vendredi, décembre 23, 2005

summa.02.5

意義1言葉の理解の相関者
意義2真理条件
フレーゲに従いたかったらこの二つを結びつけるものが必要だ。
結びつけないようにしたいなーという気持ちがでてくるのは、

指示対象を持たない単称名の場合。
そーゆーときはさ、何か理解はしてるけど、真理条件はないんですわ、といいたくなる。だからそうした表現が出てくる文も、何か理解はできるけど、真理条件はないんですわみたいなね。でもフレーゲは文の理解は真理条件の把握です、と言ってる。フレーゲに従うなら真理条件がないのに文の理解はある、ということはできない。

指示対象がない単称名が含まれるときフレーゲは「その文は無意味」とのべる。
ラッセルは、「その文は偽」とのべる。すこしまえまでそーゆー理解。

summa.02.4

文の真理値=イミに影響をあたえない語の意味的要素=陰影
(日本語の例のような批判を受けてもなお陰影は副次的なものとして残される。意義が副次的なのは、フレーゲのいってる以外の理由では、言語的コミュニケーションにとってもっとも基礎的なのはいわれたことが真であるか偽であるかだ。とすればそれに関係している意義が大切だ。これは認知意味論からは反対される)
個々の言語行為がどのような種類のもの(疑問・命令…)であるか。またどのような内容のものであるか。
前者を明らかにするのが、力に関する理論。後者は意義の理論が明らかにする。
異なる種類に言語行為を通じて共通であるような言語行為の内容を否定することは、すべての語に関してそれが用いられるごとにその意味が異なるという帰結を生む。(体系的意味論の不可能性のへと赴く)
この帰結はこれまでであったことのない文を自ら発したり理解できるという事実との間に緊張を生む。
かーーーーーーーーーーーーーなり重要だ!

summa.02.3

Über Sinn und Bedeutung(1892)
2.3.2
イミに関する合成原理:文のイミはそれを構成する部分表現のイミと文の構造によって決定される。
イミに関する文脈原理:語のイミはそれが現れる文のイミ(真理値)への寄与である。
「信じる」「望む」:propsitional attitudeの動詞が作る文脈:“内包的文脈”という。
言語の理論はその言語においてどのような推論が妥当であるかについての特徴づけを含んでいなくてはならない。推論の妥当性にとって決定的な役割を果たすような意味的要素を文が所有しているとするならば、その意味的要素として真理値を選択するのは、もっとも自然な選択であるといえる。
(S→B)意義はイミを決定する
意義はイミを前提する。イミは意義の先にある。フレーゲのイミ論は意義論を支配してる。
なんでかはよんでくれ何度でも。
固有名の意義:その指示対象が決まるための条件

summa.02.2

語の意味の特徴づけは、「その語が現れる文全体の意味への寄与」という観点からなされれないといけない。
「固有名の意味とは何か」という問いの答えは、
「それが現れる文の意味に対してどのような寄与をなすのか」についての答えになってないといけない。
文全体の意味に対する語の意味の寄与を明らかにすることで、
語の意味以外の要素で、文の意味に寄与しているもの、
つまり構造を明らかにすることができる。
・文脈原理がいうように語はそれが現れる文に対して、意味的な寄与をする。文全体に対する意味的な寄与として個々の語が意味を持つ故に、我々は既知の語からのみ成り立つ文については、それが初めて出会うヤツでも意味理解できるのである。
(初めての文でも理解できるようになるような、その文の意味に対する語の意味の寄与というのは、もっと具体的にはどのようなものか……??論理形式とか、カテゴリーとかかな)

文脈原理は意味の一般的説明に関わる:語の意味は文の意味の寄与
合成原理は個々の文の意味に関わってる:文の意味はそれを構成している語の意味と構造(論理形式、へ?これってなにー?L・Wとはちがうんすか?)の把握によって決定される。
一見反対のこといってる。でも別に。違う次元についての話だからそもそも。
意味の一般的説明においては文が第一義的(文脈原理)。個々の文の理解においては語が第一義的(合成原理)。

investigations#8

さらに、「見るの解剖」

#88、89ある「見る」の概念それは見なす(regard as)とにている。しかしそれより、「見る」に近いんだ。「として見る」よりこまかい。「として見えてて」さらに、うわ生きてる!みたいな。

「見なす」それがなんだか分かる限りにおいて、ずっと起こっている。「ああおばさんね…みたいな」
「そのように見る」突然本人そのもののように見える「ウサギが見てるよこれ!斜めうえのほうさ!」って叫んじゃうとき「そのように見てますね」

オバーサンの絵であることには何の疑いもない。
そのとき生きている!オバーさん本人がそこにいるように見えてくるとき、
そこが分かれ目です。
それって、ほんとにオバーさんに微笑みかけられた時の感覚の表現と同じなのか:
(同じになることもあるかな……)。こっちの場合に、何らかの体験をしている。「微笑みかけてる!」みたいな。

ちょい前までは、「見る」「見なす」「知る」の区別やってましたよね。
今度から、広くいえる「見る」(「知るとは区別されるもの」)のときに、
ある種の体験がともなうものを見ていく。

概念=本質とかじゃなくて、「普段使ってる言葉のルール」
「aはxでもありうる」という言語ゲーム(つまり「見なす」から「知る」へと…)をどのようにして覚える?
……L・Wの答えは、「ごっこ遊び」

#99先生は、対象が変化する、といったがしてないんじゃないすか〜これは?
でもいい。これは間違ってたとしてもそこから深い方にいけるやつだ。
単なるテンポの変化がある瞬間からそうでなくなる。
別物に聞こえてくる。アスペクトといえるかな。
同一性をつなぎ止めるのはテーマのメロディかとおもう。

investigations#81

#81ふるまいの微妙な陰影という概念。これはスポーツや楽器のこつだ。重大なのは、それが行動の違いを引き起こすからだ!

#82this is what i treat it as:この表現分かんなくてくやしがる。私はそれをこれこれのもの(実物)としてあつかう:見てる場合・そのものと接してる時と同じようにふるまいたくなるとき、「見てる」という。
たんにしってるというとき、そんな「入り込んでない」。態度が違うということ。

#83L・Wの大切なconclusion:見る・として見るの共通点:二つは同じではない。が、目の前にその実物があるような態度を取る。HE図のときはもちろん「見てる」ときとは違いますよ、でもねーウサギのアスペクトを見てる時はウサギを見てる時と「ちょっと」同じ態度をとりますよ。態度という観点から「見る」「知る」…を考えていきます。

どの程度か?を見ていこうとする態度がL・Wいつもやばすぎる。

lundi, décembre 19, 2005

sans titre

poverty of stimulous の問題が有効でないとしたら、UGの設定自体が崩れる。母語としてるひと、外国語として学習してる人、たとえば日本語の活用の習得のスピードと直観がちがう。(おれに「たべる」にくらべて「すべる」が活用の面から見て例外的な動詞だといういしきがあった?)動詞の活用をすべて経験から覚えるの?ぜんぶの動詞の活用をここにおぼえるのではなく、類推という認知的な能力をもとに何らかの規則を理解するのではないか。UGなんて別に出さなくてもいい話である。“ただしもし類推しかしていないとしたら例外的な「すべる」の活用については、全員が一度まちがうはずである。アメリカの子供がgo→goedと言ってしまうことがあるように。そしてそのあと親とかにまちがってるよとなおされないと学べないはずである。”しかしそうとは考えられないだろう。“そうでなければ一度全員が「すべった」もしくは「すべらない」という、「たべる」には出てこない活用を耳にし、みにつけたと考えられる。”そうかもしれない。もしくは、基本語彙として、UGを発動させる初期データの中に活用を含めて入っているとも考えられるだろう。

まとめ

1.UGが全然関係してないといえる領域
2.そんでデータが等質ではない。
3.なのにみんなの直観がいっちする

この3つがそろうとUGを設定することを無意味にする。体系を一気に崩壊させる。
たとえば、日本語の活用。UGに入ってるわけがない。身に付けたとしか考えられない。

“いやUGに言及することなくこの現象を説明できる。UGとは別の問題に還元することができる。
言語習得の能力とは別に、類推という認知的な、動物も持ってるけど人間においてとくに強力に発達した能力によって、活用を身に付けたとも考えられる。(そのばあい、「射る」という動詞などで母語話者の直観が一致しないことが説明できる。じぶんはまちがえてた)。そうです、アナロジーとか帰納(induction)という人間が持っている高度な能力です。

じゃあ、UGとかどうのとかいろいろいってるけど、ぜんぶこのさ認知というさ、高度な一般的な学習機構・学習機能の能力で身につけてんじゃないの。言語の習得だけUGとかいって独立に設定してますけど、言語にかかわらない強力な人間の認知システムで説明できんじゃん。なんで言語だけ特別視するのか(つーかそーゆー認知みたいの語の理解に不可欠とか、脳のモジュール性が否定されているとか…)。”

……
サルはUG持ってないからヒトみたい言語はなせないと説明するのか・サルもヒトも認知能力もってるけどサルとヒトと程度が違いすぎてサルははなせないと説明するのか。
……
UGみたいのが進化の過程で突然変異としてemergeしたと考えるのか
認知能力があるときに飛躍的に進歩した結果でそれは連続してると考えるのか
……
しばらくむかし友人にぜんぶそれ脳がもってる期待値をだす能力みたいなもんでといわれてそれがかなり強力で頭からはなれなかったのですがやっとその反論のないようがりかいできたようなきがする。だからとても今日はよかった。そのさきにはこれからいく

samedi, décembre 10, 2005

summa.02

specify:どのようなものか述べる:特徴づける:定義する…。
単称名の特徴づけを「それがどのような存在者を指すかについての考察」から引き出そうとするのは間違ってる。
「単称名とは対象をさす表現である」という感じで特徴づけたとします。
これでオケーにもしなるとしたら、対象ていう概念ももう規定されてるはずですよね。
”そうすると、数詞が単称名であるかどうかは、数詞のさす存在者、すなわち数が対象であるかどうかが、この前もって与えられている対象の判定に照らして判定されることになる”
もう対象が何かってことはさきにあたえられてんだ。そんでそれにてらして、「あ、この数詞のさす存在者(数)は対象をさしてるから、この数詞は単称名だ」とのべるってこと。
これは、数詞が単称名であることから出発して、数が対象であると結論するフレーゲの議論とは逆。

”対象がさすものが単称名であるのではなく、単称名のさすのが対象であるという主張は存在論的カテゴリーに対する文法的カテゴリーの第一義性というテーゼに裏付けられている。
フレーゲも、数詞が文法的には単称名として振舞うことから、数が対象であるという結論を引き出せると考えたに違いない”

もし、自然言語の理論を、述語論理をモデルにして構築しようとしたら、その述語論理の根幹にあってそこからすべてが派生してくる「単称名とは何か」という問題は、非常に重要であらざるをえない。

summa.01

文法的カテゴリーの分類のしかた:その語と入れ替えてもその文が依然として文法的に適正なら、同じカテゴリーだ。
「文法性を保存する相互置換可能性」
文と単称名(飽和した表現、基礎的カテゴリー)を特定すれば、あとは派生的に導かれる。その導き方は、その基礎的なヤツの一部をさらにargumentと見なすこと。
argumentのカテゴリーがNであり、argumentにふさわしい表現を代入した結果得られる表現のカテゴリーがSであるとき、(S/N)と表現できます。

tractatus.16

transzendental
論理が超越論的:
単に、経験によって把握し得ないという意味ではない。この世界に対して超越的でありつつも、なおこの世界がこのようであるために要請されるもの、それが「超越論的」と呼ばれるものである。実際、論理は、それ自身を語ることはできないが、世界を語るために、世界が語られたようであるために、不可欠であるのです。
倫理が超越論的

永遠の相のもとにとらえる
対象を、論理空間とともに捉える。それは、論理空間の礎石として捉える。論理空間の構造を見て取る、その時対象は不動の実体となる。変化するのは諸対象の配列であり、対象そのものは変化しない。
また、対象は消滅することもない。死んだ。でも思考可能である限りウィトゲンシュタインという対象は存在している。対象は変化せず、生成消滅もしない。これが、対象が実体であるということの意味である。

論理空間とともに、対象を論理空間を構成する不変の礎石として見る:これが永遠の相のもとにとらえるということである。ただし、この永遠の相のもとで捉えるのは、論理的な分析によって、論理空間を明らかにすることによってなされる。つまり、啓示とかではないのさ

死が人生の出来事でない理由
論理空間を張るための超越論的条件として、私の生が必要だ。ということ。
私が死んだら、論理空間は消滅し、私はいっさいの思考の足場を失う。
私が私の死を考えるということは、この論理空間の消滅を考えるということ。
しかし、論理空間の消滅なんて考えることはできない。
とすれば、私の死は考えられないのではないか。
つまり、論理空間に私の死は含まれないのではないか。
でもさ、私は、他人の死と同じように、自分の死について考えることができます。

論理空間に含まれる最大の虚構であるという。

tractatus.15

例えば、¬P∧Pがトートロジーであること、それは、Pに対してこのように真理操作を施せば真理領域が論理空間全体に及ぶということ。この事実が、ここに含まれる論理語「でない」「かつ」の真理操作としてのあり方を示している。
このように、論理語をある仕方で組み合わせると、真理領域が論理空間全体に及ぶ命題ができる、この記号構成上の事実がそこで用いられている真理操作(論理語)の内実を明確にするのである。

『論考』が考える論理学の役割:論理語の真理操作としてのあり方を明確にする学問。そして論理語の内実は、上記のように、ある命題がトートロジーであることによって、明確に示される。だから論理学はトートロジーに関わろうとする。

論理学がトートロジーに関わるのは、それが必然的真理として、偶然的真理とは異なる真理の領域を明らかにするからではない。

tractatus.14

入力が何であれ、真を出力する、という考え方自体、『論考』とはちがう。だって、『論考』は論理語を真理関数とはしてないから、別に、真を出力したりしない。

素朴な規約主義が証明の必然性を説明できない理由を繰り返し確認する

tractatus.13

・frege and Russell:
Number is an attribute of a set. For example, when we say "there's 10 apples", the number 10 is an attribute of the set 'apple'.
Or, number is a set composed of sets members is same number. For instance, 10 is an enormous set composed of sets. and all these sets' members are 10 each.
・wittgenstein:
Number is the number of algorithm(???). Number is the number(frequency) of operation. Hense, it is not a name any more than the logic operator is. (it is no more a name than the logic operator is)
Therefore, '1+1=2' is not a tautology as logical empiricists say. The reason is that number is not a name. Thus, '1+1=2' is not a proposition.

lundi, décembre 05, 2005

sans titre

生成文法で、syntacticなparameterだけじゃなくて
lexiconに関係することも、考察の対象になっている、
つまり、81年にbreakthroughがあったugの下位理論には
含まれてないことも研究されていることを知った。
言語の間で単語の意味が微妙に違うことを、
どう説明するかということが(おそらく)考察されている事を知った。
とても興味がある。