mercredi, septembre 21, 2005

sono2

しかし、この説明で、「上にフックがあると解釈する」ということと、
「ぶらさがっていると見る」ということの間に何の違いがあるのでしょうか。

「フックがあると解釈する」ということはつまり「何かにぶら下がっているワイヤーのようなものと解釈する」ことと同じです。
つまり、「この図形を何かにぶら下がっているのもとして解釈するときには、何かにぶら下がっているものとして見える」と言っているのと同じことです。

つまり、ぶら下がって見えるということを説明するのために、
ぶら下がっているという言葉をすでにつかってしまっていて、結局何の説明にもなっていません。

「解釈」というのを使った説明が、うまくいかないとなると、
「じゃあ、共通のものを見てるのに、違って見えるというのは何故なんだ!」ということになります。
「共通の刺激という事実/違ったものに見えるという事実」がうまく説明できないので。二つの事実があるのに、どうして説明できない…?
ここでこの人たちが前提としているのは「一方に共通の刺激が、それに二次的な解釈が」という考え方です。
L・Wはそれらを前提とする考え方を繰り返し批判しています。workしないということは、前提が誤っている。

3 commentaires:

Anonyme a dit…

何の説明にもならないこと、そうかもなと思うのに、リアルに感じないのが不思議です。解釈と見るの間にある時間が消えてるからだろーか。

ひとりひとりなんて違うのに、同じものを見て共通な刺激を得るって、すげえハードル高いな。

pppppeeeee a dit…

多分、もう少し考えて、返事をするとおもいます。
自分の頭でも少しぐらい考えないといけない。
見るときに、既に、何らかの、解釈をもってみてる
から、あるヒトにはそのように、またはこのように、見える
のかな、

あの人とこの人が、同じものを見てるという保証はどこにもないという、問題を開くのかな…
考え不足。
意見をもらうと、うれしいよ。
ありがとう。
ボソ飲みおれも行きたいです。
リアルにボソじゃないけど。

Anonyme a dit…

ぼくはつい現実にステージを移してしまうけど、そういう事じゃないのかもしれないね、おもしろい。

俺、ちょっとボソのみにはいけなそうです、今回。