samedi, novembre 19, 2005

tractatus.12

『論考』の体系:論理語に全称量化子、存在量化子がはいってない。命題論理にとどまる。述語論理はカバーしてない。
対象が有限であるときは、述語論理が必要とする表現力は論考の範囲でまかなえる。
では対象が無限のとき、「すべてが点灯している」をどう表すか。「aかつbかつcかつ…」と無限のかつであらわせばいいのか。
それはダメって論考に書いてある。

「真理操作の無限回の適用を拒むほど厳格に構成主義的立場を取ろうとするものが、無限個の基底を一気に操作するようなことを許すだろうか」
操作をうける命題も有限個じゃないと。
ということは、論考の対象は有限なのかい。(無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れる、ということは対象が有限だから論理空間も有限だという説明では不十分だということになります)
『論考』的には、対象が何個あるのかということは、個人の体験に依存する。(不十分)

上限はない:原理的には無限の対象にであうことができる
無限ではない:実際無限の対象に出会うような経験はない

というのが、仮に『論考』の考え方だとします。でもよー無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れるのです。ということは対象が有限だからといって論理空間も有限だといえなくなります。『論考』の説明は不十分だということになります。
とおもってたら、、、だよマジで。

1 commentaire:

pppppeeeee a dit…

論理空間が無限つーもんに関わってること、思ってました。生成文法で、有限の規則で無限の文を生成できると、いつもいってます。その通り、だとするとじゃあ、論理空間は、無限になるよ。そーゆー無限なものを内側から限界づけるなんてできんのかなー論理空間は、確定してるていえねーじゃんて、素朴に思ってました。その答えは、かんなりハイレベルに議論されて存在してました。amazzzzzzzingフゥーーー!