jeudi, mai 18, 2006

summa.03.5

「純粋に指示的な表現」:単称名で単に対象を指示するだけのやつ.
「指示的に不透明な表現」:代入可能性の原理が成り立たない.

:クワインの様相内部への量化に対する批判:
・様相的文脈は代入可能ではない(□(9>7)に惑星の数=7を代入すると変)
・代入可能でない文脈は,指示的に不透明である.
・それゆえ,様相的文脈は,指示的に不透明である.
・指示的に不透明な文脈内部への量化はいけない
(小泉八雲=ラフカディオ・ハーンを知らないと「∃x(xが日本で生まれたのではないことを太郎は知らない)」が,八雲の場合,偽となり,ハーンは真となることがあり得る.これは代入可能性の原理に反する)
・それゆえ,指示的に不透明である様相的文脈内部への量化はいけない

:クワインへの反論:
1. 様相的文脈は指示的に透明だ!
2. 指示的に不透明だが,量化できる!

1.が有力だと見なされるようになった,それはなんでか??言語的必然性が必然性のすべてを尽くすという考え方が捨て去られたからです.

クワイン:指示的に不透明な文脈はなんでも引用のようなものだと,する!指示的に不透明な表現を全て駆逐すること.それがクワインの目標.

:結局クワインの様相論理批判とは:
必然性=分析性という考え方をとる限りにおいては,様相的文脈内部に量化を施すことは無駄だというクワインの批判は成功する.
でも,分析性=必然性じゃないとしたらどうなる?

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