samedi, octobre 21, 2006

investigations:8(noya)

アスペクトの変化を知覚できないとは:
L・Wはアスペクト盲を,アスペクトの変化を知覚できないことだとした.
それは,野矢の言い方では,対象との内的連関性を主題化して捉えることができない,ということを意味する.

じゃあアスペクト盲の人は,〈として見る〉ことはできるのか????
これは,できると前演習のとき言ってしまったような気がする.しかし,できないはずだ.
〈として見る〉自体が,変化をあらかじめ想定している,といったらいいのか….それで,意思の作用で,ある一方を選ぶ,と.
〈として見る〉という事態が生じる時点で既に,揺らぎが想定されている.この対象は,例えば○という対象と内的連関がある,または△と言う対象とも…ということが,直観的に捉えられているのでないか.いやそうであるはずだ.そうじゃない場合だったら,〈として見る〉は生じないはずだもん.その時は〈見る〉しかないのだよ.

例えば「若い女の絵」を見ている場合,この対象が「若い女の絵」である,ということ自体(つまり,この絵という対象と,それが表しているものの内的な連関)は,野矢の言い方では,「完全に(おそらく意識の)背景に退いている」よ.
そんで「老婆」かな??って揺らぎが出てきたときに初めて,〈として見る〉ことがいみをもってくる.

心理学の哲学1:「我々はそれが変化するときのみ,アスペクトを意識するようになる」

つまり,アスペクト盲の人は,アスペクトを見ない.
「揺らぎ」がこないひと.
「アスペクト盲とは,内的連関性を断ち切られ個別的感覚にとどまるしかない人間のことではなく,
内的連関性が常に暗黙の了解のうちに退いておりけっして主題化しない人間のことである.
そのとき,彼は「日常生活者」としては我々とほとんど変わるところがないことになろう」
日常に「揺らぎ」を起こすような場面はほとんどねー.よって日常生活,俺らと同じで別に困んない.

だが意味体験はどうか…??揺らぎ…ふつーに使う時はそんなにいしきしないかも.
でも,言葉の方はアスペクトよりも,揺らぎをかんじるときあるのじゃないだろーか.

Aucun commentaire: