれてます
すこしずつ集めてます

それよりずっとわかいですけど
Exclaimってバンドがいて
ホントに
かっこいいです

周りにはそーゆーハードコアパンクきいてる友達は
いないので あんまそーゆー話はしないです

その店長とは二言三言 ぼそぼそと話をしました
それだけだったけど
ほんとに上がりました

ある特別な感情を共有してました

自分のゆるぎない核は ここにあって
そっから ぜんぶがでている と思います