lundi, novembre 07, 2005

investigations#74

#74また最初に戻ってきた。ここまで「見る」「考える」「として見る」をブレインストーミングするため、みんなにどーなってんの?を考えさせるため詳細に進めてきた。ここからまた始まる。
「見る」:反省の欠如(意識の焦点化の欠如、疑いのない態度)
「考える」:(自分の意識の焦点に持ってくる。反省)
おそらく。「として見る」は「考えるの始まり」だ!!!!!!

#78アスペクト変わったあと、その後その見方が持続する時、その時、「見てる」のか「として見る」なのか。こんなこというために、ずっと論じてきてる。

(詳細な、観察により、概念を分類していく、こまかくどんな場合は?とかをみていく。
アリストテレス霊魂論と意図的ではないはずだが酷似)

アスペクト:見え方みたいもん#25らへんをみるとわかる

例えば、それまで、まったくアヒルにしか見えてなくて、他にみえかたあるって知らなかったのに、いきなり、「ウサギ!」ってなった時、その浮き上がってきたものを「見てる」「として見る」どっちやねん。
その瞬間は「見てる」のきがするんすよ。そんで、あとはどっちも行き来できるんで「として見る」だとおもうんすよ。
いまんとこ。

1 commentaire:

pppppeeeee a dit…

全然、なんとなくですけど、たぶん、じぶんにとっては、クオリアを勉強する前に、ウィトゲンシュタインにであっててよかった。多分逆だと、ムミカンソーになってたかもしんない。衝撃がすくなかったかもしれないです。