mardi, octobre 31, 2006

investigations.8.(-#153)

語の意味体験とは
行為・行動の 微細な調整を可能にしてくれるような言語使用
微細な言語の使用の際、流れているもの、感じているもの。
それがあってはじめて難しいことが可能になるような、そういう体験。
それを体験できているやつが、うまくできる、達人の技になれる。

(言語使用の例だが、たとえば、楽器の演奏や、スポーツのコツといったものもそれにはいるだろう。)


(つまり、楽器の演奏のときに感じれてるものをアスペクトと呼ぶとしたら、ここら辺からウィトゲンシュタインが問題にしようとしている語の意味体験という概念とアスペクトの関係は…???
語の意味体験≒アスペクト…という方向の結論へむかうはずじゃないだろーか)

「語の意味体験」と「語の意味」はちがう。語の意味とは体験であるってことでもない。

「語のいみは、僕らが日常でつかっているその使い方だ」いまのlw
「語の意味てのは、使ったとき、聞いたとき心の中に起こる体験のようなものだ」かつてのlw

ⅱ、ⅳでこれを誘発するような例をあげている。バラの例。
はじめ、バラという語を使ったとき、心の中でそういった体験をするように感じる。
なのに何回も繰り返しその言葉を口にすると、それが感じられなくなる。
てことは、最初にかんじれたその体験こそが、バラという語のいみではないか???
という問いの提起。
ⅱとⅳをみよ

samedi, octobre 21, 2006

investigations:8(noya)

アスペクトの変化を知覚できないとは:
L・Wはアスペクト盲を,アスペクトの変化を知覚できないことだとした.
それは,野矢の言い方では,対象との内的連関性を主題化して捉えることができない,ということを意味する.

じゃあアスペクト盲の人は,〈として見る〉ことはできるのか????
これは,できると前演習のとき言ってしまったような気がする.しかし,できないはずだ.
〈として見る〉自体が,変化をあらかじめ想定している,といったらいいのか….それで,意思の作用で,ある一方を選ぶ,と.
〈として見る〉という事態が生じる時点で既に,揺らぎが想定されている.この対象は,例えば○という対象と内的連関がある,または△と言う対象とも…ということが,直観的に捉えられているのでないか.いやそうであるはずだ.そうじゃない場合だったら,〈として見る〉は生じないはずだもん.その時は〈見る〉しかないのだよ.

例えば「若い女の絵」を見ている場合,この対象が「若い女の絵」である,ということ自体(つまり,この絵という対象と,それが表しているものの内的な連関)は,野矢の言い方では,「完全に(おそらく意識の)背景に退いている」よ.
そんで「老婆」かな??って揺らぎが出てきたときに初めて,〈として見る〉ことがいみをもってくる.

心理学の哲学1:「我々はそれが変化するときのみ,アスペクトを意識するようになる」

つまり,アスペクト盲の人は,アスペクトを見ない.
「揺らぎ」がこないひと.
「アスペクト盲とは,内的連関性を断ち切られ個別的感覚にとどまるしかない人間のことではなく,
内的連関性が常に暗黙の了解のうちに退いておりけっして主題化しない人間のことである.
そのとき,彼は「日常生活者」としては我々とほとんど変わるところがないことになろう」
日常に「揺らぎ」を起こすような場面はほとんどねー.よって日常生活,俺らと同じで別に困んない.

だが意味体験はどうか…??揺らぎ…ふつーに使う時はそんなにいしきしないかも.
でも,言葉の方はアスペクトよりも,揺らぎをかんじるときあるのじゃないだろーか.

mardi, octobre 03, 2006

sans titre

“みず の ない うみ” 試論

「人は同じ川の流れに二度と入ることは無い,そして,入る」とはヘラクレイトスの言の又聞きだ.この文の訳自体が間違っていたとしても構わない.最初の文は「万物は流転する」ということ.不思議なのは一見矛盾する「そして入る」というところだ.それをこう考えている.

日々,すこしずつ変わっている.しかし日々は日々で変わらない姿で在り,自分は昨日と同じことを今日も明日も繰り返している.時折,実は変わっていたことに気づいたりする.

“みず の ない うみ”がこうしたことがらのアナロジーのように聞こえてならない.
曲全体は非常に長くいつ終わるとも知れない.曲中で音は気づかないほど微細な変化を続ける.はっと気づくとそれまでとは変化している.しかし曲は続いたままだ…

全ては変化し,一カ所にはとどまらない.日本にも似たような考え方が存在する.仏教的諦観「無常」とそれに根ざした情動「もののあはれ」である.

最近「無常」の認識とは,はかない人生に対する落胆ではなく,
常に変化し,常に自ら始源となり,新たな次元へと常に自分を開いていこうとする姿勢,なのではないかという示唆を得た,気がする…「新たな次元へ自分を開いていく」なんて,こんなことを言うのはダサイのかもしれないが.(杉本博司(2005),長谷川祐子(2006)の混同により)

ところで,曲の最後,ベルが何度も鳴らされ,その感覚がだんだんと狭くなっていき,止まる.この箇所は最終部でありながら,「何かのはじまり」を告げているかのようだ.

つまり,この最終部に至ってジムオルークが言っているのはこんなことのように私には聞こえるのだ.
「繰り返し続いていくもののなかで,実は存在している変化に気づくこと,それが次の次元へと自分を開く,その始源になるのだ」と.

曲中の微細な変化は,決して大げさな感動を呼び起こさない.喚起されるのはもっと小さな感情,これだと特定できないような「感情の機微」である,はずだ.まさに「ああ,はれ」と言葉の漏れ出るような.

“みず の ない うみ”を以上のような「変化と,継続・繰り返しのアナロジー」として捉えること,それを通過した自分は,それまでの自分とは常に変わっているはずだ,と信じる.常に変わった自分は始源となり,変わらない日々の生活を暮らす




参考文献
杉本博司(2005)『苔のむすまで』新潮社.
長谷川祐子(2005)「もののあはれの受肉— マシュー・バーニー『拘束のドローイング9ができるまで』」『ART iT』アートイット,第9号,pp. 112 - 113.

lundi, octobre 02, 2006

sans titre

理論選択の合理的基準を示して,それに従うとどうしてより正しい理論が選べるのかということに答えること.
映画『マトリックス』で主人公がやったのはこうしたことだ,と大まかに言えるだろう.
科学哲学ではこれを「科学的合理性のメタ正当化」と呼ぶ.