vendredi, décembre 23, 2005

summa.02.5

意義1言葉の理解の相関者
意義2真理条件
フレーゲに従いたかったらこの二つを結びつけるものが必要だ。
結びつけないようにしたいなーという気持ちがでてくるのは、

指示対象を持たない単称名の場合。
そーゆーときはさ、何か理解はしてるけど、真理条件はないんですわ、といいたくなる。だからそうした表現が出てくる文も、何か理解はできるけど、真理条件はないんですわみたいなね。でもフレーゲは文の理解は真理条件の把握です、と言ってる。フレーゲに従うなら真理条件がないのに文の理解はある、ということはできない。

指示対象がない単称名が含まれるときフレーゲは「その文は無意味」とのべる。
ラッセルは、「その文は偽」とのべる。すこしまえまでそーゆー理解。

summa.02.4

文の真理値=イミに影響をあたえない語の意味的要素=陰影
(日本語の例のような批判を受けてもなお陰影は副次的なものとして残される。意義が副次的なのは、フレーゲのいってる以外の理由では、言語的コミュニケーションにとってもっとも基礎的なのはいわれたことが真であるか偽であるかだ。とすればそれに関係している意義が大切だ。これは認知意味論からは反対される)
個々の言語行為がどのような種類のもの(疑問・命令…)であるか。またどのような内容のものであるか。
前者を明らかにするのが、力に関する理論。後者は意義の理論が明らかにする。
異なる種類に言語行為を通じて共通であるような言語行為の内容を否定することは、すべての語に関してそれが用いられるごとにその意味が異なるという帰結を生む。(体系的意味論の不可能性のへと赴く)
この帰結はこれまでであったことのない文を自ら発したり理解できるという事実との間に緊張を生む。
かーーーーーーーーーーーーーなり重要だ!

summa.02.3

Über Sinn und Bedeutung(1892)
2.3.2
イミに関する合成原理:文のイミはそれを構成する部分表現のイミと文の構造によって決定される。
イミに関する文脈原理:語のイミはそれが現れる文のイミ(真理値)への寄与である。
「信じる」「望む」:propsitional attitudeの動詞が作る文脈:“内包的文脈”という。
言語の理論はその言語においてどのような推論が妥当であるかについての特徴づけを含んでいなくてはならない。推論の妥当性にとって決定的な役割を果たすような意味的要素を文が所有しているとするならば、その意味的要素として真理値を選択するのは、もっとも自然な選択であるといえる。
(S→B)意義はイミを決定する
意義はイミを前提する。イミは意義の先にある。フレーゲのイミ論は意義論を支配してる。
なんでかはよんでくれ何度でも。
固有名の意義:その指示対象が決まるための条件

summa.02.2

語の意味の特徴づけは、「その語が現れる文全体の意味への寄与」という観点からなされれないといけない。
「固有名の意味とは何か」という問いの答えは、
「それが現れる文の意味に対してどのような寄与をなすのか」についての答えになってないといけない。
文全体の意味に対する語の意味の寄与を明らかにすることで、
語の意味以外の要素で、文の意味に寄与しているもの、
つまり構造を明らかにすることができる。
・文脈原理がいうように語はそれが現れる文に対して、意味的な寄与をする。文全体に対する意味的な寄与として個々の語が意味を持つ故に、我々は既知の語からのみ成り立つ文については、それが初めて出会うヤツでも意味理解できるのである。
(初めての文でも理解できるようになるような、その文の意味に対する語の意味の寄与というのは、もっと具体的にはどのようなものか……??論理形式とか、カテゴリーとかかな)

文脈原理は意味の一般的説明に関わる:語の意味は文の意味の寄与
合成原理は個々の文の意味に関わってる:文の意味はそれを構成している語の意味と構造(論理形式、へ?これってなにー?L・Wとはちがうんすか?)の把握によって決定される。
一見反対のこといってる。でも別に。違う次元についての話だからそもそも。
意味の一般的説明においては文が第一義的(文脈原理)。個々の文の理解においては語が第一義的(合成原理)。

investigations#8

さらに、「見るの解剖」

#88、89ある「見る」の概念それは見なす(regard as)とにている。しかしそれより、「見る」に近いんだ。「として見る」よりこまかい。「として見えてて」さらに、うわ生きてる!みたいな。

「見なす」それがなんだか分かる限りにおいて、ずっと起こっている。「ああおばさんね…みたいな」
「そのように見る」突然本人そのもののように見える「ウサギが見てるよこれ!斜めうえのほうさ!」って叫んじゃうとき「そのように見てますね」

オバーサンの絵であることには何の疑いもない。
そのとき生きている!オバーさん本人がそこにいるように見えてくるとき、
そこが分かれ目です。
それって、ほんとにオバーさんに微笑みかけられた時の感覚の表現と同じなのか:
(同じになることもあるかな……)。こっちの場合に、何らかの体験をしている。「微笑みかけてる!」みたいな。

ちょい前までは、「見る」「見なす」「知る」の区別やってましたよね。
今度から、広くいえる「見る」(「知るとは区別されるもの」)のときに、
ある種の体験がともなうものを見ていく。

概念=本質とかじゃなくて、「普段使ってる言葉のルール」
「aはxでもありうる」という言語ゲーム(つまり「見なす」から「知る」へと…)をどのようにして覚える?
……L・Wの答えは、「ごっこ遊び」

#99先生は、対象が変化する、といったがしてないんじゃないすか〜これは?
でもいい。これは間違ってたとしてもそこから深い方にいけるやつだ。
単なるテンポの変化がある瞬間からそうでなくなる。
別物に聞こえてくる。アスペクトといえるかな。
同一性をつなぎ止めるのはテーマのメロディかとおもう。

investigations#81

#81ふるまいの微妙な陰影という概念。これはスポーツや楽器のこつだ。重大なのは、それが行動の違いを引き起こすからだ!

#82this is what i treat it as:この表現分かんなくてくやしがる。私はそれをこれこれのもの(実物)としてあつかう:見てる場合・そのものと接してる時と同じようにふるまいたくなるとき、「見てる」という。
たんにしってるというとき、そんな「入り込んでない」。態度が違うということ。

#83L・Wの大切なconclusion:見る・として見るの共通点:二つは同じではない。が、目の前にその実物があるような態度を取る。HE図のときはもちろん「見てる」ときとは違いますよ、でもねーウサギのアスペクトを見てる時はウサギを見てる時と「ちょっと」同じ態度をとりますよ。態度という観点から「見る」「知る」…を考えていきます。

どの程度か?を見ていこうとする態度がL・Wいつもやばすぎる。

lundi, décembre 19, 2005

sans titre

poverty of stimulous の問題が有効でないとしたら、UGの設定自体が崩れる。母語としてるひと、外国語として学習してる人、たとえば日本語の活用の習得のスピードと直観がちがう。(おれに「たべる」にくらべて「すべる」が活用の面から見て例外的な動詞だといういしきがあった?)動詞の活用をすべて経験から覚えるの?ぜんぶの動詞の活用をここにおぼえるのではなく、類推という認知的な能力をもとに何らかの規則を理解するのではないか。UGなんて別に出さなくてもいい話である。“ただしもし類推しかしていないとしたら例外的な「すべる」の活用については、全員が一度まちがうはずである。アメリカの子供がgo→goedと言ってしまうことがあるように。そしてそのあと親とかにまちがってるよとなおされないと学べないはずである。”しかしそうとは考えられないだろう。“そうでなければ一度全員が「すべった」もしくは「すべらない」という、「たべる」には出てこない活用を耳にし、みにつけたと考えられる。”そうかもしれない。もしくは、基本語彙として、UGを発動させる初期データの中に活用を含めて入っているとも考えられるだろう。

まとめ

1.UGが全然関係してないといえる領域
2.そんでデータが等質ではない。
3.なのにみんなの直観がいっちする

この3つがそろうとUGを設定することを無意味にする。体系を一気に崩壊させる。
たとえば、日本語の活用。UGに入ってるわけがない。身に付けたとしか考えられない。

“いやUGに言及することなくこの現象を説明できる。UGとは別の問題に還元することができる。
言語習得の能力とは別に、類推という認知的な、動物も持ってるけど人間においてとくに強力に発達した能力によって、活用を身に付けたとも考えられる。(そのばあい、「射る」という動詞などで母語話者の直観が一致しないことが説明できる。じぶんはまちがえてた)。そうです、アナロジーとか帰納(induction)という人間が持っている高度な能力です。

じゃあ、UGとかどうのとかいろいろいってるけど、ぜんぶこのさ認知というさ、高度な一般的な学習機構・学習機能の能力で身につけてんじゃないの。言語の習得だけUGとかいって独立に設定してますけど、言語にかかわらない強力な人間の認知システムで説明できんじゃん。なんで言語だけ特別視するのか(つーかそーゆー認知みたいの語の理解に不可欠とか、脳のモジュール性が否定されているとか…)。”

……
サルはUG持ってないからヒトみたい言語はなせないと説明するのか・サルもヒトも認知能力もってるけどサルとヒトと程度が違いすぎてサルははなせないと説明するのか。
……
UGみたいのが進化の過程で突然変異としてemergeしたと考えるのか
認知能力があるときに飛躍的に進歩した結果でそれは連続してると考えるのか
……
しばらくむかし友人にぜんぶそれ脳がもってる期待値をだす能力みたいなもんでといわれてそれがかなり強力で頭からはなれなかったのですがやっとその反論のないようがりかいできたようなきがする。だからとても今日はよかった。そのさきにはこれからいく

samedi, décembre 10, 2005

summa.02

specify:どのようなものか述べる:特徴づける:定義する…。
単称名の特徴づけを「それがどのような存在者を指すかについての考察」から引き出そうとするのは間違ってる。
「単称名とは対象をさす表現である」という感じで特徴づけたとします。
これでオケーにもしなるとしたら、対象ていう概念ももう規定されてるはずですよね。
”そうすると、数詞が単称名であるかどうかは、数詞のさす存在者、すなわち数が対象であるかどうかが、この前もって与えられている対象の判定に照らして判定されることになる”
もう対象が何かってことはさきにあたえられてんだ。そんでそれにてらして、「あ、この数詞のさす存在者(数)は対象をさしてるから、この数詞は単称名だ」とのべるってこと。
これは、数詞が単称名であることから出発して、数が対象であると結論するフレーゲの議論とは逆。

”対象がさすものが単称名であるのではなく、単称名のさすのが対象であるという主張は存在論的カテゴリーに対する文法的カテゴリーの第一義性というテーゼに裏付けられている。
フレーゲも、数詞が文法的には単称名として振舞うことから、数が対象であるという結論を引き出せると考えたに違いない”

もし、自然言語の理論を、述語論理をモデルにして構築しようとしたら、その述語論理の根幹にあってそこからすべてが派生してくる「単称名とは何か」という問題は、非常に重要であらざるをえない。

summa.01

文法的カテゴリーの分類のしかた:その語と入れ替えてもその文が依然として文法的に適正なら、同じカテゴリーだ。
「文法性を保存する相互置換可能性」
文と単称名(飽和した表現、基礎的カテゴリー)を特定すれば、あとは派生的に導かれる。その導き方は、その基礎的なヤツの一部をさらにargumentと見なすこと。
argumentのカテゴリーがNであり、argumentにふさわしい表現を代入した結果得られる表現のカテゴリーがSであるとき、(S/N)と表現できます。

tractatus.16

transzendental
論理が超越論的:
単に、経験によって把握し得ないという意味ではない。この世界に対して超越的でありつつも、なおこの世界がこのようであるために要請されるもの、それが「超越論的」と呼ばれるものである。実際、論理は、それ自身を語ることはできないが、世界を語るために、世界が語られたようであるために、不可欠であるのです。
倫理が超越論的

永遠の相のもとにとらえる
対象を、論理空間とともに捉える。それは、論理空間の礎石として捉える。論理空間の構造を見て取る、その時対象は不動の実体となる。変化するのは諸対象の配列であり、対象そのものは変化しない。
また、対象は消滅することもない。死んだ。でも思考可能である限りウィトゲンシュタインという対象は存在している。対象は変化せず、生成消滅もしない。これが、対象が実体であるということの意味である。

論理空間とともに、対象を論理空間を構成する不変の礎石として見る:これが永遠の相のもとにとらえるということである。ただし、この永遠の相のもとで捉えるのは、論理的な分析によって、論理空間を明らかにすることによってなされる。つまり、啓示とかではないのさ

死が人生の出来事でない理由
論理空間を張るための超越論的条件として、私の生が必要だ。ということ。
私が死んだら、論理空間は消滅し、私はいっさいの思考の足場を失う。
私が私の死を考えるということは、この論理空間の消滅を考えるということ。
しかし、論理空間の消滅なんて考えることはできない。
とすれば、私の死は考えられないのではないか。
つまり、論理空間に私の死は含まれないのではないか。
でもさ、私は、他人の死と同じように、自分の死について考えることができます。

論理空間に含まれる最大の虚構であるという。

tractatus.15

例えば、¬P∧Pがトートロジーであること、それは、Pに対してこのように真理操作を施せば真理領域が論理空間全体に及ぶということ。この事実が、ここに含まれる論理語「でない」「かつ」の真理操作としてのあり方を示している。
このように、論理語をある仕方で組み合わせると、真理領域が論理空間全体に及ぶ命題ができる、この記号構成上の事実がそこで用いられている真理操作(論理語)の内実を明確にするのである。

『論考』が考える論理学の役割:論理語の真理操作としてのあり方を明確にする学問。そして論理語の内実は、上記のように、ある命題がトートロジーであることによって、明確に示される。だから論理学はトートロジーに関わろうとする。

論理学がトートロジーに関わるのは、それが必然的真理として、偶然的真理とは異なる真理の領域を明らかにするからではない。

tractatus.14

入力が何であれ、真を出力する、という考え方自体、『論考』とはちがう。だって、『論考』は論理語を真理関数とはしてないから、別に、真を出力したりしない。

素朴な規約主義が証明の必然性を説明できない理由を繰り返し確認する

tractatus.13

・frege and Russell:
Number is an attribute of a set. For example, when we say "there's 10 apples", the number 10 is an attribute of the set 'apple'.
Or, number is a set composed of sets members is same number. For instance, 10 is an enormous set composed of sets. and all these sets' members are 10 each.
・wittgenstein:
Number is the number of algorithm(???). Number is the number(frequency) of operation. Hense, it is not a name any more than the logic operator is. (it is no more a name than the logic operator is)
Therefore, '1+1=2' is not a tautology as logical empiricists say. The reason is that number is not a name. Thus, '1+1=2' is not a proposition.

lundi, décembre 05, 2005

sans titre

生成文法で、syntacticなparameterだけじゃなくて
lexiconに関係することも、考察の対象になっている、
つまり、81年にbreakthroughがあったugの下位理論には
含まれてないことも研究されていることを知った。
言語の間で単語の意味が微妙に違うことを、
どう説明するかということが(おそらく)考察されている事を知った。
とても興味がある。

mercredi, novembre 30, 2005

sans titre



お久しぶり、
こっちでは、こっちに棲んでる鬼が
稀代のストーリーテラーがヤバい本だしたよ。
おれたちにはくれたんだ。うれしかった。感謝。
がっつり、読ましてもらいました。
よかったら手にとってみてよ。

ヤバいヤバいいってる「だけ」じゃいみねえ
ってbosstinoがいってる気がする。
このほんでもおなじさ

samedi, novembre 19, 2005

tractatus.14

「私の言語の限界が、世界の限界を意味する」

私の言語の限界はいかにして確定されるか、それは私がいかなる要素命題をもっているか、いかなる対象にであっているか、いかなる存在論的経験をしてるかによっています。その言語の限界は、確かに、論理空間の限界と一致してます。よって、「私の言語の限界が、世界の限界を意味します」

「世界は私の世界である」とはなんでいえるか

私は他の存在論について、語ることも示すこともできない。自分の論理空間の外にあるから。
私の存在論は語ることでできず、しめすのみ。語るための前提だから。
という考え方

「世界は私の世界である」:「世界の限界を定める対象領域」と「私の世界の限界を定める対象領域」がおなじであるという考え方の表明ですこれは。ただし「世界は私の認識した範囲だけに限られる」というのではありません。もちろん私が確認してない事態というのはあります。でも私は、世界の全部の対象について語りうる、出会える原理的に。ということは、世界にある対象の全部と、私の世界にある対象の全部は、最終的に一致する。かな?でももし、世界のそとにあるもの、語り得ないものも世界・対象として認めたら、ウィトゲンシュタインみたいな独我論はとれないよ。

他の存在が他の存在論を開いているかもしんないと、いう「かもしれない」というのは、どれほど強い実感であっても、根拠のない実感でしかあり得ない。きっとあるだろうと思う、それはしかしまともな思考ではあり得ない。こうウィトゲンシュタインは考えた。そこから、自分は??

(「ウィトゲンシュタインが「私の言語」と述べる理由は、名と対象の意味論的関係が私の志向性に基づくからというのではない。私はそう結論したい」:飯田隆みたいな結論を受け入れないとしたら、これを受け入れることになるか。そうしたら、



…志向性というのが像関係を成立させているというのは転倒で、その逆である、という考え方に組することになるのか。)

done!よろしい!

tractatus.13

要素命題の相互独立性、これをL・Wはドグマ的に信じている。そこから、『論考』の対象が有限であることも説明できる。つまり、自然数のように無限個のものを捉えたかったら、操作によって構成するのでなければならない(フレーゲ的な関数観とは異なるため)。しかし、操作によって構成したものどうしの間には、内的関係が生じてしまうのである。(例えば、「aは3メートル」という命題は「aは4メートル」と両立不可能、という関係が生じる。「aは3メートル」といったら論理語の働きによらず、「aは4メートルではない」ということを含意)。これは相互独立性に抵触する。だから、構成したもの・無限のもの(具体的には自然数)を『論考』は対象として認めていません。こうして『論考』においては、対象には、存在論的な経験で出会うしかありません。
しかし、相互独立性、それが間違ってるとしたら、対象が有限である必要はなくなる。対象を無限に構成していける。

5.32 すべての真理関数は、要素命題に対し操作を有限回くりかえし適用することによって得られる。
これは真理操作が無限界適用されてはならないという趣旨の発言ではなく、実際問題として、有限回の真理操作ですべての真理関数(命題)は得られる、つまり論理空間は有限だということを表明しているのである。けどねー要素命題の相互独立性を撤回するなら、対象は無限に構成できて、しかも論理空間は有限。しかし操作の「以下同様」によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。
こうして、不具合は生じない。

tractatus.12

『論考』の体系:論理語に全称量化子、存在量化子がはいってない。命題論理にとどまる。述語論理はカバーしてない。
対象が有限であるときは、述語論理が必要とする表現力は論考の範囲でまかなえる。
では対象が無限のとき、「すべてが点灯している」をどう表すか。「aかつbかつcかつ…」と無限のかつであらわせばいいのか。
それはダメって論考に書いてある。

「真理操作の無限回の適用を拒むほど厳格に構成主義的立場を取ろうとするものが、無限個の基底を一気に操作するようなことを許すだろうか」
操作をうける命題も有限個じゃないと。
ということは、論考の対象は有限なのかい。(無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れる、ということは対象が有限だから論理空間も有限だという説明では不十分だということになります)
『論考』的には、対象が何個あるのかということは、個人の体験に依存する。(不十分)

上限はない:原理的には無限の対象にであうことができる
無限ではない:実際無限の対象に出会うような経験はない

というのが、仮に『論考』の考え方だとします。でもよー無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れるのです。ということは対象が有限だからといって論理空間も有限だといえなくなります。『論考』の説明は不十分だということになります。
とおもってたら、、、だよマジで。

tractatus.11

関数f(x)=x+1に自然数を構成する力のないこと:lwのいい分
0を代入して、1を得る、そしてまた代入し、2を…そして自然数。というわけにはいかない。なぜならL・Wによれば関数はドメインとコミになってはじめて意味を確定する。それゆえ、定義域が最初0なら、それを代入したf(x)=x+1にこんどは1を代入する、ということはできない。1がだいにゅうできるためには、最初から定義域に1が含まれてないといけない。ソーユー感じで、f(x)=x+1で自然数を出したいのなら、最初から定義域に自然数が含まれてないといけない。それゆえf(x)=x+1では、自然数を構成できない。

フレーゲ
P∧Qの、P、Qは変項。ここにT/Fが代入される。出力は、P∧Qの真偽:構成要素の真偽から、命題の真偽への関数:それを真理関数とよぶ。
L・W
P∧Qの、P、Qは変項ではない。命題。P∧Qはただの命題。∧はP、そしてQが真となるような具体的状況(真理領域)の共通部分を取り出すという「操作」である:だから別に、関数ではない。かれも真理関数っていってるけど、それはいささかも関数ではない。

L・Wに従ったとして、論理がア・プリオリ、とL・Wみたいにいえるとする。すると、論理語は、真理関数ではありえない。だってもし論理語が関数だとすると、関数は定義域にいぞんしてますから、その定義域は、いかなる対象があるかということに依存します。いかなる対象があるか、ということは、ア・プリオリに定まらないです。ということは、論理語が関数だと考えるのは、おかしい。
しかし、操作だったらいつも同じ。どんなモンがきても、操作はいつも一定のもの。∧(共通部分)∨(合併)…。
つまり、論理のア・プリオリ性とは、操作のア・プリオリ性のことである。

論理空間のア・プリオリ性:
いかなる対象(名)が存在するか、いかなる要素命題(事態)があるか(これが決まれば論理空間は決定する)
このことは、ある命題の真偽(経験によって確かめること)に先立つ。(認識論的経験に先立つ)
しかし論理空間自体はいかなる要素命題があんのかに依存している。したがって、強いアプリオリではない。

論理空間の可能性について。それが「理解可能性」だということ。だって、論理空間がW1〜W4みたいなもんだとすれば、まず、W4の真理性が存在論的に要請される。そうじゃねーと、対象aや対象bに出会えなかったり、するときがありますもん。まず、成り立ってるところから(事実から)いかないと、そっからじゃないと可能性も何もないっす。いま論理空間がこうだということは、これこれがなりたっている、そして、そうじゃないこともありえた…これじゃまちがってるな???なんども戻ってくること。p. 162

dimanche, novembre 13, 2005

le 9 octobre

sunday 9 October

ある待合室で
物理を専門にしたという職員にはなしかけられる
おそらく明らかに大学生風でない風体・態度と
哲学という言葉が気にかかったのだろう、
 哲学などやってくっていけるのかね?
と突然尋ねる

食っていけるということでアナタが意味していることはどようようなことですかもし生活していくというような意味ならバイトでも何でもして食っていけばいいだけの話ではないですかそこに何の問題があると言いたいのですか本当にしかるべき状況になれば段ボールでもブルーシートでも集めて暮らしていきますその程度の覚悟もなくて哲学などできるはずもない確かにポストもなくて大変ですよねでも頑張っていくつもりですみたいなことお前に言うつもりはまったくねえ

しかし、哲学なんて、何なんだね?
そんなこと、おそらく何度も自問した
つまり、彼は明らかにかつて自分のなかに存在していた
自分のなかに存在したダークサイドです

恐れ、怒りはダークサイドへと導く、ジェダイは恐れない
学ぶことを。

lundi, novembre 07, 2005

investigations#74

#74また最初に戻ってきた。ここまで「見る」「考える」「として見る」をブレインストーミングするため、みんなにどーなってんの?を考えさせるため詳細に進めてきた。ここからまた始まる。
「見る」:反省の欠如(意識の焦点化の欠如、疑いのない態度)
「考える」:(自分の意識の焦点に持ってくる。反省)
おそらく。「として見る」は「考えるの始まり」だ!!!!!!

#78アスペクト変わったあと、その後その見方が持続する時、その時、「見てる」のか「として見る」なのか。こんなこというために、ずっと論じてきてる。

(詳細な、観察により、概念を分類していく、こまかくどんな場合は?とかをみていく。
アリストテレス霊魂論と意図的ではないはずだが酷似)

アスペクト:見え方みたいもん#25らへんをみるとわかる

例えば、それまで、まったくアヒルにしか見えてなくて、他にみえかたあるって知らなかったのに、いきなり、「ウサギ!」ってなった時、その浮き上がってきたものを「見てる」「として見る」どっちやねん。
その瞬間は「見てる」のきがするんすよ。そんで、あとはどっちも行き来できるんで「として見る」だとおもうんすよ。
いまんとこ。

investigations#72

#72
“でも、そんなことやって、「見る」「知る」「として見る」の区別とかいって、哲学とかいってがんばってやってっっけど、生理学的に調べればわかんじゃないの?典型的に「見る」と言えるような場合の脳の状態を、fMRIでしらべて、また「知る」の典型的な時に活動してる脳の部分をまたfMRIでみて、ひかくすればいいじゃん。この脳波でてるときは、「見る」で、ここが活発になってる時は、「知る」なんだ、ってわかんじゃん。原因がわかんないなら、科学が進歩すればわかります。哲学でやるいみなくない?”

さりげなく根本に関わる問題、それとなく書いてある。

彼はいみあるといっている。その理由は

investigation#68

#68階段を、突き抜けてる一本の線、の絵。ああ、これは階段の中を線がとおってて、中を通ってる部分は見えてないけど、階段は段になってるから、所々、みえてんのね。
そうわかって、いるのに、わかってんのに、そう見ることができない人。他には、これは、平面にかいてあるけど、ああそうだ、見方によっては浮き上がって見える絵だ。とわかってんのに、そう見ることができない人。この人は、できる人と結果として何が異なってくるんだろう?
行動。(例えば、その図をつかって立体幾何学の論証をさせた時、その図をそう見れてない人は、途中から論証についていけなくなる、ということがおきるかもしれない)
その人が、そう見えてるかって、ほんとは分かんないのだけど、外から見たときの基準:適切にふるまってるか。それが認定基準になってますね。


#69「…を見る」「…として見る」「…を知る」の区別がここらへんからなされてくる。
矢が首を貫通しているように見える鳥の絵。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか
矢が首を貫通しているように見える鳥のシルエット。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか

基準は、リアリティだと理解する。リアルな時、それを見てる。リアルじゃなくなるに従い、それは、知るになる。

tractatus.10


『論理形式について』『哲学的考察』をもとにした考察
数:「きっかり」=「他はならなかった」:複合的っていうからには、…はならなかった、…はならなかった、…はならなかった…と無限に続く分析をするのかよ。というか、…は存在していない対象だから、名はつかないよ。だから「他はならなかった」という句は成立し得ない。

・ある要素命題から、他の要素命題が帰結することはない。(帰結するときは、要素命題ではない)
・命題相互の論理的関係は、論理語の働きによるもの。論理語を持たない要素命題が論理的関係にたつことはあり得ない。
・ある要素命題の真偽は、他の要素命題の真偽に対して、論理的に何の影響も与えない。
 

そんなことないよ。論理語持たなくてもね。「これは青い」は「これは青くない」を含意する。
このような、論理語の働きによらない論理的関係を彼は、後に「文法」と呼びます。
(上のヤツは、『論考』に存在するドグマだといえる)

でも別にそれだけで、それは、『論考』を崩壊させはしない。(論理空間のありかた、無内容な表現が、増える、まあそれだけよ。)
要素命題の考え方、保持。論理語に関する考え方、保持。世界のあり方を記述した命題が像という性格を持つという考え方、保持。
です。

tractatus.09

なぜ単純な対象が必要か

論理空間は、確定していなければならない。そのために、単純な対象が要請される。
論理空間は確定しているとL・Wは考えていた。そこから、論理空間を確定するための、単純な対象があるのでなければならない、ということが導かれてくる。
単純な対象を把握した上で、
4.116 およそ考えられることはすべて、明晰に考えられうる
(論理空間は確定していて、その論理空間を私たちは捉えることができる。そしてさらにその外にあるものを、内側から限界づけることにより、示すことができる)
と述べているのではない。逆aruyo。
こうできるのでなくてはならないはずで、だからこそ単純な対象を必要としている。

tractatus.08

複合命題の、複合的な指示対象が存在しない時、その命題は、偽になる。

「「N夫妻は動物園に行く」という命題は「花子は動物園に行く、かつ、太郎は動物園に行く、かつ、花子と太郎は夫婦である」のように分析される、もし結婚していなかったら、「花子と太郎は夫婦である」の部分が偽であるため、「N夫妻は動物園に行く」は偽である」
「aはf」という要素命題を考えよう。「a」「はf」も名である。その指示対象は単純。そのaがいないとき、無意味になる。偽ではない。これは、大切だ。
「というのも、「aはf」は要素命題であるから、その名がいかなる対象をも表さないということになれば、それは単純に像として成立していないものとなり、像でないものに対しては、真とはいえないのはもちろん、もはや偽とはいえない」

ここに、単純なのものと複合的なものの決定的ちがい。名は対象を表す、だからその指示が空振りし、名指されるべき対象が存在しないということになったら、それはもう名ではない。
それゆえ、名ではないものを含んだ表現は、無意味となる。
(ちょっと変に思うのは、性質語で単純といわれている「白い」とかが名ではないときってあるのか)

(でもだいたいはそうなってないよね。何も指示してないような語が入ってる文が無意味だとすぐいえないってラッセルも気づいてた通りだ)
他方、複合的なものを表す表現は、名ではなく、その構成要素に関する記述に他ならない。記述された複合物が存在しないとしても、その記述が偽であったとして捉えられる。(ラッセルの分析に近い)

tractatus.07

語ることが成立する前提:その命題が真であったときに…
矛盾は、真ではない。よって語ってない。

to-torojiga munaiyou na koto
understand??

tractatus.06

論理語は、名ではない。名だとすると、¬¬p, とpが異なる事実を表していることになるが、実際はそうでないため。
「論理空間」に否定はない。可能な事態に、否定的なものはない。

mardi, octobre 25, 2005

sans titre

‘言語によってしか考えることができない’

(その人たちが言うような意味では)
そうともおもえません。
(たとえば部屋の模様がえを具体的に頭の中でかんがえている時)
(模様がえを、家具に見立てて四角にきった小さい紙切れを並び替えながらかんがえているとき)
(模様がえを、家具を縮小したプラモデルを作って並べ替えながらかんがえているとき)

そして譲歩してそうだった場合には
そこからどういったことを導けるのか、
を聞きたいです。

じぶんにとっては、別にふーンて感じです。
すごいこととは思わないです。

jeudi, octobre 20, 2005

tractatus.05


フレーゲの関数は、実質を持ってる。
だから、関数それ自身も対象として、また関数に入力できた。
しかし、『論考』:関数は言語のあり方を整理するための便法。
実質なし。入力項としての名と、出力項としての命題、それだけ。
関数をノミナルに考えてる。

フレーゲ:固有名は飽和した表現。他の何かによって補完される必要ない。
L・Wはある。固有名も、述語によって、補完されないといけない。

定義域が異なる関数を、もはやおなじ関数とは捉えない。
それは、定義域というのが、関数の意味と本質的に結びついているからである。
定義域と、値域は、その関数の論理形式を示すものだろう。
ということは、定義域が異なれば、関数の論理形式はもはやかわっている。と考える。
だから、別の関数なのである。


「命題関数が、定義域と独立に決まっていると考えるならば、トマトに“トマちゃん”という名前を付けたとして、「トマちゃんは神経質だ」偽になる「トマちゃんは神経質ではない」は真である」しかし、L・Wなら、「トマちゃんは神経質だ」は無意味だし、「トマちゃんは神経質でない」も真ではなく、無意味だ。と言うだろう。「トマト」の論理形式のなかに、「トマトーX」の定義域のなかに入ってないのだ、「神経質」は。

xは神経質である、という関数の定義域は、
人間とか、それっぽいやつ。普通は。
その定義域に、トマトが入ったとすると、
もうそれは、違う関数だと、かれは考える。
(規則が変わったのかな?だから、意味も変化していて。
トマトに、神経質だとか、そうではないとか
述べることができる世界においては、
「神経質」の意味が既に変化している…のかな)

tractatus.04

3 different understandings on the function- "wittgenstein, Frege, Russel"

a function: X is white
frege: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a true/false value.
russel: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a propsition. and this proposition is "the meaning of that expression". だから関数は、命題内容、対象において働く。
wittgenstein: proposition is just an expression. 関数は論理形式解明のための道具。domain is not references but names. range is not a true/ false value, but a proposition, which is just an expression.

tractatus.03


ある概念が自分自身に述語づけられる例
「漠然」は漠然としている
「猫」という概念は猫ではない(そうじゃない例)

W(x)を「xは自分自身に述語づけられない」という関数だとする

「漠然」は漠然としている、というのは、
漠然(漠然):Xは漠然としている、という関数に、
漠然という項を代入したものと考えられる 
だから、xは自分自身に述語づけられるというのは、
X(x)と書ける。
だから、W(x)=¬X(x)とかける!
Xは変項だ、からWを代入しよう
W(w)=¬W(w)
よって、矛盾する
オーケー、ラッセルのパラドクス、
オーケー!

mercredi, octobre 19, 2005

tractatus.02

論理空間をとらえるため、思考の限界へといくため、対象を言語で写し取り可能的結合を作るため、、対象というのを、捉えないといけないんですが、それには、対象の論理形式、つまり名の論理形式を捉えないといけないです。論理形式は、対象の、持ちうる性質を理解するといったいみで、捉えていないと、いけない(ほんとは、なぜとらえないといけないか、わかってません)。しかし、名の論理形式だけでは十分でなく、「この」という名指しが、個別、区別をし、名が論理形式を示唆する。このようにして、対象を切り出せる。しかしながら、そもそも論理形式はどうやってとらえんの?というと、そら、なじむことです。説明されるべき論理形式は全体に広がり、巡り巡って循環する。一つずつ説明することは不可能です。巻き込まれることでしか、解明されない。です。

jeudi, octobre 13, 2005

tractatus.01

note

「成立していない事態の場合、それはただ代理物の配列によって表現されているにすぎない。可能的なものがどこか人目につかずあっちの方に鎮座しているかのうような気分は払拭していただきたい。成立していない事態というのは、現実の代理物によって表現される以外、生存場所を持ちえないのである」

2.01 事態とは諸対象の結合である。

事態とは、対象という世界の中にあるもの(じっさいにある。事実)の代替物(像としての言語)を、実際に、結合させることである。それによって、可能な結合の全て、「論理空間」を考えることができる。

「論理空間とは、可能な事態の全て、世界のあり方の可能性として我々が考えられる限りの全てである」
ということは、論理空間の限界を確定すれば、思考の限界を確定したことになります。

論理空間を考えるには、それが、可能性というのを含んでいるから、可能性について考えられないといけないんだけど、この世界には、成立していることしかなくて、成立してないことってのは、この世界には文字通り「ない」のだ。だから可能性を考えるためには、現実の対象を言語で写し取って、それを並べ替えて、可能的結合(いろんな文、つまり考え)を作って、全部を考えてみないといけないのである。

論理形式:「ある対象の論理形式とは、その対象がどのような事態のうちにあらわれうるか、その論理的可能性の形式のことである。例えばある対象aが赤い色をしていたとしよう。対象aにとって赤という色は外的性質であり、他の色を持つこともありえた。つまり〈aは青い〉、〈aは黄色い〉等の事態も可能である。このことを「対象aは色という論理形式を持つ」と言う」

jeudi, octobre 06, 2005

generative grammar


…“科学では、事実を説明するための法則は、一般的、単純であると考える。
法則は、その適用範囲が一般的(いろんなことを説明できる)、
形式が単純(エレガント)であるほど、価値が高いとされる。

ただし、一般的であることに価値を置くのはどの科学にも当てはまるが、
単純さに価値を置くのは、
物理を中心にする非有機体をあつかう科学だけではないだろうか。

物理を中心とする近代科学の基本は、「自然は無駄がなく単純でエレガントに作られている」。

ところが生物学では、そうは考えない。生物の世界は、偶然や試行錯誤の結果現在に至った。
そのため単純でもエレガントでもありえない。
複雑な生物学的システムというのは、一般に「不完全」
たとえば利根川進の発言
「ネイチャーというのはロジカルではない、特に生命現象はロジカルでない」”って…

引用。

すべて疑問形にして書く。
生物の世界は単純でエレガントな形式から
なりたっているのではないのですか?
物理(近代科学)では、
「自然は無駄がなく、単純でエレガントに作られている」
とかんがえますが、
生物学ではそう考えないのですか?
生物学的システムは、基本的には、無駄なものとかいらなそうなものを、
いろいろ含んでるんですか?

物理の対象である非有機体の世界が、
無駄なく単純でエレガントに作られているのはなぜだ?


ホントカイー???

investigations#63

メモ的に
#62
共通の刺激という考え方がうまくいかないと。
もう「空間的に見てるときは空間的にみえてて、平面のときは、平面に見えるんだよ」
といいたくなる。
しかしそれは、説明にはなってない。
…視覚印象の分析をすれば、どういうときに、どのようにみえてるかということに答えられるような、説明を考えだせる。と思ったけど、結局できてない。
視覚印象の分析では。
では、L・Wは結局わかんねーじゃんということがいいたかったのか??
そうではなく#61何に見えてるのか、ということの答えは、その人の記述で、それが最後ということ。
その人がどう見てて、どう見てるとこたえるか、それが、なににみえてるかの回答になる。
しかし、それは、もともとの出発点に逆戻りした。
「なににみえます?」「魚」その時、その人は、「魚」と記述する限りにおいて、魚に見てる…。
というかんじ。
これじゃ最初の出発点にまた戻ってきてしまった。
けど出発点、じっさいのありようが、もっとも根本的ていいたい
彼。

jeudi, septembre 29, 2005

sans titre

holismという主張について、
引っかかったところが解決した。

ある命題を捨て去って、体系を保とうとするとき
確かにどれかを選ぶけど、
ひとつを選ぶけど、その選択肢は、たくさんある。

もし、テレビの映らないときに、
あれなんでだろう?
そして、
“自分の目が正常である”
という命題を破棄したとして、
医者にいって、目を治してもらって、
うちに帰ってきたら、テレビがよく見えたとする。
そのときに、じゃあ自分の目のせいだったんだ、
というふうに納得して、もいいが、
実は、その医者はやぶ医者で、自分の目など治していなかったが、
医者のいうことだから信じてしまっていて、
実は、停電していただけだった、と考え直すこともできる、
このように、どこまでも、「でもそれが原因なんじゃん」と
いいきれずに、続いていく。この特定の、命題が、絶対に間違っているとは、
いいきれない。間違ってないかもしんない。
もしくは、間違ってるととして捨てさることができるものが、ほかにもある。

で、いいんだろうか…?自信ネース。

その中で、これを捨てたら、うまくいきそう、
なものを、捨てる。たとえば、これを捨てたら、ほかの信念についても
いろいろと考え直さないといけないようなやつは、
なるべく捨てない。
なるべく、ダメージがすくないものを選択しようとする、
という努力はある。

mardi, septembre 27, 2005

part2 #60

ある画像が浮いているように見える時と、おいてあるように見える時とで、何か明確な違いがあるとすれば、それは、記述の仕方ぐらいで、また、解釈の観点から何か説明しようと試みても、同語反復にしかならない。ということが言いたいのか…??

jeudi, septembre 22, 2005

untitled

fontが明朝体だったので、
気に入ってこのやつにかえてみました。パクリです。

ちなみにとくにすきなのは、「osaka・等幅」というやつです。
いいです。
ほかにもyakitori,shotaro?,pico,airlineなど、
いろいろ手にいれました、thx.

macにしてから、ネットて見てる画面の字も
簡単にかえられるようになったので、いろいろやってみてます。
osakaはできるけど、でもアルファベットの文字を「osaka等幅」
にできない。ので明朝体。明朝体もヒラギノと平成明朝てのがあって、

たぶん筑波大のロゴwebとかの上にでてるやつ、は平成明朝、

とおもう。

mercredi, septembre 21, 2005

sono3

#55じゃあ、「この三角形がなんかを表しているような、そんな絵を描いてみよ、その絵が表しているものが、…として見えているものである」

これはつまり、この図形のアスペクトを一つに固定してみよう、ということであると思います。
アスペクトはいろいろあるけど、ある背景を持った絵の中に放り込むと、
あるアスペクトしか生じなくなるということ。
たとえば、草原や、太陽を描くと、山にしか見えなくなります。
aspect te nani?
(これが#54までの批判に対する新たな説明になっているのかは、理解できていない)

#55までは「見る」といってて、急に「描く」ということが問題になったのはどうしてだろう。
それは「見る」という行為と、「描く」という行為が逆関数なっているからです。
「見る」という行為:ある図を言語に変換すること
「描く」という行為:言語を図に変換すること
(三角形の図をxとおき、見え方をy1:立っている山、y2:倒れている塔、y3:フックにかかっているワイヤー…とすると、「この図xのみえかた(意味)はyである」という関数:「の意味(x)=y」ができる。
この関数の逆関数をとると、「この言語表現yは図xである」という関数:「の絵(y)=x」になる)

この三角形は何を表しているか、という問いは、この図形がある絵の中におかれたら(これはアスペクトを意図的に一つに固定する行為)、何に見えるか?のすべてのバリエーションを考えること。






しかし、以下の問いは残ったままになる。
「じゃあ、ある図形がある絵の中に持ち込まれたとき、なぜ・どのようにして、何かに見えるのか」
「そもそも、私たちは視覚からどうして意味を読み取るのか」
iya somo somo
「なぜ、絵画は絵画として見えるのか、単なる色の分布にすぎないのに」

sono2

しかし、この説明で、「上にフックがあると解釈する」ということと、
「ぶらさがっていると見る」ということの間に何の違いがあるのでしょうか。

「フックがあると解釈する」ということはつまり「何かにぶら下がっているワイヤーのようなものと解釈する」ことと同じです。
つまり、「この図形を何かにぶら下がっているのもとして解釈するときには、何かにぶら下がっているものとして見える」と言っているのと同じことです。

つまり、ぶら下がって見えるということを説明するのために、
ぶら下がっているという言葉をすでにつかってしまっていて、結局何の説明にもなっていません。

「解釈」というのを使った説明が、うまくいかないとなると、
「じゃあ、共通のものを見てるのに、違って見えるというのは何故なんだ!」ということになります。
「共通の刺激という事実/違ったものに見えるという事実」がうまく説明できないので。二つの事実があるのに、どうして説明できない…?
ここでこの人たちが前提としているのは「一方に共通の刺激が、それに二次的な解釈が」という考え方です。
L・Wはそれらを前提とする考え方を繰り返し批判しています。workしないということは、前提が誤っている。

『探究』Ⅱについてのノート

二等辺三角形が、等しい長さの一辺を下にして、描かれている。
この図形を見たときに、「何に見えますか」と聞かれたとします。

そのとき人によって、山・くさび・ぶら下がっているもの・
短い一辺を下にして立っているはずだった図形が転倒している…のように、
様々な別のものとして見ることができると思います。

ここまではいいと思います。
見ようと思えば、いろんなものに見えてくると思います。

それはなぜか。なぜこの三角形が、様々なものに見えるんだろうか。

それに対するひとつの説明は、「ある人は頂点の部分にフックがあると考える、そのように解釈すれば、そのときにはそれにぶら下がっているように見ることができるし、またある人は下に草原を、上に太陽を想定するという解釈を加えている、そのような時には、山と見る事ができるのだ」というものです。

このような説明の仕方をとろうとする人たちは、
「各人の目に入ってくる視覚情報(センスデータ)は同じだが、
そこに施す解釈が違うので、違って見える」という考え方をしています。

共通の刺激・そこに施す解釈、です。