mercredi, octobre 19, 2005

tractatus.02

論理空間をとらえるため、思考の限界へといくため、対象を言語で写し取り可能的結合を作るため、、対象というのを、捉えないといけないんですが、それには、対象の論理形式、つまり名の論理形式を捉えないといけないです。論理形式は、対象の、持ちうる性質を理解するといったいみで、捉えていないと、いけない(ほんとは、なぜとらえないといけないか、わかってません)。しかし、名の論理形式だけでは十分でなく、「この」という名指しが、個別、区別をし、名が論理形式を示唆する。このようにして、対象を切り出せる。しかしながら、そもそも論理形式はどうやってとらえんの?というと、そら、なじむことです。説明されるべき論理形式は全体に広がり、巡り巡って循環する。一つずつ説明することは不可能です。巻き込まれることでしか、解明されない。です。

1 commentaire:

pppppeeeee a dit…

論理空間が、無限の問題に関わること

論理空間を捉えるということは、思考可能の全体を捉えるということ。それはつまり、有意味な言語表現のすべてを捉えるということ。なぜなら、可能性は、言語によって開かれるから。
だけど、有意味な言語表現は、生成文法がよくいうように、無限に作り出せる。じゃあ、無限な論理空間を、捉えうるのか?