mercredi, septembre 21, 2005

sono3

#55じゃあ、「この三角形がなんかを表しているような、そんな絵を描いてみよ、その絵が表しているものが、…として見えているものである」

これはつまり、この図形のアスペクトを一つに固定してみよう、ということであると思います。
アスペクトはいろいろあるけど、ある背景を持った絵の中に放り込むと、
あるアスペクトしか生じなくなるということ。
たとえば、草原や、太陽を描くと、山にしか見えなくなります。
aspect te nani?
(これが#54までの批判に対する新たな説明になっているのかは、理解できていない)

#55までは「見る」といってて、急に「描く」ということが問題になったのはどうしてだろう。
それは「見る」という行為と、「描く」という行為が逆関数なっているからです。
「見る」という行為:ある図を言語に変換すること
「描く」という行為:言語を図に変換すること
(三角形の図をxとおき、見え方をy1:立っている山、y2:倒れている塔、y3:フックにかかっているワイヤー…とすると、「この図xのみえかた(意味)はyである」という関数:「の意味(x)=y」ができる。
この関数の逆関数をとると、「この言語表現yは図xである」という関数:「の絵(y)=x」になる)

この三角形は何を表しているか、という問いは、この図形がある絵の中におかれたら(これはアスペクトを意図的に一つに固定する行為)、何に見えるか?のすべてのバリエーションを考えること。






しかし、以下の問いは残ったままになる。
「じゃあ、ある図形がある絵の中に持ち込まれたとき、なぜ・どのようにして、何かに見えるのか」
「そもそも、私たちは視覚からどうして意味を読み取るのか」
iya somo somo
「なぜ、絵画は絵画として見えるのか、単なる色の分布にすぎないのに」

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