jeudi, février 16, 2006

summa2.03

カルナップは、人工言語に対しては意味論的規則を特定することで「分析性」の概念を定義できると主張する。

:クワインの批判:
「分析性」を定義しているように見えて、それは実は定義していない。
「それはあくまでも、個々の人工言語のひとつひとつについて、「文Sは言語Lにおいて分析的である」を別々に定義するものである」
L1において分析的、とL2において分析的が、それぞれ定義されたとしても、両者の間に共通しているのは、「分析的」という字面のみで、この二つは別のしかたで、異なる意味論的規則によって定義されたものである以上、本来両者の間には何ら共通性を仮定することが許されない。

もし共通点があるなら、それは既に「分析的」という概念が確立されているから。「意味による真理」という概念が理解されているから。

:クワインの批判に対する評価:
ある概念に対して明確で非循環的な定義がない場合にはその適切さも疑わしくなる:という誤りを犯している。
明示的定義を与えることができないからといって、その概念を理解していないということになるだろうか。

:ある概念が理解されているために必要なこと:
事例を挙げることができる・正しく使える・新しいモノにその概念が当てはまるか判断できる

・つまり明示的定義は必要ではない。

:もうひとつの考え方:
「意味」「同犠牲」「分析性」という概念が、言語活動を説明するための「理論的概念」だと考える。理論的概念が「あるものとして」受け取られるとき、何が必要か。それはその概念がどのような理論的目的のために導入されたものかが明確なこと。その概念が既存の概念とどのような関係に立つかが明確なこと。こうした理論的概念は、ある理論を下敷きにして導入される。明示的定義は、簡単に導入される。
あと別に「循環」といって非難されるべきことではない。LWいってたこと思い出す。

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