samedi, novembre 19, 2005

tractatus.11

関数f(x)=x+1に自然数を構成する力のないこと:lwのいい分
0を代入して、1を得る、そしてまた代入し、2を…そして自然数。というわけにはいかない。なぜならL・Wによれば関数はドメインとコミになってはじめて意味を確定する。それゆえ、定義域が最初0なら、それを代入したf(x)=x+1にこんどは1を代入する、ということはできない。1がだいにゅうできるためには、最初から定義域に1が含まれてないといけない。ソーユー感じで、f(x)=x+1で自然数を出したいのなら、最初から定義域に自然数が含まれてないといけない。それゆえf(x)=x+1では、自然数を構成できない。

フレーゲ
P∧Qの、P、Qは変項。ここにT/Fが代入される。出力は、P∧Qの真偽:構成要素の真偽から、命題の真偽への関数:それを真理関数とよぶ。
L・W
P∧Qの、P、Qは変項ではない。命題。P∧Qはただの命題。∧はP、そしてQが真となるような具体的状況(真理領域)の共通部分を取り出すという「操作」である:だから別に、関数ではない。かれも真理関数っていってるけど、それはいささかも関数ではない。

L・Wに従ったとして、論理がア・プリオリ、とL・Wみたいにいえるとする。すると、論理語は、真理関数ではありえない。だってもし論理語が関数だとすると、関数は定義域にいぞんしてますから、その定義域は、いかなる対象があるかということに依存します。いかなる対象があるか、ということは、ア・プリオリに定まらないです。ということは、論理語が関数だと考えるのは、おかしい。
しかし、操作だったらいつも同じ。どんなモンがきても、操作はいつも一定のもの。∧(共通部分)∨(合併)…。
つまり、論理のア・プリオリ性とは、操作のア・プリオリ性のことである。

論理空間のア・プリオリ性:
いかなる対象(名)が存在するか、いかなる要素命題(事態)があるか(これが決まれば論理空間は決定する)
このことは、ある命題の真偽(経験によって確かめること)に先立つ。(認識論的経験に先立つ)
しかし論理空間自体はいかなる要素命題があんのかに依存している。したがって、強いアプリオリではない。

論理空間の可能性について。それが「理解可能性」だということ。だって、論理空間がW1〜W4みたいなもんだとすれば、まず、W4の真理性が存在論的に要請される。そうじゃねーと、対象aや対象bに出会えなかったり、するときがありますもん。まず、成り立ってるところから(事実から)いかないと、そっからじゃないと可能性も何もないっす。いま論理空間がこうだということは、これこれがなりたっている、そして、そうじゃないこともありえた…これじゃまちがってるな???なんども戻ってくること。p. 162

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