mercredi, juillet 11, 2007

したのやつできづいたところ

気づいたこと
①「二つのドグマ」前半議論への批判をkatzもおこなっていること
②レポートで「服部流」として紹介した翻訳の不確定性の議論は,別に「服部流」ではなく,クワイン自身のものであるかもしれないということ

①について
あのレポートでクワインの「二つのドグマ」の前半議論への批判として挙げたのは,パトナムやC.ライトを紹介している『言語哲学大全Ⅱ』だけでしたが,katzもThe Metaphysics of Meaningにおいて批判を行っていることを知りました.(以下は鬼界先生による書評を参考にしています)

katzの批判は「二つのドグマ」第3節の代入可能性の部分に向けられています.クワインはこの節で同義性概念が言語学によって定義される可能性を否定しています.この議論は言語学において概念が代入法によって定義されることを前提としています.しかしこうした前提は1950年代までの言語学(構造主義言語学)に当てはまるにすぎず,チョムスキー革命以後の言語学においては理論全体によって概念を定義する理論的定義が実践されています.それゆえクワインの議論はある言語学派の方法に相対的なものであり,分析性概念そのものに対する批判としては妥当しない,というものです.

②について
katzがこうした批判を行うのは,クワインの翻訳の不確定性テーゼを否定する意図があるからです.翻訳の不確定性テーゼは「言語中立的意味は存在しない」という前提に基づいていると考えられますが,katzはその前提に根拠がないことを示そうとします.そしてkatzはこの前提が「二つのドグマ」前半議論から導かれてきたと考えているので,その「二つのドグマ」の議論を批判しようとしているわけです.
つまり僕が気づいたことは,katzは僕が「服部流」として紹介した議論を,クワイン自身の議論として捉えているということです.僕はレポートで服部裕幸さんが『言語哲学入門』で紹介している翻訳の不確定性テーゼはクワイン自身のものではないと強調していますが,そうとは言い切れないということです.簡単なことに気づかず,すこし情けない気がします.

ちなみに,『言葉と対象』をみる限りでは,クワイン自身が「言語中立的意味は存在しない」という主張の根拠を「二つのドグマ」の議論にもとめているような箇所はみあたらないように思います.
いずれにせよ,翻訳の不確定性テーゼの前提には上記のような意味への懐疑が存在していることはたしかだと思います.

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