samedi, novembre 19, 2005

tractatus.14

「私の言語の限界が、世界の限界を意味する」

私の言語の限界はいかにして確定されるか、それは私がいかなる要素命題をもっているか、いかなる対象にであっているか、いかなる存在論的経験をしてるかによっています。その言語の限界は、確かに、論理空間の限界と一致してます。よって、「私の言語の限界が、世界の限界を意味します」

「世界は私の世界である」とはなんでいえるか

私は他の存在論について、語ることも示すこともできない。自分の論理空間の外にあるから。
私の存在論は語ることでできず、しめすのみ。語るための前提だから。
という考え方

「世界は私の世界である」:「世界の限界を定める対象領域」と「私の世界の限界を定める対象領域」がおなじであるという考え方の表明ですこれは。ただし「世界は私の認識した範囲だけに限られる」というのではありません。もちろん私が確認してない事態というのはあります。でも私は、世界の全部の対象について語りうる、出会える原理的に。ということは、世界にある対象の全部と、私の世界にある対象の全部は、最終的に一致する。かな?でももし、世界のそとにあるもの、語り得ないものも世界・対象として認めたら、ウィトゲンシュタインみたいな独我論はとれないよ。

他の存在が他の存在論を開いているかもしんないと、いう「かもしれない」というのは、どれほど強い実感であっても、根拠のない実感でしかあり得ない。きっとあるだろうと思う、それはしかしまともな思考ではあり得ない。こうウィトゲンシュタインは考えた。そこから、自分は??

(「ウィトゲンシュタインが「私の言語」と述べる理由は、名と対象の意味論的関係が私の志向性に基づくからというのではない。私はそう結論したい」:飯田隆みたいな結論を受け入れないとしたら、これを受け入れることになるか。そうしたら、



…志向性というのが像関係を成立させているというのは転倒で、その逆である、という考え方に組することになるのか。)

done!よろしい!

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