dimanche, janvier 29, 2006

summa2.01

よく言語学で、認知言語学が出でくる背景として、論理学的意味論、真理条件的意味論が言語の意味の理解として十分でないという認識があったって、そんでそのもとはウィトゲンシュタインみたいな感じでいわれます。
ほんとにそんな単純な話かな…!

:真理条件から検証条件への転換:
命題の論理的分析:命題の真理条件を明示的に取り出すこと
真理条件:「像を実在と照合する」という『論考』の言葉を、「経験との照合」と読む論理実証主義者
フツーにそうかなとおもってたけど。彼らは経験主義者だからね。


:検証条件の帰結:
二値性の原則に影響。それを防ぐために、logical positivist:
要素命題以外の命題はすべて要素命題の真理関数として得ることができる
要素命題は決定可能である:感覚与件命題です
が導入される
ということは、要素命題以外の命題は、すべて感覚与件命題の真理関数として得られる。
ようするに、感覚与件命題だけあれば良い:感覚与件命題への還元主義


しかし『論考』の基準からすると、感覚与件命題は要素命題になり得ない
『論考』は、要素命題の相互独立性
感覚与件命題「これは赤い」は必然的に、「これは白い」を排除する。ということは、相互独立じゃねー。
だって相互独立だったら、片方の命題の真偽から、
もう片方の命題のいかなる真偽もみちびけない。
だってふたつは独立なんだから、両立可能ということ。
だから、「これは赤い」といったあとで、「これは白い」といえるはず。
でも実際はそうじゃない。
ということは、感覚与件命題は要素命題が満たすべき基準満たしていない。
ウィトゲンシュタインも後でこのことを認めた


1.3. :検証主義の内容:

:ヘンペルの議論のどこが大切か:
論理実証主義の「検証主義」への批判として今までなされてきたものは、「弱い」テーゼを考察すること。詳しくは「検証可能性」という概念をちゃんと定義できるかという議論。そんで、そもそもその検証可能性の基準が定式化できないんだから、これを命題の有意味性の基準にするなんて、根本から誤ってる、という流れの議論。その代表的なものが、ヘンペルの議論。



意味は「真理条件」なのか。「検証条件」なのか…という問いから、
:「文の意味=検証条件」という試みとしての、シュリック検討:
他の人たちは真理条件と検証条件を混同してるけど、シュリックは両者のギャップを埋めようとしている。
「直示的定義」「検証可能性」


:分子論的意味論というアイデア:
「単独の語—対象」という単純なつながり(アトミック)を想定するのでもなく、言語理解の単位を言語全体に求める(ホーリズム)のでもなく、言語理解の単位を文に求める。そんで、ひとつの文の理解は必ず他の多くの文の理解をともなっていなくてはならないという考え方。

分子論的意味論では、「語の意味は文の意味への寄与」。
経験主義的に言い直すと、「語の意味は文の検証条件への寄与」。
別に、語が有意味であるために、それが「単独で」何らかの経験と結びつけられている必要はない。

シュリックの議論は、単なる原子論的意味論と分子論的意味論の混同ではない、と考えうる。
シュリックは、直示的定義と、要素命題を関連づけている。
シュリックの議論は:(a)言語理解にとって、直示的定義に関する文の習得が基礎的である
(a)は、すべての文は直示的定義に用いられる文だけから構成された形の文に変形できるということ。
それは、「すべての文は直示的定義の文の真理関数だということ」この議論のもとは『論考』の要素命題。
『論考』5で、「命題は要素命題の真理関数である」といっている。
シュリックは、この要素命題と直示的定義を結びつけて考えた。
したがって「すべてのぶんは直示的定義の文の真理関数だ」という結論になる。

(b)そしてそういう特性を持つ文というものの意味は、「検証条件」である。
…え、なんで(a)みたい特性を持つ文の意味は「検証条件」になるの?
それはp. 102にかいてあるよ。

Aucun commentaire: