jeudi, octobre 20, 2005

tractatus.05


フレーゲの関数は、実質を持ってる。
だから、関数それ自身も対象として、また関数に入力できた。
しかし、『論考』:関数は言語のあり方を整理するための便法。
実質なし。入力項としての名と、出力項としての命題、それだけ。
関数をノミナルに考えてる。

フレーゲ:固有名は飽和した表現。他の何かによって補完される必要ない。
L・Wはある。固有名も、述語によって、補完されないといけない。

定義域が異なる関数を、もはやおなじ関数とは捉えない。
それは、定義域というのが、関数の意味と本質的に結びついているからである。
定義域と、値域は、その関数の論理形式を示すものだろう。
ということは、定義域が異なれば、関数の論理形式はもはやかわっている。と考える。
だから、別の関数なのである。


「命題関数が、定義域と独立に決まっていると考えるならば、トマトに“トマちゃん”という名前を付けたとして、「トマちゃんは神経質だ」偽になる「トマちゃんは神経質ではない」は真である」しかし、L・Wなら、「トマちゃんは神経質だ」は無意味だし、「トマちゃんは神経質でない」も真ではなく、無意味だ。と言うだろう。「トマト」の論理形式のなかに、「トマトーX」の定義域のなかに入ってないのだ、「神経質」は。

xは神経質である、という関数の定義域は、
人間とか、それっぽいやつ。普通は。
その定義域に、トマトが入ったとすると、
もうそれは、違う関数だと、かれは考える。
(規則が変わったのかな?だから、意味も変化していて。
トマトに、神経質だとか、そうではないとか
述べることができる世界においては、
「神経質」の意味が既に変化している…のかな)

1 commentaire:

pppppeeeee a dit…

だから、ラッッセルのパラドクスは生じないって、L・Wはいってるけど、
しかしそれって関数についての考え方の違いで、
結局根本的な解決になってるのかは…?である、
といえるかもしれない。