lundi, novembre 07, 2005

investigation#68

#68階段を、突き抜けてる一本の線、の絵。ああ、これは階段の中を線がとおってて、中を通ってる部分は見えてないけど、階段は段になってるから、所々、みえてんのね。
そうわかって、いるのに、わかってんのに、そう見ることができない人。他には、これは、平面にかいてあるけど、ああそうだ、見方によっては浮き上がって見える絵だ。とわかってんのに、そう見ることができない人。この人は、できる人と結果として何が異なってくるんだろう?
行動。(例えば、その図をつかって立体幾何学の論証をさせた時、その図をそう見れてない人は、途中から論証についていけなくなる、ということがおきるかもしれない)
その人が、そう見えてるかって、ほんとは分かんないのだけど、外から見たときの基準:適切にふるまってるか。それが認定基準になってますね。


#69「…を見る」「…として見る」「…を知る」の区別がここらへんからなされてくる。
矢が首を貫通しているように見える鳥の絵。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか
矢が首を貫通しているように見える鳥のシルエット。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか

基準は、リアリティだと理解する。リアルな時、それを見てる。リアルじゃなくなるに従い、それは、知るになる。

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