jeudi, septembre 29, 2005

sans titre

holismという主張について、
引っかかったところが解決した。

ある命題を捨て去って、体系を保とうとするとき
確かにどれかを選ぶけど、
ひとつを選ぶけど、その選択肢は、たくさんある。

もし、テレビの映らないときに、
あれなんでだろう?
そして、
“自分の目が正常である”
という命題を破棄したとして、
医者にいって、目を治してもらって、
うちに帰ってきたら、テレビがよく見えたとする。
そのときに、じゃあ自分の目のせいだったんだ、
というふうに納得して、もいいが、
実は、その医者はやぶ医者で、自分の目など治していなかったが、
医者のいうことだから信じてしまっていて、
実は、停電していただけだった、と考え直すこともできる、
このように、どこまでも、「でもそれが原因なんじゃん」と
いいきれずに、続いていく。この特定の、命題が、絶対に間違っているとは、
いいきれない。間違ってないかもしんない。
もしくは、間違ってるととして捨てさることができるものが、ほかにもある。

で、いいんだろうか…?自信ネース。

その中で、これを捨てたら、うまくいきそう、
なものを、捨てる。たとえば、これを捨てたら、ほかの信念についても
いろいろと考え直さないといけないようなやつは、
なるべく捨てない。
なるべく、ダメージがすくないものを選択しようとする、
という努力はある。

mardi, septembre 27, 2005

part2 #60

ある画像が浮いているように見える時と、おいてあるように見える時とで、何か明確な違いがあるとすれば、それは、記述の仕方ぐらいで、また、解釈の観点から何か説明しようと試みても、同語反復にしかならない。ということが言いたいのか…??

jeudi, septembre 22, 2005

untitled

fontが明朝体だったので、
気に入ってこのやつにかえてみました。パクリです。

ちなみにとくにすきなのは、「osaka・等幅」というやつです。
いいです。
ほかにもyakitori,shotaro?,pico,airlineなど、
いろいろ手にいれました、thx.

macにしてから、ネットて見てる画面の字も
簡単にかえられるようになったので、いろいろやってみてます。
osakaはできるけど、でもアルファベットの文字を「osaka等幅」
にできない。ので明朝体。明朝体もヒラギノと平成明朝てのがあって、

たぶん筑波大のロゴwebとかの上にでてるやつ、は平成明朝、

とおもう。

mercredi, septembre 21, 2005

sono3

#55じゃあ、「この三角形がなんかを表しているような、そんな絵を描いてみよ、その絵が表しているものが、…として見えているものである」

これはつまり、この図形のアスペクトを一つに固定してみよう、ということであると思います。
アスペクトはいろいろあるけど、ある背景を持った絵の中に放り込むと、
あるアスペクトしか生じなくなるということ。
たとえば、草原や、太陽を描くと、山にしか見えなくなります。
aspect te nani?
(これが#54までの批判に対する新たな説明になっているのかは、理解できていない)

#55までは「見る」といってて、急に「描く」ということが問題になったのはどうしてだろう。
それは「見る」という行為と、「描く」という行為が逆関数なっているからです。
「見る」という行為:ある図を言語に変換すること
「描く」という行為:言語を図に変換すること
(三角形の図をxとおき、見え方をy1:立っている山、y2:倒れている塔、y3:フックにかかっているワイヤー…とすると、「この図xのみえかた(意味)はyである」という関数:「の意味(x)=y」ができる。
この関数の逆関数をとると、「この言語表現yは図xである」という関数:「の絵(y)=x」になる)

この三角形は何を表しているか、という問いは、この図形がある絵の中におかれたら(これはアスペクトを意図的に一つに固定する行為)、何に見えるか?のすべてのバリエーションを考えること。






しかし、以下の問いは残ったままになる。
「じゃあ、ある図形がある絵の中に持ち込まれたとき、なぜ・どのようにして、何かに見えるのか」
「そもそも、私たちは視覚からどうして意味を読み取るのか」
iya somo somo
「なぜ、絵画は絵画として見えるのか、単なる色の分布にすぎないのに」

sono2

しかし、この説明で、「上にフックがあると解釈する」ということと、
「ぶらさがっていると見る」ということの間に何の違いがあるのでしょうか。

「フックがあると解釈する」ということはつまり「何かにぶら下がっているワイヤーのようなものと解釈する」ことと同じです。
つまり、「この図形を何かにぶら下がっているのもとして解釈するときには、何かにぶら下がっているものとして見える」と言っているのと同じことです。

つまり、ぶら下がって見えるということを説明するのために、
ぶら下がっているという言葉をすでにつかってしまっていて、結局何の説明にもなっていません。

「解釈」というのを使った説明が、うまくいかないとなると、
「じゃあ、共通のものを見てるのに、違って見えるというのは何故なんだ!」ということになります。
「共通の刺激という事実/違ったものに見えるという事実」がうまく説明できないので。二つの事実があるのに、どうして説明できない…?
ここでこの人たちが前提としているのは「一方に共通の刺激が、それに二次的な解釈が」という考え方です。
L・Wはそれらを前提とする考え方を繰り返し批判しています。workしないということは、前提が誤っている。

『探究』Ⅱについてのノート

二等辺三角形が、等しい長さの一辺を下にして、描かれている。
この図形を見たときに、「何に見えますか」と聞かれたとします。

そのとき人によって、山・くさび・ぶら下がっているもの・
短い一辺を下にして立っているはずだった図形が転倒している…のように、
様々な別のものとして見ることができると思います。

ここまではいいと思います。
見ようと思えば、いろんなものに見えてくると思います。

それはなぜか。なぜこの三角形が、様々なものに見えるんだろうか。

それに対するひとつの説明は、「ある人は頂点の部分にフックがあると考える、そのように解釈すれば、そのときにはそれにぶら下がっているように見ることができるし、またある人は下に草原を、上に太陽を想定するという解釈を加えている、そのような時には、山と見る事ができるのだ」というものです。

このような説明の仕方をとろうとする人たちは、
「各人の目に入ってくる視覚情報(センスデータ)は同じだが、
そこに施す解釈が違うので、違って見える」という考え方をしています。

共通の刺激・そこに施す解釈、です。