samedi, décembre 10, 2005

tractatus.16

transzendental
論理が超越論的:
単に、経験によって把握し得ないという意味ではない。この世界に対して超越的でありつつも、なおこの世界がこのようであるために要請されるもの、それが「超越論的」と呼ばれるものである。実際、論理は、それ自身を語ることはできないが、世界を語るために、世界が語られたようであるために、不可欠であるのです。
倫理が超越論的

永遠の相のもとにとらえる
対象を、論理空間とともに捉える。それは、論理空間の礎石として捉える。論理空間の構造を見て取る、その時対象は不動の実体となる。変化するのは諸対象の配列であり、対象そのものは変化しない。
また、対象は消滅することもない。死んだ。でも思考可能である限りウィトゲンシュタインという対象は存在している。対象は変化せず、生成消滅もしない。これが、対象が実体であるということの意味である。

論理空間とともに、対象を論理空間を構成する不変の礎石として見る:これが永遠の相のもとにとらえるということである。ただし、この永遠の相のもとで捉えるのは、論理的な分析によって、論理空間を明らかにすることによってなされる。つまり、啓示とかではないのさ

死が人生の出来事でない理由
論理空間を張るための超越論的条件として、私の生が必要だ。ということ。
私が死んだら、論理空間は消滅し、私はいっさいの思考の足場を失う。
私が私の死を考えるということは、この論理空間の消滅を考えるということ。
しかし、論理空間の消滅なんて考えることはできない。
とすれば、私の死は考えられないのではないか。
つまり、論理空間に私の死は含まれないのではないか。
でもさ、私は、他人の死と同じように、自分の死について考えることができます。

論理空間に含まれる最大の虚構であるという。

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