lundi, décembre 19, 2005

sans titre

poverty of stimulous の問題が有効でないとしたら、UGの設定自体が崩れる。母語としてるひと、外国語として学習してる人、たとえば日本語の活用の習得のスピードと直観がちがう。(おれに「たべる」にくらべて「すべる」が活用の面から見て例外的な動詞だといういしきがあった?)動詞の活用をすべて経験から覚えるの?ぜんぶの動詞の活用をここにおぼえるのではなく、類推という認知的な能力をもとに何らかの規則を理解するのではないか。UGなんて別に出さなくてもいい話である。“ただしもし類推しかしていないとしたら例外的な「すべる」の活用については、全員が一度まちがうはずである。アメリカの子供がgo→goedと言ってしまうことがあるように。そしてそのあと親とかにまちがってるよとなおされないと学べないはずである。”しかしそうとは考えられないだろう。“そうでなければ一度全員が「すべった」もしくは「すべらない」という、「たべる」には出てこない活用を耳にし、みにつけたと考えられる。”そうかもしれない。もしくは、基本語彙として、UGを発動させる初期データの中に活用を含めて入っているとも考えられるだろう。

まとめ

1.UGが全然関係してないといえる領域
2.そんでデータが等質ではない。
3.なのにみんなの直観がいっちする

この3つがそろうとUGを設定することを無意味にする。体系を一気に崩壊させる。
たとえば、日本語の活用。UGに入ってるわけがない。身に付けたとしか考えられない。

“いやUGに言及することなくこの現象を説明できる。UGとは別の問題に還元することができる。
言語習得の能力とは別に、類推という認知的な、動物も持ってるけど人間においてとくに強力に発達した能力によって、活用を身に付けたとも考えられる。(そのばあい、「射る」という動詞などで母語話者の直観が一致しないことが説明できる。じぶんはまちがえてた)。そうです、アナロジーとか帰納(induction)という人間が持っている高度な能力です。

じゃあ、UGとかどうのとかいろいろいってるけど、ぜんぶこのさ認知というさ、高度な一般的な学習機構・学習機能の能力で身につけてんじゃないの。言語の習得だけUGとかいって独立に設定してますけど、言語にかかわらない強力な人間の認知システムで説明できんじゃん。なんで言語だけ特別視するのか(つーかそーゆー認知みたいの語の理解に不可欠とか、脳のモジュール性が否定されているとか…)。”

……
サルはUG持ってないからヒトみたい言語はなせないと説明するのか・サルもヒトも認知能力もってるけどサルとヒトと程度が違いすぎてサルははなせないと説明するのか。
……
UGみたいのが進化の過程で突然変異としてemergeしたと考えるのか
認知能力があるときに飛躍的に進歩した結果でそれは連続してると考えるのか
……
しばらくむかし友人にぜんぶそれ脳がもってる期待値をだす能力みたいなもんでといわれてそれがかなり強力で頭からはなれなかったのですがやっとその反論のないようがりかいできたようなきがする。だからとても今日はよかった。そのさきにはこれからいく

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