mardi, février 28, 2006

summa2.03.2

:論理実証主義:
「検証」が意味論の中心に据えられている。ということは、意味による真理という分析的真理が、検証という認識論的性格を帯びる。そうした論理実証主義からでてきたクワインが分析的真理と、「何が起ころうとも確証される真理」つまり「アプリオリな真理」を同一視しているのは、当然といえば、当然である。
(飯田隆はこの自らの説明に自信がない)

もし体系全体が「裁き」に会うなら、この分析的な文も、実はおかしいかもしれないということ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもないということになるよ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもない...おかしいはず

3.4.
異なる規約が採用されて、「もう言葉の意味が異なっている」「異なる言語を話している」と?
しかし
「分」と「秒」の例は、異なる規約において同じような役割を果たす語の存在を明らかにしている。
新たな規約の採用によっても、言語全体の中での位置を変えていないのでは?
(新しい規約の採用は言語の「同一性」を破壊する、規約が新たに採用されるごとに「異なる言語」が出現するという主張は、言語の変化という事態を正しく捉えることを不可能にするのではないか)::丹治信春を読んだらいい

3.4.2
カルナップとクワインが表面的には酷似していること。しかし、「言語」と「事実」の間にはっきりとした区別があると考える点で、両者は決定的に異なる。

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