jeudi, mai 18, 2006

summa.03.6

4.4.3
:スマリヤンのクワイン批判:
確定記述と名前,同等に扱うな!(ラッセル以来の議論).
:クワインの立場:
単称名:名前と記述は分けなくてもいい

:スマリヤンの批判の骨子:
「惑星の数が7より大きいということは必然的である」
これは,
「惑星の数が実際いくつであろうとも,それが7より大きいということは必然的である」
と読めば,偽.
しかし「現に惑星の数が7よりも大きいことは必然的である」と読めば,
これは真だよ!
後者の読みをクワインは無視して,様相の量化はできねーとか言ってるけど,ラッセルの記述の論理からこの振二つの読みが生じることは分かる.記述のスコープの話だ.この記述のスコープを狭くしかとってないクワインは後者の読みを考慮してないと.

:クワインの再反論:
様相内部への量化が意味をなすことを前提とした議論だから,論点先取だと.

:しかし:
様相内部への量化がいけないって,なんでいえんの?クワインの議論に従えばそうなるけど,そうじゃないって前提から出発してんだから.

:それでもやはり:
ではなぜスマリヤンのいうようなスコープの広い読みを採用しなきゃいけないのか.その根拠もない.
しかもクワインにとって必要なのは,狭いスコープの読みが可能だというその事実だけなのだ.狭いスコープの読みがダメだ!という根拠が見つからない限り,クワインの議論は無傷.

:スマリヤンのいいところ:
固有名と,記述を一緒にするな!
:スマリヤンの指摘:
様相的文脈においては,対応する指示対象が存在する場合でも,記述句の論理的振る舞いが,名前のそれとはことなる.つまり,固有名と,記述を一緒にするな!


「純正指示表現」:純粋に指示対象の機能だけを持つ表現.
記述は,そうじゃない.名前はそうであるけれども.
もし,純粋に指示表現なら,様相的だろうがそうじゃなかろうが,代入可能なのでは(つまり指示的に不透明ではないのでは)?

このように純正指示表現を様相の文脈において得られる文が有意味だとするのが「アリストテレス的」であるという指摘はまあいいとして,そのkeyになる純正指示表現なんてあるんですかそもそも?という問題.
ラッセル,フレーゲ…ううむ.

:バーカン・マーカス!:
固有名はtagだと!!かーなり大胆.大胆すぎるのでは??
だってそんなこというと,
1. □(ヘスペラス=フォスフォラス)が真だということになる.「認識論上の身分の違い」はどうなる…?
2. あと,固有名にもSinnがあって,そのSinnていうのはつまり,「夜明けに西の空に見える星」とか,要するに記述なんですよ.じゃあ,記述と固有名,ホントに別れてると言えるんですか?

この反論をやぶったのはクリプキ

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