mardi, janvier 31, 2006

summa2.02

:飯田隆の解説による、フォジランが指摘した『論考』の問題点:

それは、『論考』の論理が、じつは述語論理のごく基本的な領域(多重量化)をも覆い得ないという点である

それは以下のような議論
(x)(∃y)Fxy:全称量化と存在量化の両方を含む多重量化を『論考』の「基本操作」(任意個の命題を全部否定したもの)で構成しようとすれば、註の(14)で言ってる方法になる。
この方法は
対象が有限個であるという制約か、
そうでなければ
操作が無限であるという仮定を要求する。
しかしながら、
対象が有限であるという主張は、『論考』が主張する論理空間の無限性と相容れない。
では操作が無限なのだ、と結論できるかというと、それもできない。
なぜなら「すべての真理関数は要素命題に対して真理操作を有限回くり返し適用することによって得られる」
と『論考』が述べているからである。つまり、操作は有限回に限られているのである。

このように上に挙げたような種類の多重量化は『論考』では扱えない、から『論考』は述語論理をカバーできない、とするのがフォジランの議論のようです

自分がこのフォジランの話で??と思ったのは、「対象が有限性が論理空間の無限性と相容れない」という点です。なぜなら「対象」が有限でも、それの有限個の「名」と有限個の規則で無限個の文を生成できるから。しかしこう言い得るためには、操作が無限であることが保証されていないといけないはずだ。この点で『論考』は操作を有限個に制限している。よってこのままでは自分が疑問に思ったところは反論になり得ない気がする。
(しかし、5.31は操作が有限でなくてはならないという制約を述べたものではないということが、後に示される)

飯田隆は、フォジランに賛成している。野矢さんは賛成していない。

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