dimanche, janvier 29, 2006

summa2.

公理(第一原理)からの演繹により、ある分野に属するすべての知識を体系化するという方法。
チョムスキーもこれかと思います。


近代の哲学者の問題意識
我々の認識にとって疑い得ないという意味での、「確実性」の問題。
確実性と必然性の混同が起きた。以下の議論はよく用いられる
(a)あるものが必然的なら、それは確実である
(a')あるものが確実でないなら、それは必然的ではない:対偶
(b)あるものが確実なら、それは必然的である:(a)の逆。これすら受け入れる
(b')あるものが必然的でないなら、それは確実でない:ということはこれも受け入れる
しかし(b')はおかしいでしょう。だって、「我あり」ということが疑い得ないとしても、その我が存在しなかった、もしくはこの我が、「自分じゃなかった」ことはいくらでも考えられる:必然的ではないが、確実。になってる、という反例がそんざいする。


ヒュームが激しく批判した後に必然性がまだ残りうるとされたのは、数学と論理学。
しかし、近代において論理学は、論理的推論は認識を広げてくれるものとは考えられていなかった。
論理的推論は、既に知られていること、前件に含まれていることをくり返すだけなら、確実なのは、必然なのは確かにそうだね。
けど、なんか既に含まれてるものをくり返してるから必然だというのは、本来の「知識」とは呼べないんじゃない?ちゃんとした事実の中に、これは必然的だ!と呼べるものがないとな…。


「ア・プリオリな認識とは経験に全く依存しない、ア・ポステリオリは経験に依存する」という区別ではない
だって『純粋理性批判』第2版緒言で、「われわれの認識がすべて経験をもって始まるということについては疑いがない」っていってるし。認識自体は、全部経験いるっていってるからな。

「ア・プリオリな認識とはその正当化のためにいかなる経験も必要としない、ア・ポステリオリな認識は必要とする」ということです


カントが用いている区別
・必然的—偶然的
・確実—不確実
・ア・プリオリ—ア・ポステリオリ
・分析的—総合的


上の3つは同じものとして考えられている:カント
分析的・総合的というのは:われわれの認識を増大させるか、そうでないか。
数学の知識は「ア・プリオリかつ総合的」とカントはいう(ちなみに論理学の知識はア・プリオリだが分析的)
つまり
「その正当化が経験に依存しないにもかかわらず、われわれの認識を増大させる判断」
でもそんなことってあるのか…。



他には物理学と、形而上学がそーゆー学問の候補だけど、後者は否定
なんでそういえるのかを説明すること、それが『純粋理性批判』の主要な目的と言えるだろう

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