mardi, octobre 03, 2006

sans titre

“みず の ない うみ” 試論

「人は同じ川の流れに二度と入ることは無い,そして,入る」とはヘラクレイトスの言の又聞きだ.この文の訳自体が間違っていたとしても構わない.最初の文は「万物は流転する」ということ.不思議なのは一見矛盾する「そして入る」というところだ.それをこう考えている.

日々,すこしずつ変わっている.しかし日々は日々で変わらない姿で在り,自分は昨日と同じことを今日も明日も繰り返している.時折,実は変わっていたことに気づいたりする.

“みず の ない うみ”がこうしたことがらのアナロジーのように聞こえてならない.
曲全体は非常に長くいつ終わるとも知れない.曲中で音は気づかないほど微細な変化を続ける.はっと気づくとそれまでとは変化している.しかし曲は続いたままだ…

全ては変化し,一カ所にはとどまらない.日本にも似たような考え方が存在する.仏教的諦観「無常」とそれに根ざした情動「もののあはれ」である.

最近「無常」の認識とは,はかない人生に対する落胆ではなく,
常に変化し,常に自ら始源となり,新たな次元へと常に自分を開いていこうとする姿勢,なのではないかという示唆を得た,気がする…「新たな次元へ自分を開いていく」なんて,こんなことを言うのはダサイのかもしれないが.(杉本博司(2005),長谷川祐子(2006)の混同により)

ところで,曲の最後,ベルが何度も鳴らされ,その感覚がだんだんと狭くなっていき,止まる.この箇所は最終部でありながら,「何かのはじまり」を告げているかのようだ.

つまり,この最終部に至ってジムオルークが言っているのはこんなことのように私には聞こえるのだ.
「繰り返し続いていくもののなかで,実は存在している変化に気づくこと,それが次の次元へと自分を開く,その始源になるのだ」と.

曲中の微細な変化は,決して大げさな感動を呼び起こさない.喚起されるのはもっと小さな感情,これだと特定できないような「感情の機微」である,はずだ.まさに「ああ,はれ」と言葉の漏れ出るような.

“みず の ない うみ”を以上のような「変化と,継続・繰り返しのアナロジー」として捉えること,それを通過した自分は,それまでの自分とは常に変わっているはずだ,と信じる.常に変わった自分は始源となり,変わらない日々の生活を暮らす




参考文献
杉本博司(2005)『苔のむすまで』新潮社.
長谷川祐子(2005)「もののあはれの受肉— マシュー・バーニー『拘束のドローイング9ができるまで』」『ART iT』アートイット,第9号,pp. 112 - 113.

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