samedi, mai 20, 2006

la chaine 04

「pならばq」といっておきながら,「pかつ〜q」だという可能性も考慮している場合がある.それは何なのか?(日常の条件文に関する様相的性格を認めないとこういう議論はでてこないが.)なぜそのような事態が可能か?

この視点にたち進む.
それで,日常の条件文発話の際に重要なことは,pは単独でqの十分条件になっている訳ではなく.qの十分条件を構成する命題の集合の中で,その時最も言う価値の高い命題である,そして,そのp以外の命題も既に与えられている,暗黙の前提になっているということを合わせて初めて,pはqの十分条件としての資格を得るということ.

演繹定理の例,分かったか.E0は,十分条件となる信念の全体,そんでE1⊃pならばqは,E1という暗黙の前提の上で,pならばqということ.E1は言及世界とも言える.もし,「お湯に手を入れること」が普通な社会だったら,なんかタイにある唐揚げ屋とか?だったら,p(お湯に手を入れる)ということは,わざわざ言うに値しないので,Eのなかに引っ込んでしまう.そんであらたにr(断熱手袋をしない)という命題がコンテクストに合うように,登場してくる.でもそれは,E0⊃qという同一の信念のこと.

「沸騰しているお湯に手を入れれば,やけどする」「なぜ?」という会話があるとせよ.
その場合,話し手と聞き手は,同じような言及世界を構築できていない.
聞き手は「なぜ?」と問い返すことで,暗黙の前提を問いただしている.

などなど.しかし一番上の問題はまだ.この後のようだ.

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