坂原はあくまでも,条件文の意味は真理関数的に捉えることが可能だという立場にたつ.
そこからはみ出るものも語用論的要因として説明でき,結局は真理関数的条件文に還元できると考える.
自然言語の条件文にとって,真理関数的な条件文の真理条件は必要条件,つまり最低限の制約だと考える.
しかし自然言語の条件文においては,この最低限の制約である真理関数的条件文の真理条件にすら違反するような場合が存在する.
しかしながら,これも語用論的要因を考えることで真理関数的条件文に還元できると…!
大胆不敵,快感刺激.
jeudi, avril 27, 2006
summa.03.3
実質含意のパラドクス
しかしこのパラドクスは,本当の意味でパラドキシカルなのではない.この…が示していることが真理関数的に正しいことは,真理表を見れば明らかである.
このパラドクスが示していることは,真理関数的な考え方だけでは捉えきれない条件文の用法が存在するということである.
その実際の用法を規制する他の要因を形式論理以外のところに求める道.それを語用論的要因と呼べば,これは坂原が条件文の考察においてとった道のことだ,といえるかもしれない.
様相を量化と組み合わせる困難
バーカン式
まで.
しかしこのパラドクスは,本当の意味でパラドキシカルなのではない.この…が示していることが真理関数的に正しいことは,真理表を見れば明らかである.
このパラドクスが示していることは,真理関数的な考え方だけでは捉えきれない条件文の用法が存在するということである.
その実際の用法を規制する他の要因を形式論理以外のところに求める道.それを語用論的要因と呼べば,これは坂原が条件文の考察においてとった道のことだ,といえるかもしれない.
様相を量化と組み合わせる困難
バーカン式
まで.
vendredi, avril 14, 2006
la chaine 02
2.2
まとめ
自然言語の条件文の意味は,真理関数的だとする.
するとそうはいえない例に直面する.
しかし,真理関数的に許容される条件分の一部は,
自然言語の条件文として許容され得るということ.
坂原はそこにあくまでもこだわる.
まとめ
自然言語の条件文の意味は,真理関数的だとする.
するとそうはいえない例に直面する.
しかし,真理関数的に許容される条件分の一部は,
自然言語の条件文として許容され得るということ.
坂原はそこにあくまでもこだわる.
mercredi, avril 12, 2006
la chaine 01
:含意のパラドックスとは:
“qは真である.したがって,pを仮定するなら,qは真である.よってpならばq”という推論が,おかしいこと.その理由は,すでに真であることが分かっているqを導出するのに,つかう必要のない仮定pを導入し,仮定的世界を作っているから.
:条件文が偽になる:
もし,条件文の前件と後件の真理値決定が事実に基づいて独立に行われたら,前件が真で,後件が偽という場合が生じてしまうかもしれない.その時条件文全体は偽となる.それじゃあまずい.普段,こうした状況が起こらないために,どうしているのか.
推論の連鎖の中で,前件pは実際に,条件文を作るときの歯止めとしてはたらく.後件に偽であるものが来ないように,規制をかけている.
条件文を作る時に,前件pをもとに,「前件がこうだということは,後件にこれがきたら偽になってしまうから…」というような推論が行われ,調整が行われ,実際にできる条件文は「pを仮定すると,qは真」というものになる.(条件文と推論という概念をわけて考えること)
しかし,「もしあなたがノーマンに会いたいなら,彼はグランドホテルにいます」のような文においては,そんなことは起こっていないのでは?なぜなら,前件と後件は無関係だから.つまり,ノーマンに会いたかろうが,なかろうが,かれは,ホテルにいるのだ.前件が真でも,偽でも,後件には何の関係もない.ということは,これは,前件をもとにした推論をもとに後件を設定する,という説明の反例になるのでは??
しかしこれは,「疑似条件文」である.「pならばq」ではなくて,本当は「pならば,qであるから,r」という構造なのである.「ノーマンに会いたいなら,彼はグランドホテルにいますから,あなたはノーマンにグランドホテルであえます」ということだ.「pならばr」という条件文と考えれば,qをもとに推論を働かせ,rという後件を導いたと考えることができるだろう.
ではなぜ「pならばr」ではなく,「pならばq」という形をとるのか.それは後述の語用論的要因による.(語用論的要因というブラックボックスだ…)
“qは真である.したがって,pを仮定するなら,qは真である.よってpならばq”という推論が,おかしいこと.その理由は,すでに真であることが分かっているqを導出するのに,つかう必要のない仮定pを導入し,仮定的世界を作っているから.
:条件文が偽になる:
もし,条件文の前件と後件の真理値決定が事実に基づいて独立に行われたら,前件が真で,後件が偽という場合が生じてしまうかもしれない.その時条件文全体は偽となる.それじゃあまずい.普段,こうした状況が起こらないために,どうしているのか.
推論の連鎖の中で,前件pは実際に,条件文を作るときの歯止めとしてはたらく.後件に偽であるものが来ないように,規制をかけている.
条件文を作る時に,前件pをもとに,「前件がこうだということは,後件にこれがきたら偽になってしまうから…」というような推論が行われ,調整が行われ,実際にできる条件文は「pを仮定すると,qは真」というものになる.(条件文と推論という概念をわけて考えること)
しかし,「もしあなたがノーマンに会いたいなら,彼はグランドホテルにいます」のような文においては,そんなことは起こっていないのでは?なぜなら,前件と後件は無関係だから.つまり,ノーマンに会いたかろうが,なかろうが,かれは,ホテルにいるのだ.前件が真でも,偽でも,後件には何の関係もない.ということは,これは,前件をもとにした推論をもとに後件を設定する,という説明の反例になるのでは??
しかしこれは,「疑似条件文」である.「pならばq」ではなくて,本当は「pならば,qであるから,r」という構造なのである.「ノーマンに会いたいなら,彼はグランドホテルにいますから,あなたはノーマンにグランドホテルであえます」ということだ.「pならばr」という条件文と考えれば,qをもとに推論を働かせ,rという後件を導いたと考えることができるだろう.
ではなぜ「pならばr」ではなく,「pならばq」という形をとるのか.それは後述の語用論的要因による.(語用論的要因というブラックボックスだ…)
mardi, mars 14, 2006
relevance.
SperberとWilsonによって開発された「関連性理論」は語用論の最新のモデルであり、Griceの理論の自然な発展形である。この理論では、発話解釈というものを、聞き手の心的表示に対して操作された演繹論的推論メカニズムであり、その操作は「人間の認知系は自分にとって関連ある情報に注意を払うようにデザインされている」という関連性の原理によって支配されている、と考える。関連性を決定する要因には、コンテクスト効果と処理労力の二つがある。関連性理論では、話し手の行為は、最適の関連性を目指していると仮定され、その仮定から、発話解釈の諸現象が解明され、Grice理論に内在する諸問題も克服される。
やることが決まってるなら 別に他の本は読まなくてもいい
ほかの課題はやんなくていい
それは いやだ
いやなら やるしかない
やれと なにかが 背中を おしてくるなら
やることが決まってるなら 別に他の本は読まなくてもいい
ほかの課題はやんなくていい
それは いやだ
いやなら やるしかない
やれと なにかが 背中を おしてくるなら
lundi, mars 06, 2006
summa2.03.3
クワインがまちがってるところ
で、映画のマトリックスにすごく関係するところ
があります
p→qにそぐわないような経験eに直面した。
pを満たすが、qを満たさない。
そしたら、その推論を含む理論の全体が裁きにあう。
・経験e自体が間違ってた。
・論理θの根底にある論理Lが変だ。
・理論θに変なところがある。
・p→qという推論がただしいとされることが変だ。
一番したの「理論θでは、論理Lに従い、p→qという推論が妥当なものとして導出される」という判断
を改訂してみよう。とする。その改訂が良かったかどうかは、経験とのつきあわせにより、決定する。
そのあと、物事が矛盾しなければ、その改訂は良かった。
じゃあこの推論のやり方を改訂した場合と、そうでない場合の帰結を比較してみて、改訂した方がいいかそうでないか、確かめてみよう。
それで、改訂した場合、例えばAという結論が、でたとします。
そのとき、必ず、なんかの推論をしてます。「経験eに直面したら、p→qが無いんだから、こうなって、こうなって…Aという結論だ!」という具合に。
しかし、この「こうなって」が問題です。この「こうなって」というのは明かにある一つの推論です。その推論は、「理論θでは、p→qが否定されている論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」というしかたで導かれています。問題はくり返します。ではこの「理論θでは、p→qが否定された論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」という判断が正しい理由はどこにあるのでしょうか。クワイン流の全体論によれば、正しいと断言できる理由は一つもありません。
…じゃあまた、「理論θでは、p→qが否定された論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」を改訂しよう。○○はもう無いんだ。その上で出た結論と、そうでない○○を用いて導かれた結論を比較して、どっちがより現実の状況と整合的か調べよう。
それで、改訂した場合、例えばBという結論が、でたとします。
そのとき、必ず、なんかの推論をしてます。「経験eに直面したら、p→qと○○が無いんだから、こうなって、こうなって…Bという結論だ!」という具合に。
しかし、この「こうなって」が問題です。この「こうなって」というのは明かにある一つの推論です。その推論は、「理論θでは、p→q・○○が否定されている論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」というしかたで導かれています。問題はくり返します。では、この「理論θでは、p→q・○○が否定された論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」という判断が正しい理由はどこにあるのでしょうか。クワイン流の全体論によれば、正しいと断言できる理由は一つもありません。
…じゃあまた、「理論θでは、p→q・○○が否定されている論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」を改訂しよう… …以下無限に続く
で、映画のマトリックスにすごく関係するところ
があります
p→qにそぐわないような経験eに直面した。
pを満たすが、qを満たさない。
そしたら、その推論を含む理論の全体が裁きにあう。
・経験e自体が間違ってた。
・論理θの根底にある論理Lが変だ。
・理論θに変なところがある。
・p→qという推論がただしいとされることが変だ。
一番したの「理論θでは、論理Lに従い、p→qという推論が妥当なものとして導出される」という判断
を改訂してみよう。とする。その改訂が良かったかどうかは、経験とのつきあわせにより、決定する。
そのあと、物事が矛盾しなければ、その改訂は良かった。
じゃあこの推論のやり方を改訂した場合と、そうでない場合の帰結を比較してみて、改訂した方がいいかそうでないか、確かめてみよう。
それで、改訂した場合、例えばAという結論が、でたとします。
そのとき、必ず、なんかの推論をしてます。「経験eに直面したら、p→qが無いんだから、こうなって、こうなって…Aという結論だ!」という具合に。
しかし、この「こうなって」が問題です。この「こうなって」というのは明かにある一つの推論です。その推論は、「理論θでは、p→qが否定されている論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」というしかたで導かれています。問題はくり返します。ではこの「理論θでは、p→qが否定された論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」という判断が正しい理由はどこにあるのでしょうか。クワイン流の全体論によれば、正しいと断言できる理由は一つもありません。
…じゃあまた、「理論θでは、p→qが否定された論理Lに従い、○○というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」を改訂しよう。○○はもう無いんだ。その上で出た結論と、そうでない○○を用いて導かれた結論を比較して、どっちがより現実の状況と整合的か調べよう。
それで、改訂した場合、例えばBという結論が、でたとします。
そのとき、必ず、なんかの推論をしてます。「経験eに直面したら、p→qと○○が無いんだから、こうなって、こうなって…Bという結論だ!」という具合に。
しかし、この「こうなって」が問題です。この「こうなって」というのは明かにある一つの推論です。その推論は、「理論θでは、p→q・○○が否定されている論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」というしかたで導かれています。問題はくり返します。では、この「理論θでは、p→q・○○が否定された論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」という判断が正しい理由はどこにあるのでしょうか。クワイン流の全体論によれば、正しいと断言できる理由は一つもありません。
…じゃあまた、「理論θでは、p→q・○○が否定されている論理Lに従い、△△というある推論のやり方が妥当なものとして導出される」を改訂しよう… …以下無限に続く
mardi, février 28, 2006
summa2.03.2
:論理実証主義:
「検証」が意味論の中心に据えられている。ということは、意味による真理という分析的真理が、検証という認識論的性格を帯びる。そうした論理実証主義からでてきたクワインが分析的真理と、「何が起ころうとも確証される真理」つまり「アプリオリな真理」を同一視しているのは、当然といえば、当然である。
(飯田隆はこの自らの説明に自信がない)
もし体系全体が「裁き」に会うなら、この分析的な文も、実はおかしいかもしれないということ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもないということになるよ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもない...おかしいはず
3.4.
異なる規約が採用されて、「もう言葉の意味が異なっている」「異なる言語を話している」と?
しかし
「分」と「秒」の例は、異なる規約において同じような役割を果たす語の存在を明らかにしている。
新たな規約の採用によっても、言語全体の中での位置を変えていないのでは?
(新しい規約の採用は言語の「同一性」を破壊する、規約が新たに採用されるごとに「異なる言語」が出現するという主張は、言語の変化という事態を正しく捉えることを不可能にするのではないか)::丹治信春を読んだらいい
3.4.2
カルナップとクワインが表面的には酷似していること。しかし、「言語」と「事実」の間にはっきりとした区別があると考える点で、両者は決定的に異なる。
「検証」が意味論の中心に据えられている。ということは、意味による真理という分析的真理が、検証という認識論的性格を帯びる。そうした論理実証主義からでてきたクワインが分析的真理と、「何が起ころうとも確証される真理」つまり「アプリオリな真理」を同一視しているのは、当然といえば、当然である。
(飯田隆はこの自らの説明に自信がない)
もし体系全体が「裁き」に会うなら、この分析的な文も、実はおかしいかもしれないということ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもないということになるよ。
自身の信念の体系をどのように改訂すべきかについての拠り所が一つもない...おかしいはず
3.4.
異なる規約が採用されて、「もう言葉の意味が異なっている」「異なる言語を話している」と?
しかし
「分」と「秒」の例は、異なる規約において同じような役割を果たす語の存在を明らかにしている。
新たな規約の採用によっても、言語全体の中での位置を変えていないのでは?
(新しい規約の採用は言語の「同一性」を破壊する、規約が新たに採用されるごとに「異なる言語」が出現するという主張は、言語の変化という事態を正しく捉えることを不可能にするのではないか)::丹治信春を読んだらいい
3.4.2
カルナップとクワインが表面的には酷似していること。しかし、「言語」と「事実」の間にはっきりとした区別があると考える点で、両者は決定的に異なる。
jeudi, février 16, 2006
summa2.03
カルナップは、人工言語に対しては意味論的規則を特定することで「分析性」の概念を定義できると主張する。
:クワインの批判:
「分析性」を定義しているように見えて、それは実は定義していない。
「それはあくまでも、個々の人工言語のひとつひとつについて、「文Sは言語Lにおいて分析的である」を別々に定義するものである」
L1において分析的、とL2において分析的が、それぞれ定義されたとしても、両者の間に共通しているのは、「分析的」という字面のみで、この二つは別のしかたで、異なる意味論的規則によって定義されたものである以上、本来両者の間には何ら共通性を仮定することが許されない。
もし共通点があるなら、それは既に「分析的」という概念が確立されているから。「意味による真理」という概念が理解されているから。
:クワインの批判に対する評価:
ある概念に対して明確で非循環的な定義がない場合にはその適切さも疑わしくなる:という誤りを犯している。
明示的定義を与えることができないからといって、その概念を理解していないということになるだろうか。
:ある概念が理解されているために必要なこと:
事例を挙げることができる・正しく使える・新しいモノにその概念が当てはまるか判断できる
・つまり明示的定義は必要ではない。
:もうひとつの考え方:
「意味」「同犠牲」「分析性」という概念が、言語活動を説明するための「理論的概念」だと考える。理論的概念が「あるものとして」受け取られるとき、何が必要か。それはその概念がどのような理論的目的のために導入されたものかが明確なこと。その概念が既存の概念とどのような関係に立つかが明確なこと。こうした理論的概念は、ある理論を下敷きにして導入される。明示的定義は、簡単に導入される。
あと別に「循環」といって非難されるべきことではない。LWいってたこと思い出す。
:クワインの批判:
「分析性」を定義しているように見えて、それは実は定義していない。
「それはあくまでも、個々の人工言語のひとつひとつについて、「文Sは言語Lにおいて分析的である」を別々に定義するものである」
L1において分析的、とL2において分析的が、それぞれ定義されたとしても、両者の間に共通しているのは、「分析的」という字面のみで、この二つは別のしかたで、異なる意味論的規則によって定義されたものである以上、本来両者の間には何ら共通性を仮定することが許されない。
もし共通点があるなら、それは既に「分析的」という概念が確立されているから。「意味による真理」という概念が理解されているから。
:クワインの批判に対する評価:
ある概念に対して明確で非循環的な定義がない場合にはその適切さも疑わしくなる:という誤りを犯している。
明示的定義を与えることができないからといって、その概念を理解していないということになるだろうか。
:ある概念が理解されているために必要なこと:
事例を挙げることができる・正しく使える・新しいモノにその概念が当てはまるか判断できる
・つまり明示的定義は必要ではない。
:もうひとつの考え方:
「意味」「同犠牲」「分析性」という概念が、言語活動を説明するための「理論的概念」だと考える。理論的概念が「あるものとして」受け取られるとき、何が必要か。それはその概念がどのような理論的目的のために導入されたものかが明確なこと。その概念が既存の概念とどのような関係に立つかが明確なこと。こうした理論的概念は、ある理論を下敷きにして導入される。明示的定義は、簡単に導入される。
あと別に「循環」といって非難されるべきことではない。LWいってたこと思い出す。
lundi, février 06, 2006
sans titre
語彙レベル
やる・くれる・もらう、というような語の日韓区別
おそらくparameterではない
経験にたよっている 学習しないといけない
でも一個ずつ語彙を経験によって学習しているとすると
基礎語彙の習得にかかる時間が短すぎる
文構造を決定するparameterが語彙習得を規定するというような方向で考えられればいいが 同じような文構造の日韓で 語彙構造けっこうちがうという事実
仮定
・いったん基礎を学ぶと 派生的なものは学ぶ必要がなくなる
しかしそれでも問題ある
・日本語では 使い方簡単に 学ばずにつかえるようになる それが原理によって保証されていると考えうる
・韓国語では 日本語と似たようなデータをもとにしているのに ひとつだけ制約があってつかえないということも同時になぜか身につける
つまり
同じ基礎的なものなのに 派生してくるのものが異なる
まとめ
言語習得がtheoryの出発点になっている領域 探求のそこここで実際の言語習得を参照してみる必要がある
やる・くれる・もらう、というような語の日韓区別
おそらくparameterではない
経験にたよっている 学習しないといけない
でも一個ずつ語彙を経験によって学習しているとすると
基礎語彙の習得にかかる時間が短すぎる
文構造を決定するparameterが語彙習得を規定するというような方向で考えられればいいが 同じような文構造の日韓で 語彙構造けっこうちがうという事実
仮定
・いったん基礎を学ぶと 派生的なものは学ぶ必要がなくなる
しかしそれでも問題ある
・日本語では 使い方簡単に 学ばずにつかえるようになる それが原理によって保証されていると考えうる
・韓国語では 日本語と似たようなデータをもとにしているのに ひとつだけ制約があってつかえないということも同時になぜか身につける
つまり
同じ基礎的なものなのに 派生してくるのものが異なる
まとめ
言語習得がtheoryの出発点になっている領域 探求のそこここで実際の言語習得を参照してみる必要がある
vendredi, février 03, 2006
sans titre
英語の文 週に一本かく
中村真さんの禁煙みたいに
DIYハードコアをききながら
サイダー瓶を額にあててむこうがわ
のぞく
ホットのオレンジジュースのむ
そうして
あたまが つねに
ブレインストーム
ひらめきだ
中村真さんの禁煙みたいに
DIYハードコアをききながら
サイダー瓶を額にあててむこうがわ
のぞく
ホットのオレンジジュースのむ
そうして
あたまが つねに
ブレインストーム
ひらめきだ
mardi, janvier 31, 2006
summa2.02.2
こういうところがいちばんおもしれーーーからやめらんねーべらんめーなvolume up燃ーえたりねー枯れ枝夜唸る
waooooooooooooooooooooooooooo
:フォジランの指摘:
『論考』の論理体系は、無限個の個数の命題に「基本操作N」を2度適用することにより、存在量化を表現することができるが、全称量化は表せない。なぜならそのためには否定の操作Nを無限回適用しなければならないが、『論考』5.31は操作の無限回の適用を拒んでいるからである。しかしその修正は容易に行える。真の問題は多重量化についてである。
:野矢さんは存在量化を問題にする:
フォジランや飯田隆は無限個の個数の命題を一挙に操作することを当然のように受け入れているが、それはウィトゲンシュタイン自身の意図に反するものである。
:フォジランの多重量化についての指摘:
存在量化と全称量化が含まれる多重量化は、『論考』のやり方だと、どうしても操作の無限回の適用を必要としてしまう(全称量化の部分で)。これが、自身が設けている操作に関する制約と矛盾するため、『論考』は多重量化を扱えない。
:フォジランのあやまり:
フォジランは、存在量化と全称量化が含まれる多重量化の構成が可能なためには、(1)対象が有限である、か(2)操作が無限回適用されるかのどちらかが満たされなければならないとしている。その上で彼はまず(1)が4.463によって否定されていることを示し、次に(2)が5.31によって否定されるため、『論考』においては多重量化を扱うことができないと結論している。
しかし、野矢は(1)が4.463によって否定される、というフォジランの議論に疑問を抱いている。それは、4.463が論理空間の無限性を主張している命題ではない、と野矢が考えているからである。
:4.463について:
ここで、「無限に」という訳語をあてたくなる‘unendlich’という語は、(フォジランはそう解釈しているがしかし)論理空間の無限性を主張するために差し挟まれているのではない。
4.463は、「トートロジーは、「どのような大きさの論理空間であっても」、その全体に真理領域が及ぶ」ということを述べていると解釈されるべきである。そうだとすれば、この4.463に表現されていることは決して、論理空間が無限であるということと同一ではないのである。
このように、野矢は4.463が論理空間の無限性の主張と結びつくものではないと解釈している。ここでは野矢の解釈に従い、さらに『論考』において対象は単に無限ではないどころか、有限でなくてはならないと言わなければならないことを示そう。
:『論考』の対象がなぜ有限か:
有限の経験しか持たない人間が無限の対象に出会うには、操作による構成が必要となる。しかしこの操作によって構成されたものの間には、内的関係が生じてしまうのである。この内的関係が、『論考』の要請する要素命題の相互独立性と相容れないこと、それが『論考』が対象を有限に限っている理由である。
例えば、「0から初めて1を足す」といった操作によって構成される、自然数というものを考えてみよう。「aは2メートルだ」という命題と、「aは3メートルだ」という命題は両立不可能である。このように要素命題が両立不可能であることは、『論考』が要請している要素命題の相互独立性と矛盾する。こうした理由で『論考』は、無限へと通じる道である、数などの構成されるものを対象として認めていない。
このように、対象が有限にとどまるとすれば、要素命題も有限となる。よってフォジランや飯田が認めていたような、全称量化のための無限個の対象操作をする必要はなくなる(よってフォジランが提示した、存在量化と全称量化を含む多重量化を扱うことができる)。さらに、論理空間も有限になるため、可能な真理領域も有限の多様性しか持たない。それゆえ、すべての命題は真理操作を有限回適用すれば得られることになる。
こうして、『論考』内に不整合は生じていない。
:5.31が言いたかったこと:
以上のことから言えるのは、5.31は操作を有限回に制限しているのではないということである。そうではなく、そもそも対象が有限であり、論理空間も有限であるのだから、操作は有限回の適用のみで十分であるということを主張しているのである。
:相互独立性を取り除く:
さらに相互独立性の主張が取り除かれるとしたら、どうか。
要素命題の相互独立性を撤回するなら、操作による構成物を対象に含めることができる。
(この場合、操作の有限回の適用の主張は削除される。よって、フォジランが提示したような議論に乗っかったままですら、多重量化を処理することができる。)
(そのような対象は無限に構成できる。そのうえ論理空間は有限である。そうであるから、この操作によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。)
waooooooooooooooooooooooooooo
:フォジランの指摘:
『論考』の論理体系は、無限個の個数の命題に「基本操作N」を2度適用することにより、存在量化を表現することができるが、全称量化は表せない。なぜならそのためには否定の操作Nを無限回適用しなければならないが、『論考』5.31は操作の無限回の適用を拒んでいるからである。しかしその修正は容易に行える。真の問題は多重量化についてである。
:野矢さんは存在量化を問題にする:
フォジランや飯田隆は無限個の個数の命題を一挙に操作することを当然のように受け入れているが、それはウィトゲンシュタイン自身の意図に反するものである。
:フォジランの多重量化についての指摘:
存在量化と全称量化が含まれる多重量化は、『論考』のやり方だと、どうしても操作の無限回の適用を必要としてしまう(全称量化の部分で)。これが、自身が設けている操作に関する制約と矛盾するため、『論考』は多重量化を扱えない。
:フォジランのあやまり:
フォジランは、存在量化と全称量化が含まれる多重量化の構成が可能なためには、(1)対象が有限である、か(2)操作が無限回適用されるかのどちらかが満たされなければならないとしている。その上で彼はまず(1)が4.463によって否定されていることを示し、次に(2)が5.31によって否定されるため、『論考』においては多重量化を扱うことができないと結論している。
しかし、野矢は(1)が4.463によって否定される、というフォジランの議論に疑問を抱いている。それは、4.463が論理空間の無限性を主張している命題ではない、と野矢が考えているからである。
:4.463について:
ここで、「無限に」という訳語をあてたくなる‘unendlich’という語は、(フォジランはそう解釈しているがしかし)論理空間の無限性を主張するために差し挟まれているのではない。
4.463は、「トートロジーは、「どのような大きさの論理空間であっても」、その全体に真理領域が及ぶ」ということを述べていると解釈されるべきである。そうだとすれば、この4.463に表現されていることは決して、論理空間が無限であるということと同一ではないのである。
このように、野矢は4.463が論理空間の無限性の主張と結びつくものではないと解釈している。ここでは野矢の解釈に従い、さらに『論考』において対象は単に無限ではないどころか、有限でなくてはならないと言わなければならないことを示そう。
:『論考』の対象がなぜ有限か:
有限の経験しか持たない人間が無限の対象に出会うには、操作による構成が必要となる。しかしこの操作によって構成されたものの間には、内的関係が生じてしまうのである。この内的関係が、『論考』の要請する要素命題の相互独立性と相容れないこと、それが『論考』が対象を有限に限っている理由である。
例えば、「0から初めて1を足す」といった操作によって構成される、自然数というものを考えてみよう。「aは2メートルだ」という命題と、「aは3メートルだ」という命題は両立不可能である。このように要素命題が両立不可能であることは、『論考』が要請している要素命題の相互独立性と矛盾する。こうした理由で『論考』は、無限へと通じる道である、数などの構成されるものを対象として認めていない。
このように、対象が有限にとどまるとすれば、要素命題も有限となる。よってフォジランや飯田が認めていたような、全称量化のための無限個の対象操作をする必要はなくなる(よってフォジランが提示した、存在量化と全称量化を含む多重量化を扱うことができる)。さらに、論理空間も有限になるため、可能な真理領域も有限の多様性しか持たない。それゆえ、すべての命題は真理操作を有限回適用すれば得られることになる。
こうして、『論考』内に不整合は生じていない。
:5.31が言いたかったこと:
以上のことから言えるのは、5.31は操作を有限回に制限しているのではないということである。そうではなく、そもそも対象が有限であり、論理空間も有限であるのだから、操作は有限回の適用のみで十分であるということを主張しているのである。
:相互独立性を取り除く:
さらに相互独立性の主張が取り除かれるとしたら、どうか。
要素命題の相互独立性を撤回するなら、操作による構成物を対象に含めることができる。
(この場合、操作の有限回の適用の主張は削除される。よって、フォジランが提示したような議論に乗っかったままですら、多重量化を処理することができる。)
(そのような対象は無限に構成できる。そのうえ論理空間は有限である。そうであるから、この操作によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。)
summa2.02
:飯田隆の解説による、フォジランが指摘した『論考』の問題点:
それは、『論考』の論理が、じつは述語論理のごく基本的な領域(多重量化)をも覆い得ないという点である
それは以下のような議論
(x)(∃y)Fxy:全称量化と存在量化の両方を含む多重量化を『論考』の「基本操作」(任意個の命題を全部否定したもの)で構成しようとすれば、註の(14)で言ってる方法になる。
この方法は
対象が有限個であるという制約か、
そうでなければ
操作が無限であるという仮定を要求する。
しかしながら、
対象が有限であるという主張は、『論考』が主張する論理空間の無限性と相容れない。
では操作が無限なのだ、と結論できるかというと、それもできない。
なぜなら「すべての真理関数は要素命題に対して真理操作を有限回くり返し適用することによって得られる」
と『論考』が述べているからである。つまり、操作は有限回に限られているのである。
このように上に挙げたような種類の多重量化は『論考』では扱えない、から『論考』は述語論理をカバーできない、とするのがフォジランの議論のようです
自分がこのフォジランの話で??と思ったのは、「対象が有限性が論理空間の無限性と相容れない」という点です。なぜなら「対象」が有限でも、それの有限個の「名」と有限個の規則で無限個の文を生成できるから。しかしこう言い得るためには、操作が無限であることが保証されていないといけないはずだ。この点で『論考』は操作を有限個に制限している。よってこのままでは自分が疑問に思ったところは反論になり得ない気がする。
(しかし、5.31は操作が有限でなくてはならないという制約を述べたものではないということが、後に示される)
飯田隆は、フォジランに賛成している。野矢さんは賛成していない。
それは、『論考』の論理が、じつは述語論理のごく基本的な領域(多重量化)をも覆い得ないという点である
それは以下のような議論
(x)(∃y)Fxy:全称量化と存在量化の両方を含む多重量化を『論考』の「基本操作」(任意個の命題を全部否定したもの)で構成しようとすれば、註の(14)で言ってる方法になる。
この方法は
対象が有限個であるという制約か、
そうでなければ
操作が無限であるという仮定を要求する。
しかしながら、
対象が有限であるという主張は、『論考』が主張する論理空間の無限性と相容れない。
では操作が無限なのだ、と結論できるかというと、それもできない。
なぜなら「すべての真理関数は要素命題に対して真理操作を有限回くり返し適用することによって得られる」
と『論考』が述べているからである。つまり、操作は有限回に限られているのである。
このように上に挙げたような種類の多重量化は『論考』では扱えない、から『論考』は述語論理をカバーできない、とするのがフォジランの議論のようです
自分がこのフォジランの話で??と思ったのは、「対象が有限性が論理空間の無限性と相容れない」という点です。なぜなら「対象」が有限でも、それの有限個の「名」と有限個の規則で無限個の文を生成できるから。しかしこう言い得るためには、操作が無限であることが保証されていないといけないはずだ。この点で『論考』は操作を有限個に制限している。よってこのままでは自分が疑問に思ったところは反論になり得ない気がする。
(しかし、5.31は操作が有限でなくてはならないという制約を述べたものではないということが、後に示される)
飯田隆は、フォジランに賛成している。野矢さんは賛成していない。
dimanche, janvier 29, 2006
summa2.01
よく言語学で、認知言語学が出でくる背景として、論理学的意味論、真理条件的意味論が言語の意味の理解として十分でないという認識があったって、そんでそのもとはウィトゲンシュタインみたいな感じでいわれます。
ほんとにそんな単純な話かな…!
:真理条件から検証条件への転換:
命題の論理的分析:命題の真理条件を明示的に取り出すこと
真理条件:「像を実在と照合する」という『論考』の言葉を、「経験との照合」と読む論理実証主義者
フツーにそうかなとおもってたけど。彼らは経験主義者だからね。
:検証条件の帰結:
二値性の原則に影響。それを防ぐために、logical positivist:
要素命題以外の命題はすべて要素命題の真理関数として得ることができる
要素命題は決定可能である:感覚与件命題です
が導入される
ということは、要素命題以外の命題は、すべて感覚与件命題の真理関数として得られる。
ようするに、感覚与件命題だけあれば良い:感覚与件命題への還元主義
しかし『論考』の基準からすると、感覚与件命題は要素命題になり得ない
『論考』は、要素命題の相互独立性
感覚与件命題「これは赤い」は必然的に、「これは白い」を排除する。ということは、相互独立じゃねー。
だって相互独立だったら、片方の命題の真偽から、
もう片方の命題のいかなる真偽もみちびけない。
だってふたつは独立なんだから、両立可能ということ。
だから、「これは赤い」といったあとで、「これは白い」といえるはず。
でも実際はそうじゃない。
ということは、感覚与件命題は要素命題が満たすべき基準満たしていない。
ウィトゲンシュタインも後でこのことを認めた
1.3. :検証主義の内容:
:ヘンペルの議論のどこが大切か:
論理実証主義の「検証主義」への批判として今までなされてきたものは、「弱い」テーゼを考察すること。詳しくは「検証可能性」という概念をちゃんと定義できるかという議論。そんで、そもそもその検証可能性の基準が定式化できないんだから、これを命題の有意味性の基準にするなんて、根本から誤ってる、という流れの議論。その代表的なものが、ヘンペルの議論。
意味は「真理条件」なのか。「検証条件」なのか…という問いから、
:「文の意味=検証条件」という試みとしての、シュリック検討:
他の人たちは真理条件と検証条件を混同してるけど、シュリックは両者のギャップを埋めようとしている。
「直示的定義」「検証可能性」
:分子論的意味論というアイデア:
「単独の語—対象」という単純なつながり(アトミック)を想定するのでもなく、言語理解の単位を言語全体に求める(ホーリズム)のでもなく、言語理解の単位を文に求める。そんで、ひとつの文の理解は必ず他の多くの文の理解をともなっていなくてはならないという考え方。
分子論的意味論では、「語の意味は文の意味への寄与」。
経験主義的に言い直すと、「語の意味は文の検証条件への寄与」。
別に、語が有意味であるために、それが「単独で」何らかの経験と結びつけられている必要はない。
シュリックの議論は、単なる原子論的意味論と分子論的意味論の混同ではない、と考えうる。
シュリックは、直示的定義と、要素命題を関連づけている。
シュリックの議論は:(a)言語理解にとって、直示的定義に関する文の習得が基礎的である
(a)は、すべての文は直示的定義に用いられる文だけから構成された形の文に変形できるということ。
それは、「すべての文は直示的定義の文の真理関数だということ」この議論のもとは『論考』の要素命題。
『論考』5で、「命題は要素命題の真理関数である」といっている。
シュリックは、この要素命題と直示的定義を結びつけて考えた。
したがって「すべてのぶんは直示的定義の文の真理関数だ」という結論になる。
(b)そしてそういう特性を持つ文というものの意味は、「検証条件」である。
…え、なんで(a)みたい特性を持つ文の意味は「検証条件」になるの?
それはp. 102にかいてあるよ。
ほんとにそんな単純な話かな…!
:真理条件から検証条件への転換:
命題の論理的分析:命題の真理条件を明示的に取り出すこと
真理条件:「像を実在と照合する」という『論考』の言葉を、「経験との照合」と読む論理実証主義者
フツーにそうかなとおもってたけど。彼らは経験主義者だからね。
:検証条件の帰結:
二値性の原則に影響。それを防ぐために、logical positivist:
要素命題以外の命題はすべて要素命題の真理関数として得ることができる
要素命題は決定可能である:感覚与件命題です
が導入される
ということは、要素命題以外の命題は、すべて感覚与件命題の真理関数として得られる。
ようするに、感覚与件命題だけあれば良い:感覚与件命題への還元主義
しかし『論考』の基準からすると、感覚与件命題は要素命題になり得ない
『論考』は、要素命題の相互独立性
感覚与件命題「これは赤い」は必然的に、「これは白い」を排除する。ということは、相互独立じゃねー。
だって相互独立だったら、片方の命題の真偽から、
もう片方の命題のいかなる真偽もみちびけない。
だってふたつは独立なんだから、両立可能ということ。
だから、「これは赤い」といったあとで、「これは白い」といえるはず。
でも実際はそうじゃない。
ということは、感覚与件命題は要素命題が満たすべき基準満たしていない。
ウィトゲンシュタインも後でこのことを認めた
1.3. :検証主義の内容:
:ヘンペルの議論のどこが大切か:
論理実証主義の「検証主義」への批判として今までなされてきたものは、「弱い」テーゼを考察すること。詳しくは「検証可能性」という概念をちゃんと定義できるかという議論。そんで、そもそもその検証可能性の基準が定式化できないんだから、これを命題の有意味性の基準にするなんて、根本から誤ってる、という流れの議論。その代表的なものが、ヘンペルの議論。
意味は「真理条件」なのか。「検証条件」なのか…という問いから、
:「文の意味=検証条件」という試みとしての、シュリック検討:
他の人たちは真理条件と検証条件を混同してるけど、シュリックは両者のギャップを埋めようとしている。
「直示的定義」「検証可能性」
:分子論的意味論というアイデア:
「単独の語—対象」という単純なつながり(アトミック)を想定するのでもなく、言語理解の単位を言語全体に求める(ホーリズム)のでもなく、言語理解の単位を文に求める。そんで、ひとつの文の理解は必ず他の多くの文の理解をともなっていなくてはならないという考え方。
分子論的意味論では、「語の意味は文の意味への寄与」。
経験主義的に言い直すと、「語の意味は文の検証条件への寄与」。
別に、語が有意味であるために、それが「単独で」何らかの経験と結びつけられている必要はない。
シュリックの議論は、単なる原子論的意味論と分子論的意味論の混同ではない、と考えうる。
シュリックは、直示的定義と、要素命題を関連づけている。
シュリックの議論は:(a)言語理解にとって、直示的定義に関する文の習得が基礎的である
(a)は、すべての文は直示的定義に用いられる文だけから構成された形の文に変形できるということ。
それは、「すべての文は直示的定義の文の真理関数だということ」この議論のもとは『論考』の要素命題。
『論考』5で、「命題は要素命題の真理関数である」といっている。
シュリックは、この要素命題と直示的定義を結びつけて考えた。
したがって「すべてのぶんは直示的定義の文の真理関数だ」という結論になる。
(b)そしてそういう特性を持つ文というものの意味は、「検証条件」である。
…え、なんで(a)みたい特性を持つ文の意味は「検証条件」になるの?
それはp. 102にかいてあるよ。
summa2.
公理(第一原理)からの演繹により、ある分野に属するすべての知識を体系化するという方法。
チョムスキーもこれかと思います。
近代の哲学者の問題意識
我々の認識にとって疑い得ないという意味での、「確実性」の問題。
確実性と必然性の混同が起きた。以下の議論はよく用いられる
(a)あるものが必然的なら、それは確実である
(a')あるものが確実でないなら、それは必然的ではない:対偶
(b)あるものが確実なら、それは必然的である:(a)の逆。これすら受け入れる
(b')あるものが必然的でないなら、それは確実でない:ということはこれも受け入れる
しかし(b')はおかしいでしょう。だって、「我あり」ということが疑い得ないとしても、その我が存在しなかった、もしくはこの我が、「自分じゃなかった」ことはいくらでも考えられる:必然的ではないが、確実。になってる、という反例がそんざいする。
ヒュームが激しく批判した後に必然性がまだ残りうるとされたのは、数学と論理学。
しかし、近代において論理学は、論理的推論は認識を広げてくれるものとは考えられていなかった。
論理的推論は、既に知られていること、前件に含まれていることをくり返すだけなら、確実なのは、必然なのは確かにそうだね。
けど、なんか既に含まれてるものをくり返してるから必然だというのは、本来の「知識」とは呼べないんじゃない?ちゃんとした事実の中に、これは必然的だ!と呼べるものがないとな…。
「ア・プリオリな認識とは経験に全く依存しない、ア・ポステリオリは経験に依存する」という区別ではない
だって『純粋理性批判』第2版緒言で、「われわれの認識がすべて経験をもって始まるということについては疑いがない」っていってるし。認識自体は、全部経験いるっていってるからな。
「ア・プリオリな認識とはその正当化のためにいかなる経験も必要としない、ア・ポステリオリな認識は必要とする」ということです
カントが用いている区別
・必然的—偶然的
・確実—不確実
・ア・プリオリ—ア・ポステリオリ
・分析的—総合的
上の3つは同じものとして考えられている:カント
分析的・総合的というのは:われわれの認識を増大させるか、そうでないか。
数学の知識は「ア・プリオリかつ総合的」とカントはいう(ちなみに論理学の知識はア・プリオリだが分析的)
つまり
「その正当化が経験に依存しないにもかかわらず、われわれの認識を増大させる判断」
でもそんなことってあるのか…。
他には物理学と、形而上学がそーゆー学問の候補だけど、後者は否定
なんでそういえるのかを説明すること、それが『純粋理性批判』の主要な目的と言えるだろう
チョムスキーもこれかと思います。
近代の哲学者の問題意識
我々の認識にとって疑い得ないという意味での、「確実性」の問題。
確実性と必然性の混同が起きた。以下の議論はよく用いられる
(a)あるものが必然的なら、それは確実である
(a')あるものが確実でないなら、それは必然的ではない:対偶
(b)あるものが確実なら、それは必然的である:(a)の逆。これすら受け入れる
(b')あるものが必然的でないなら、それは確実でない:ということはこれも受け入れる
しかし(b')はおかしいでしょう。だって、「我あり」ということが疑い得ないとしても、その我が存在しなかった、もしくはこの我が、「自分じゃなかった」ことはいくらでも考えられる:必然的ではないが、確実。になってる、という反例がそんざいする。
ヒュームが激しく批判した後に必然性がまだ残りうるとされたのは、数学と論理学。
しかし、近代において論理学は、論理的推論は認識を広げてくれるものとは考えられていなかった。
論理的推論は、既に知られていること、前件に含まれていることをくり返すだけなら、確実なのは、必然なのは確かにそうだね。
けど、なんか既に含まれてるものをくり返してるから必然だというのは、本来の「知識」とは呼べないんじゃない?ちゃんとした事実の中に、これは必然的だ!と呼べるものがないとな…。
「ア・プリオリな認識とは経験に全く依存しない、ア・ポステリオリは経験に依存する」という区別ではない
だって『純粋理性批判』第2版緒言で、「われわれの認識がすべて経験をもって始まるということについては疑いがない」っていってるし。認識自体は、全部経験いるっていってるからな。
「ア・プリオリな認識とはその正当化のためにいかなる経験も必要としない、ア・ポステリオリな認識は必要とする」ということです
カントが用いている区別
・必然的—偶然的
・確実—不確実
・ア・プリオリ—ア・ポステリオリ
・分析的—総合的
上の3つは同じものとして考えられている:カント
分析的・総合的というのは:われわれの認識を増大させるか、そうでないか。
数学の知識は「ア・プリオリかつ総合的」とカントはいう(ちなみに論理学の知識はア・プリオリだが分析的)
つまり
「その正当化が経験に依存しないにもかかわらず、われわれの認識を増大させる判断」
でもそんなことってあるのか…。
他には物理学と、形而上学がそーゆー学問の候補だけど、後者は否定
なんでそういえるのかを説明すること、それが『純粋理性批判』の主要な目的と言えるだろう
mardi, janvier 24, 2006
sans titre
ウィトゲンシュタインの「そのように見る」は
「単にそのようにみなしている」と
「突然リアルなものとしてみえてくる」
との区別だよ
ちゃんとわかってなかった
きちんと整理してなかった
でも「そのように見る」ってことが
ぼくらにとってリアルだってことは
いつもわかってた
だってジャズをやっているから
くやしいぜ
「単にそのようにみなしている」と
「突然リアルなものとしてみえてくる」
との区別だよ
ちゃんとわかってなかった
きちんと整理してなかった
でも「そのように見る」ってことが
ぼくらにとってリアルだってことは
いつもわかってた
だってジャズをやっているから
くやしいぜ
lundi, janvier 23, 2006
sans titre
parameter:80年代研究進んだ。
リチャードケイン:ロマンス語の研究とか。パラメタ—は同一言語間にある方言間の差異も結局説明する…。
多総合的な言語(アメリカインディアン語)/孤立語(中国語)この二つはかなり違う語。かなり大きなところ(上位の?)のパラメータが異なる気がします。
これを決めてるパラメータがイタリア語とフランス語の違いを決めてるパラメータと同じであるとは思えない…。だってイタリア語とフランス語、方言ぐらいだもん違い。
前者のようなパラメータと後者のパラメータの違いとか、考える必要性でてくる。
そもそもパラメータとは何かという問い。また根本的な問いに戻る。
あるものを設定して、その存在を証明するために、様々な経験的研究行う
面白い成果が得られて一段落ついたとき、そのもの自体の位置づけが今度は問題になる
また根本的な問いに戻る。
しかし過去の遺産をふまえて。そしてrevised versionになったら、そこからまた経験的な研究していける。
それがくり返す限り、進歩する。
その繰り返しがストップしたら、方法論として行き詰まる…。
リチャードケイン:ロマンス語の研究とか。パラメタ—は同一言語間にある方言間の差異も結局説明する…。
多総合的な言語(アメリカインディアン語)/孤立語(中国語)この二つはかなり違う語。かなり大きなところ(上位の?)のパラメータが異なる気がします。
これを決めてるパラメータがイタリア語とフランス語の違いを決めてるパラメータと同じであるとは思えない…。だってイタリア語とフランス語、方言ぐらいだもん違い。
前者のようなパラメータと後者のパラメータの違いとか、考える必要性でてくる。
そもそもパラメータとは何かという問い。また根本的な問いに戻る。
あるものを設定して、その存在を証明するために、様々な経験的研究行う
面白い成果が得られて一段落ついたとき、そのもの自体の位置づけが今度は問題になる
また根本的な問いに戻る。
しかし過去の遺産をふまえて。そしてrevised versionになったら、そこからまた経験的な研究していける。
それがくり返す限り、進歩する。
その繰り返しがストップしたら、方法論として行き詰まる…。
jeudi, janvier 12, 2006
summa.03.2
知らなかったこと:指示対象を欠く確定記述に対するラッセルの態度は「on denoting」で初めて変化したわけではなく、「no denoting」をかく直前はフレーゲ的立場を取っていた。「on denoting」でその立場を批判した。
『数学の原理』:何でも存在者に対応
「命題の存在的含意」:フレーゲ的:空な確定記述はSinn(meaning)あるがBedeutung(denotation)ないという立場
新しく知ったこと:指示対象を持たない確定記述の他に、指示対象を持たない固有名の問題があること
表示句は意味論的単位ではない:これが「no denoting」でラッセルがたどり着いた答え
ということは、意味論的関係として残るものは、語とその指示対象だ:そこからの帰結
しかしこの結論では、フレーゲが「意義と意味について」を書いたときの問題へと逆戻りではないだろうか
そうではない
それはpp. 191-192に書いてある
一見すると「スコットは『ウェイバレー』の作者である」という文は「a=b」の形式に見えるが、「b」は表示句であるため、従って意味論的単位を形成するものではない。「b」単独で何かを指示することはない。「表示句「b」のmeaning」は存在しない。フレーゲと同じ枠組みに乗っかっていない。よってp. 191の議論も適応されない。
『数学の原理』:何でも存在者に対応
「命題の存在的含意」:フレーゲ的:空な確定記述はSinn(meaning)あるがBedeutung(denotation)ないという立場
新しく知ったこと:指示対象を持たない確定記述の他に、指示対象を持たない固有名の問題があること
表示句は意味論的単位ではない:これが「no denoting」でラッセルがたどり着いた答え
ということは、意味論的関係として残るものは、語とその指示対象だ:そこからの帰結
しかしこの結論では、フレーゲが「意義と意味について」を書いたときの問題へと逆戻りではないだろうか
そうではない
それはpp. 191-192に書いてある
一見すると「スコットは『ウェイバレー』の作者である」という文は「a=b」の形式に見えるが、「b」は表示句であるため、従って意味論的単位を形成するものではない。「b」単独で何かを指示することはない。「表示句「b」のmeaning」は存在しない。フレーゲと同じ枠組みに乗っかっていない。よってp. 191の議論も適応されない。
summa.03.1
フツーの「コトバ」と「モノ」の関係:心理的
表示の関係つまり「ガイネン」と「モノ」の関係:論理的
論理学の対象:論理的な普遍的などこかに存在する対象どうしの関係:これが論理的。
いままで意味論意味論といってきたその論の基礎、つまり「語がそれ以外の何かを代理している」という大事なことが、心理的といって排除されようとしている。錯乱。
the+single noun: definite descriptions
『数学の原理』のときにおけるラッセルの確定記述の問題:
ガイネンのみを構成要素としてもつ命題を表現してる文が、なんでモノであるソクラテスについてのものになるのか。実際そうなっちゃってるけど、じゃあそれはなんでなのか。
表示の関係つまり「ガイネン」と「モノ」の関係:論理的
論理学の対象:論理的な普遍的などこかに存在する対象どうしの関係:これが論理的。
いままで意味論意味論といってきたその論の基礎、つまり「語がそれ以外の何かを代理している」という大事なことが、心理的といって排除されようとしている。錯乱。
the+single noun: definite descriptions
『数学の原理』のときにおけるラッセルの確定記述の問題:
ガイネンのみを構成要素としてもつ命題を表現してる文が、なんでモノであるソクラテスについてのものになるのか。実際そうなっちゃってるけど、じゃあそれはなんでなのか。
summa.03
3.denotingの問題
・項は存在者と同義
thingとconceptにわけられる。
thingは固有名で指示される。
denoting phrase; a man はdenoting conceptをindicateしているがそれが含まれるSocrates is a manという命題は、そのconceptについての命題ではない。
denoting phrase(もちろん固有名ではない)はconceptを指示する、しかしそれが含まれる命題はそのconceptについての命題ではない。文が表現している命題は、実際のmanである。
ということは、固有名を用いない時は概念を指すといっといて、固有名ではないのに表示句のときは実在のものをさすんですか。このときだけなんで。
なんで…
表示句の問題:ガイネンしか指示しないはずの表現で、モノが指示できちゃってますけど…という問題。
“いやーdenoting phraseの時だけは別なんですわ”とラッセルはいってます。
・項は存在者と同義
thingとconceptにわけられる。
thingは固有名で指示される。
denoting phrase; a man はdenoting conceptをindicateしているがそれが含まれるSocrates is a manという命題は、そのconceptについての命題ではない。
denoting phrase(もちろん固有名ではない)はconceptを指示する、しかしそれが含まれる命題はそのconceptについての命題ではない。文が表現している命題は、実際のmanである。
ということは、固有名を用いない時は概念を指すといっといて、固有名ではないのに表示句のときは実在のものをさすんですか。このときだけなんで。
なんで…
表示句の問題:ガイネンしか指示しないはずの表現で、モノが指示できちゃってますけど…という問題。
“いやーdenoting phraseの時だけは別なんですわ”とラッセルはいってます。
mercredi, janvier 04, 2006
sans titre
宇都宮をすこしうろついてました
正月からレコード屋があいてました
その店はドープです
ほとんどハードコアパンクだけです
初期パンクすらあんまおいてない
店長もいいかんじに無愛想です
80年代に活動してたSiCというのや
イタリア語で歌っているtomorrowというのや
知らないの勧めてもらったりして
何枚か買いました
いわゆるジャパコアがすきです
ジャパコアってのは
僕がうまれたころ保育園だったころ
日本の黎明期 相当のアンダーグラウンド
やってたバンドがだいたいそう呼ばれてます
すこしずつ集めてます
それよりずっとわかいですけど
Exclaimってバンドがいて
ホントに
かっこいいです
周りにはそーゆーハードコアパンクきいてる友達は
いないので あんまそーゆー話はしないです
その店長とは二言三言 ぼそぼそと話をしました
それだけだったけど
ほんとに上がりました
ある特別な感情を共有してました
自分のゆるぎない核は ここにあって
そっから ぜんぶがでている と思います
正月からレコード屋があいてました
その店はドープです
ほとんどハードコアパンクだけです
初期パンクすらあんまおいてない
店長もいいかんじに無愛想です
80年代に活動してたSiCというのや
イタリア語で歌っているtomorrowというのや
知らないの勧めてもらったりして
何枚か買いました
いわゆるジャパコアがすきです
ジャパコアってのは
僕がうまれたころ保育園だったころ
日本の黎明期 相当のアンダーグラウンド
やってたバンドがだいたいそう呼ばれてます
すこしずつ集めてます
それよりずっとわかいですけど
Exclaimってバンドがいて
ホントに
かっこいいです
周りにはそーゆーハードコアパンクきいてる友達は
いないので あんまそーゆー話はしないです
その店長とは二言三言 ぼそぼそと話をしました
それだけだったけど
ほんとに上がりました
ある特別な感情を共有してました
自分のゆるぎない核は ここにあって
そっから ぜんぶがでている と思います
vendredi, décembre 23, 2005
summa.02.5
意義1言葉の理解の相関者
意義2真理条件
フレーゲに従いたかったらこの二つを結びつけるものが必要だ。
結びつけないようにしたいなーという気持ちがでてくるのは、
指示対象を持たない単称名の場合。
そーゆーときはさ、何か理解はしてるけど、真理条件はないんですわ、といいたくなる。だからそうした表現が出てくる文も、何か理解はできるけど、真理条件はないんですわみたいなね。でもフレーゲは文の理解は真理条件の把握です、と言ってる。フレーゲに従うなら真理条件がないのに文の理解はある、ということはできない。
指示対象がない単称名が含まれるときフレーゲは「その文は無意味」とのべる。
ラッセルは、「その文は偽」とのべる。すこしまえまでそーゆー理解。
意義2真理条件
フレーゲに従いたかったらこの二つを結びつけるものが必要だ。
結びつけないようにしたいなーという気持ちがでてくるのは、
指示対象を持たない単称名の場合。
そーゆーときはさ、何か理解はしてるけど、真理条件はないんですわ、といいたくなる。だからそうした表現が出てくる文も、何か理解はできるけど、真理条件はないんですわみたいなね。でもフレーゲは文の理解は真理条件の把握です、と言ってる。フレーゲに従うなら真理条件がないのに文の理解はある、ということはできない。
指示対象がない単称名が含まれるときフレーゲは「その文は無意味」とのべる。
ラッセルは、「その文は偽」とのべる。すこしまえまでそーゆー理解。
summa.02.4
文の真理値=イミに影響をあたえない語の意味的要素=陰影
(日本語の例のような批判を受けてもなお陰影は副次的なものとして残される。意義が副次的なのは、フレーゲのいってる以外の理由では、言語的コミュニケーションにとってもっとも基礎的なのはいわれたことが真であるか偽であるかだ。とすればそれに関係している意義が大切だ。これは認知意味論からは反対される)
個々の言語行為がどのような種類のもの(疑問・命令…)であるか。またどのような内容のものであるか。
前者を明らかにするのが、力に関する理論。後者は意義の理論が明らかにする。
異なる種類に言語行為を通じて共通であるような言語行為の内容を否定することは、すべての語に関してそれが用いられるごとにその意味が異なるという帰結を生む。(体系的意味論の不可能性のへと赴く)
この帰結はこれまでであったことのない文を自ら発したり理解できるという事実との間に緊張を生む。
かーーーーーーーーーーーーーなり重要だ!
(日本語の例のような批判を受けてもなお陰影は副次的なものとして残される。意義が副次的なのは、フレーゲのいってる以外の理由では、言語的コミュニケーションにとってもっとも基礎的なのはいわれたことが真であるか偽であるかだ。とすればそれに関係している意義が大切だ。これは認知意味論からは反対される)
個々の言語行為がどのような種類のもの(疑問・命令…)であるか。またどのような内容のものであるか。
前者を明らかにするのが、力に関する理論。後者は意義の理論が明らかにする。
異なる種類に言語行為を通じて共通であるような言語行為の内容を否定することは、すべての語に関してそれが用いられるごとにその意味が異なるという帰結を生む。(体系的意味論の不可能性のへと赴く)
この帰結はこれまでであったことのない文を自ら発したり理解できるという事実との間に緊張を生む。
かーーーーーーーーーーーーーなり重要だ!
summa.02.3
Über Sinn und Bedeutung(1892)
2.3.2
イミに関する合成原理:文のイミはそれを構成する部分表現のイミと文の構造によって決定される。
イミに関する文脈原理:語のイミはそれが現れる文のイミ(真理値)への寄与である。
「信じる」「望む」:propsitional attitudeの動詞が作る文脈:“内包的文脈”という。
言語の理論はその言語においてどのような推論が妥当であるかについての特徴づけを含んでいなくてはならない。推論の妥当性にとって決定的な役割を果たすような意味的要素を文が所有しているとするならば、その意味的要素として真理値を選択するのは、もっとも自然な選択であるといえる。
(S→B)意義はイミを決定する
意義はイミを前提する。イミは意義の先にある。フレーゲのイミ論は意義論を支配してる。
なんでかはよんでくれ何度でも。
固有名の意義:その指示対象が決まるための条件
2.3.2
イミに関する合成原理:文のイミはそれを構成する部分表現のイミと文の構造によって決定される。
イミに関する文脈原理:語のイミはそれが現れる文のイミ(真理値)への寄与である。
「信じる」「望む」:propsitional attitudeの動詞が作る文脈:“内包的文脈”という。
言語の理論はその言語においてどのような推論が妥当であるかについての特徴づけを含んでいなくてはならない。推論の妥当性にとって決定的な役割を果たすような意味的要素を文が所有しているとするならば、その意味的要素として真理値を選択するのは、もっとも自然な選択であるといえる。
(S→B)意義はイミを決定する
意義はイミを前提する。イミは意義の先にある。フレーゲのイミ論は意義論を支配してる。
なんでかはよんでくれ何度でも。
固有名の意義:その指示対象が決まるための条件
summa.02.2
語の意味の特徴づけは、「その語が現れる文全体の意味への寄与」という観点からなされれないといけない。
「固有名の意味とは何か」という問いの答えは、
「それが現れる文の意味に対してどのような寄与をなすのか」についての答えになってないといけない。
文全体の意味に対する語の意味の寄与を明らかにすることで、
語の意味以外の要素で、文の意味に寄与しているもの、
つまり構造を明らかにすることができる。
・文脈原理がいうように語はそれが現れる文に対して、意味的な寄与をする。文全体に対する意味的な寄与として個々の語が意味を持つ故に、我々は既知の語からのみ成り立つ文については、それが初めて出会うヤツでも意味理解できるのである。
(初めての文でも理解できるようになるような、その文の意味に対する語の意味の寄与というのは、もっと具体的にはどのようなものか……??論理形式とか、カテゴリーとかかな)
文脈原理は意味の一般的説明に関わる:語の意味は文の意味の寄与
合成原理は個々の文の意味に関わってる:文の意味はそれを構成している語の意味と構造(論理形式、へ?これってなにー?L・Wとはちがうんすか?)の把握によって決定される。
一見反対のこといってる。でも別に。違う次元についての話だからそもそも。
意味の一般的説明においては文が第一義的(文脈原理)。個々の文の理解においては語が第一義的(合成原理)。
「固有名の意味とは何か」という問いの答えは、
「それが現れる文の意味に対してどのような寄与をなすのか」についての答えになってないといけない。
文全体の意味に対する語の意味の寄与を明らかにすることで、
語の意味以外の要素で、文の意味に寄与しているもの、
つまり構造を明らかにすることができる。
・文脈原理がいうように語はそれが現れる文に対して、意味的な寄与をする。文全体に対する意味的な寄与として個々の語が意味を持つ故に、我々は既知の語からのみ成り立つ文については、それが初めて出会うヤツでも意味理解できるのである。
(初めての文でも理解できるようになるような、その文の意味に対する語の意味の寄与というのは、もっと具体的にはどのようなものか……??論理形式とか、カテゴリーとかかな)
文脈原理は意味の一般的説明に関わる:語の意味は文の意味の寄与
合成原理は個々の文の意味に関わってる:文の意味はそれを構成している語の意味と構造(論理形式、へ?これってなにー?L・Wとはちがうんすか?)の把握によって決定される。
一見反対のこといってる。でも別に。違う次元についての話だからそもそも。
意味の一般的説明においては文が第一義的(文脈原理)。個々の文の理解においては語が第一義的(合成原理)。
investigations#8
さらに、「見るの解剖」
#88、89ある「見る」の概念それは見なす(regard as)とにている。しかしそれより、「見る」に近いんだ。「として見る」よりこまかい。「として見えてて」さらに、うわ生きてる!みたいな。
「見なす」それがなんだか分かる限りにおいて、ずっと起こっている。「ああおばさんね…みたいな」
「そのように見る」突然本人そのもののように見える「ウサギが見てるよこれ!斜めうえのほうさ!」って叫んじゃうとき「そのように見てますね」
オバーサンの絵であることには何の疑いもない。
そのとき生きている!オバーさん本人がそこにいるように見えてくるとき、
そこが分かれ目です。
それって、ほんとにオバーさんに微笑みかけられた時の感覚の表現と同じなのか:
(同じになることもあるかな……)。こっちの場合に、何らかの体験をしている。「微笑みかけてる!」みたいな。
ちょい前までは、「見る」「見なす」「知る」の区別やってましたよね。
今度から、広くいえる「見る」(「知るとは区別されるもの」)のときに、
ある種の体験がともなうものを見ていく。
概念=本質とかじゃなくて、「普段使ってる言葉のルール」
「aはxでもありうる」という言語ゲーム(つまり「見なす」から「知る」へと…)をどのようにして覚える?
……L・Wの答えは、「ごっこ遊び」
#99先生は、対象が変化する、といったがしてないんじゃないすか〜これは?
でもいい。これは間違ってたとしてもそこから深い方にいけるやつだ。
単なるテンポの変化がある瞬間からそうでなくなる。
別物に聞こえてくる。アスペクトといえるかな。
同一性をつなぎ止めるのはテーマのメロディかとおもう。
#88、89ある「見る」の概念それは見なす(regard as)とにている。しかしそれより、「見る」に近いんだ。「として見る」よりこまかい。「として見えてて」さらに、うわ生きてる!みたいな。
「見なす」それがなんだか分かる限りにおいて、ずっと起こっている。「ああおばさんね…みたいな」
「そのように見る」突然本人そのもののように見える「ウサギが見てるよこれ!斜めうえのほうさ!」って叫んじゃうとき「そのように見てますね」
オバーサンの絵であることには何の疑いもない。
そのとき生きている!オバーさん本人がそこにいるように見えてくるとき、
そこが分かれ目です。
それって、ほんとにオバーさんに微笑みかけられた時の感覚の表現と同じなのか:
(同じになることもあるかな……)。こっちの場合に、何らかの体験をしている。「微笑みかけてる!」みたいな。
ちょい前までは、「見る」「見なす」「知る」の区別やってましたよね。
今度から、広くいえる「見る」(「知るとは区別されるもの」)のときに、
ある種の体験がともなうものを見ていく。
概念=本質とかじゃなくて、「普段使ってる言葉のルール」
「aはxでもありうる」という言語ゲーム(つまり「見なす」から「知る」へと…)をどのようにして覚える?
……L・Wの答えは、「ごっこ遊び」
#99先生は、対象が変化する、といったがしてないんじゃないすか〜これは?
でもいい。これは間違ってたとしてもそこから深い方にいけるやつだ。
単なるテンポの変化がある瞬間からそうでなくなる。
別物に聞こえてくる。アスペクトといえるかな。
同一性をつなぎ止めるのはテーマのメロディかとおもう。
investigations#81
#81ふるまいの微妙な陰影という概念。これはスポーツや楽器のこつだ。重大なのは、それが行動の違いを引き起こすからだ!
#82this is what i treat it as:この表現分かんなくてくやしがる。私はそれをこれこれのもの(実物)としてあつかう:見てる場合・そのものと接してる時と同じようにふるまいたくなるとき、「見てる」という。
たんにしってるというとき、そんな「入り込んでない」。態度が違うということ。
#83L・Wの大切なconclusion:見る・として見るの共通点:二つは同じではない。が、目の前にその実物があるような態度を取る。HE図のときはもちろん「見てる」ときとは違いますよ、でもねーウサギのアスペクトを見てる時はウサギを見てる時と「ちょっと」同じ態度をとりますよ。態度という観点から「見る」「知る」…を考えていきます。
どの程度か?を見ていこうとする態度がL・Wいつもやばすぎる。
#82this is what i treat it as:この表現分かんなくてくやしがる。私はそれをこれこれのもの(実物)としてあつかう:見てる場合・そのものと接してる時と同じようにふるまいたくなるとき、「見てる」という。
たんにしってるというとき、そんな「入り込んでない」。態度が違うということ。
#83L・Wの大切なconclusion:見る・として見るの共通点:二つは同じではない。が、目の前にその実物があるような態度を取る。HE図のときはもちろん「見てる」ときとは違いますよ、でもねーウサギのアスペクトを見てる時はウサギを見てる時と「ちょっと」同じ態度をとりますよ。態度という観点から「見る」「知る」…を考えていきます。
どの程度か?を見ていこうとする態度がL・Wいつもやばすぎる。
lundi, décembre 19, 2005
sans titre
poverty of stimulous の問題が有効でないとしたら、UGの設定自体が崩れる。母語としてるひと、外国語として学習してる人、たとえば日本語の活用の習得のスピードと直観がちがう。(おれに「たべる」にくらべて「すべる」が活用の面から見て例外的な動詞だといういしきがあった?)動詞の活用をすべて経験から覚えるの?ぜんぶの動詞の活用をここにおぼえるのではなく、類推という認知的な能力をもとに何らかの規則を理解するのではないか。UGなんて別に出さなくてもいい話である。“ただしもし類推しかしていないとしたら例外的な「すべる」の活用については、全員が一度まちがうはずである。アメリカの子供がgo→goedと言ってしまうことがあるように。そしてそのあと親とかにまちがってるよとなおされないと学べないはずである。”しかしそうとは考えられないだろう。“そうでなければ一度全員が「すべった」もしくは「すべらない」という、「たべる」には出てこない活用を耳にし、みにつけたと考えられる。”そうかもしれない。もしくは、基本語彙として、UGを発動させる初期データの中に活用を含めて入っているとも考えられるだろう。
まとめ
1.UGが全然関係してないといえる領域
2.そんでデータが等質ではない。
3.なのにみんなの直観がいっちする
この3つがそろうとUGを設定することを無意味にする。体系を一気に崩壊させる。
たとえば、日本語の活用。UGに入ってるわけがない。身に付けたとしか考えられない。
“いやUGに言及することなくこの現象を説明できる。UGとは別の問題に還元することができる。
言語習得の能力とは別に、類推という認知的な、動物も持ってるけど人間においてとくに強力に発達した能力によって、活用を身に付けたとも考えられる。(そのばあい、「射る」という動詞などで母語話者の直観が一致しないことが説明できる。じぶんはまちがえてた)。そうです、アナロジーとか帰納(induction)という人間が持っている高度な能力です。
じゃあ、UGとかどうのとかいろいろいってるけど、ぜんぶこのさ認知というさ、高度な一般的な学習機構・学習機能の能力で身につけてんじゃないの。言語の習得だけUGとかいって独立に設定してますけど、言語にかかわらない強力な人間の認知システムで説明できんじゃん。なんで言語だけ特別視するのか(つーかそーゆー認知みたいの語の理解に不可欠とか、脳のモジュール性が否定されているとか…)。”
……
サルはUG持ってないからヒトみたい言語はなせないと説明するのか・サルもヒトも認知能力もってるけどサルとヒトと程度が違いすぎてサルははなせないと説明するのか。
……
UGみたいのが進化の過程で突然変異としてemergeしたと考えるのか
認知能力があるときに飛躍的に進歩した結果でそれは連続してると考えるのか
……
しばらくむかし友人にぜんぶそれ脳がもってる期待値をだす能力みたいなもんでといわれてそれがかなり強力で頭からはなれなかったのですがやっとその反論のないようがりかいできたようなきがする。だからとても今日はよかった。そのさきにはこれからいく
まとめ
1.UGが全然関係してないといえる領域
2.そんでデータが等質ではない。
3.なのにみんなの直観がいっちする
この3つがそろうとUGを設定することを無意味にする。体系を一気に崩壊させる。
たとえば、日本語の活用。UGに入ってるわけがない。身に付けたとしか考えられない。
“いやUGに言及することなくこの現象を説明できる。UGとは別の問題に還元することができる。
言語習得の能力とは別に、類推という認知的な、動物も持ってるけど人間においてとくに強力に発達した能力によって、活用を身に付けたとも考えられる。(そのばあい、「射る」という動詞などで母語話者の直観が一致しないことが説明できる。じぶんはまちがえてた)。そうです、アナロジーとか帰納(induction)という人間が持っている高度な能力です。
じゃあ、UGとかどうのとかいろいろいってるけど、ぜんぶこのさ認知というさ、高度な一般的な学習機構・学習機能の能力で身につけてんじゃないの。言語の習得だけUGとかいって独立に設定してますけど、言語にかかわらない強力な人間の認知システムで説明できんじゃん。なんで言語だけ特別視するのか(つーかそーゆー認知みたいの語の理解に不可欠とか、脳のモジュール性が否定されているとか…)。”
……
サルはUG持ってないからヒトみたい言語はなせないと説明するのか・サルもヒトも認知能力もってるけどサルとヒトと程度が違いすぎてサルははなせないと説明するのか。
……
UGみたいのが進化の過程で突然変異としてemergeしたと考えるのか
認知能力があるときに飛躍的に進歩した結果でそれは連続してると考えるのか
……
しばらくむかし友人にぜんぶそれ脳がもってる期待値をだす能力みたいなもんでといわれてそれがかなり強力で頭からはなれなかったのですがやっとその反論のないようがりかいできたようなきがする。だからとても今日はよかった。そのさきにはこれからいく
samedi, décembre 10, 2005
summa.02
specify:どのようなものか述べる:特徴づける:定義する…。
単称名の特徴づけを「それがどのような存在者を指すかについての考察」から引き出そうとするのは間違ってる。
「単称名とは対象をさす表現である」という感じで特徴づけたとします。
これでオケーにもしなるとしたら、対象ていう概念ももう規定されてるはずですよね。
”そうすると、数詞が単称名であるかどうかは、数詞のさす存在者、すなわち数が対象であるかどうかが、この前もって与えられている対象の判定に照らして判定されることになる”
もう対象が何かってことはさきにあたえられてんだ。そんでそれにてらして、「あ、この数詞のさす存在者(数)は対象をさしてるから、この数詞は単称名だ」とのべるってこと。
これは、数詞が単称名であることから出発して、数が対象であると結論するフレーゲの議論とは逆。
”対象がさすものが単称名であるのではなく、単称名のさすのが対象であるという主張は存在論的カテゴリーに対する文法的カテゴリーの第一義性というテーゼに裏付けられている。
フレーゲも、数詞が文法的には単称名として振舞うことから、数が対象であるという結論を引き出せると考えたに違いない”
もし、自然言語の理論を、述語論理をモデルにして構築しようとしたら、その述語論理の根幹にあってそこからすべてが派生してくる「単称名とは何か」という問題は、非常に重要であらざるをえない。
単称名の特徴づけを「それがどのような存在者を指すかについての考察」から引き出そうとするのは間違ってる。
「単称名とは対象をさす表現である」という感じで特徴づけたとします。
これでオケーにもしなるとしたら、対象ていう概念ももう規定されてるはずですよね。
”そうすると、数詞が単称名であるかどうかは、数詞のさす存在者、すなわち数が対象であるかどうかが、この前もって与えられている対象の判定に照らして判定されることになる”
もう対象が何かってことはさきにあたえられてんだ。そんでそれにてらして、「あ、この数詞のさす存在者(数)は対象をさしてるから、この数詞は単称名だ」とのべるってこと。
これは、数詞が単称名であることから出発して、数が対象であると結論するフレーゲの議論とは逆。
”対象がさすものが単称名であるのではなく、単称名のさすのが対象であるという主張は存在論的カテゴリーに対する文法的カテゴリーの第一義性というテーゼに裏付けられている。
フレーゲも、数詞が文法的には単称名として振舞うことから、数が対象であるという結論を引き出せると考えたに違いない”
もし、自然言語の理論を、述語論理をモデルにして構築しようとしたら、その述語論理の根幹にあってそこからすべてが派生してくる「単称名とは何か」という問題は、非常に重要であらざるをえない。
summa.01
文法的カテゴリーの分類のしかた:その語と入れ替えてもその文が依然として文法的に適正なら、同じカテゴリーだ。
「文法性を保存する相互置換可能性」
文と単称名(飽和した表現、基礎的カテゴリー)を特定すれば、あとは派生的に導かれる。その導き方は、その基礎的なヤツの一部をさらにargumentと見なすこと。
argumentのカテゴリーがNであり、argumentにふさわしい表現を代入した結果得られる表現のカテゴリーがSであるとき、(S/N)と表現できます。
「文法性を保存する相互置換可能性」
文と単称名(飽和した表現、基礎的カテゴリー)を特定すれば、あとは派生的に導かれる。その導き方は、その基礎的なヤツの一部をさらにargumentと見なすこと。
argumentのカテゴリーがNであり、argumentにふさわしい表現を代入した結果得られる表現のカテゴリーがSであるとき、(S/N)と表現できます。
tractatus.16
transzendental
論理が超越論的:
単に、経験によって把握し得ないという意味ではない。この世界に対して超越的でありつつも、なおこの世界がこのようであるために要請されるもの、それが「超越論的」と呼ばれるものである。実際、論理は、それ自身を語ることはできないが、世界を語るために、世界が語られたようであるために、不可欠であるのです。
倫理が超越論的
永遠の相のもとにとらえる
対象を、論理空間とともに捉える。それは、論理空間の礎石として捉える。論理空間の構造を見て取る、その時対象は不動の実体となる。変化するのは諸対象の配列であり、対象そのものは変化しない。
また、対象は消滅することもない。死んだ。でも思考可能である限りウィトゲンシュタインという対象は存在している。対象は変化せず、生成消滅もしない。これが、対象が実体であるということの意味である。
論理空間とともに、対象を論理空間を構成する不変の礎石として見る:これが永遠の相のもとにとらえるということである。ただし、この永遠の相のもとで捉えるのは、論理的な分析によって、論理空間を明らかにすることによってなされる。つまり、啓示とかではないのさ
死が人生の出来事でない理由
論理空間を張るための超越論的条件として、私の生が必要だ。ということ。
私が死んだら、論理空間は消滅し、私はいっさいの思考の足場を失う。
私が私の死を考えるということは、この論理空間の消滅を考えるということ。
しかし、論理空間の消滅なんて考えることはできない。
とすれば、私の死は考えられないのではないか。
つまり、論理空間に私の死は含まれないのではないか。
でもさ、私は、他人の死と同じように、自分の死について考えることができます。
論理空間に含まれる最大の虚構であるという。
論理が超越論的:
単に、経験によって把握し得ないという意味ではない。この世界に対して超越的でありつつも、なおこの世界がこのようであるために要請されるもの、それが「超越論的」と呼ばれるものである。実際、論理は、それ自身を語ることはできないが、世界を語るために、世界が語られたようであるために、不可欠であるのです。
倫理が超越論的
永遠の相のもとにとらえる
対象を、論理空間とともに捉える。それは、論理空間の礎石として捉える。論理空間の構造を見て取る、その時対象は不動の実体となる。変化するのは諸対象の配列であり、対象そのものは変化しない。
また、対象は消滅することもない。死んだ。でも思考可能である限りウィトゲンシュタインという対象は存在している。対象は変化せず、生成消滅もしない。これが、対象が実体であるということの意味である。
論理空間とともに、対象を論理空間を構成する不変の礎石として見る:これが永遠の相のもとにとらえるということである。ただし、この永遠の相のもとで捉えるのは、論理的な分析によって、論理空間を明らかにすることによってなされる。つまり、啓示とかではないのさ
死が人生の出来事でない理由
論理空間を張るための超越論的条件として、私の生が必要だ。ということ。
私が死んだら、論理空間は消滅し、私はいっさいの思考の足場を失う。
私が私の死を考えるということは、この論理空間の消滅を考えるということ。
しかし、論理空間の消滅なんて考えることはできない。
とすれば、私の死は考えられないのではないか。
つまり、論理空間に私の死は含まれないのではないか。
でもさ、私は、他人の死と同じように、自分の死について考えることができます。
論理空間に含まれる最大の虚構であるという。
tractatus.15
例えば、¬P∧Pがトートロジーであること、それは、Pに対してこのように真理操作を施せば真理領域が論理空間全体に及ぶということ。この事実が、ここに含まれる論理語「でない」「かつ」の真理操作としてのあり方を示している。
このように、論理語をある仕方で組み合わせると、真理領域が論理空間全体に及ぶ命題ができる、この記号構成上の事実がそこで用いられている真理操作(論理語)の内実を明確にするのである。
『論考』が考える論理学の役割:論理語の真理操作としてのあり方を明確にする学問。そして論理語の内実は、上記のように、ある命題がトートロジーであることによって、明確に示される。だから論理学はトートロジーに関わろうとする。
論理学がトートロジーに関わるのは、それが必然的真理として、偶然的真理とは異なる真理の領域を明らかにするからではない。
このように、論理語をある仕方で組み合わせると、真理領域が論理空間全体に及ぶ命題ができる、この記号構成上の事実がそこで用いられている真理操作(論理語)の内実を明確にするのである。
『論考』が考える論理学の役割:論理語の真理操作としてのあり方を明確にする学問。そして論理語の内実は、上記のように、ある命題がトートロジーであることによって、明確に示される。だから論理学はトートロジーに関わろうとする。
論理学がトートロジーに関わるのは、それが必然的真理として、偶然的真理とは異なる真理の領域を明らかにするからではない。
tractatus.14
入力が何であれ、真を出力する、という考え方自体、『論考』とはちがう。だって、『論考』は論理語を真理関数とはしてないから、別に、真を出力したりしない。
素朴な規約主義が証明の必然性を説明できない理由を繰り返し確認する
素朴な規約主義が証明の必然性を説明できない理由を繰り返し確認する
tractatus.13
・frege and Russell:
Number is an attribute of a set. For example, when we say "there's 10 apples", the number 10 is an attribute of the set 'apple'.
Or, number is a set composed of sets members is same number. For instance, 10 is an enormous set composed of sets. and all these sets' members are 10 each.
・wittgenstein:
Number is the number of algorithm(???). Number is the number(frequency) of operation. Hense, it is not a name any more than the logic operator is. (it is no more a name than the logic operator is)
Therefore, '1+1=2' is not a tautology as logical empiricists say. The reason is that number is not a name. Thus, '1+1=2' is not a proposition.
Number is an attribute of a set. For example, when we say "there's 10 apples", the number 10 is an attribute of the set 'apple'.
Or, number is a set composed of sets members is same number. For instance, 10 is an enormous set composed of sets. and all these sets' members are 10 each.
・wittgenstein:
Number is the number of algorithm(???). Number is the number(frequency) of operation. Hense, it is not a name any more than the logic operator is. (it is no more a name than the logic operator is)
Therefore, '1+1=2' is not a tautology as logical empiricists say. The reason is that number is not a name. Thus, '1+1=2' is not a proposition.
lundi, décembre 05, 2005
sans titre
生成文法で、syntacticなparameterだけじゃなくて
lexiconに関係することも、考察の対象になっている、
つまり、81年にbreakthroughがあったugの下位理論には
含まれてないことも研究されていることを知った。
言語の間で単語の意味が微妙に違うことを、
どう説明するかということが(おそらく)考察されている事を知った。
とても興味がある。
lexiconに関係することも、考察の対象になっている、
つまり、81年にbreakthroughがあったugの下位理論には
含まれてないことも研究されていることを知った。
言語の間で単語の意味が微妙に違うことを、
どう説明するかということが(おそらく)考察されている事を知った。
とても興味がある。
mercredi, novembre 30, 2005
sans titre
samedi, novembre 19, 2005
tractatus.14
「私の言語の限界が、世界の限界を意味する」
私の言語の限界はいかにして確定されるか、それは私がいかなる要素命題をもっているか、いかなる対象にであっているか、いかなる存在論的経験をしてるかによっています。その言語の限界は、確かに、論理空間の限界と一致してます。よって、「私の言語の限界が、世界の限界を意味します」
「世界は私の世界である」とはなんでいえるか
私は他の存在論について、語ることも示すこともできない。自分の論理空間の外にあるから。
私の存在論は語ることでできず、しめすのみ。語るための前提だから。
という考え方
「世界は私の世界である」:「世界の限界を定める対象領域」と「私の世界の限界を定める対象領域」がおなじであるという考え方の表明ですこれは。ただし「世界は私の認識した範囲だけに限られる」というのではありません。もちろん私が確認してない事態というのはあります。でも私は、世界の全部の対象について語りうる、出会える原理的に。ということは、世界にある対象の全部と、私の世界にある対象の全部は、最終的に一致する。かな?でももし、世界のそとにあるもの、語り得ないものも世界・対象として認めたら、ウィトゲンシュタインみたいな独我論はとれないよ。
他の存在が他の存在論を開いているかもしんないと、いう「かもしれない」というのは、どれほど強い実感であっても、根拠のない実感でしかあり得ない。きっとあるだろうと思う、それはしかしまともな思考ではあり得ない。こうウィトゲンシュタインは考えた。そこから、自分は??
(「ウィトゲンシュタインが「私の言語」と述べる理由は、名と対象の意味論的関係が私の志向性に基づくからというのではない。私はそう結論したい」:飯田隆みたいな結論を受け入れないとしたら、これを受け入れることになるか。そうしたら、
…志向性というのが像関係を成立させているというのは転倒で、その逆である、という考え方に組することになるのか。)
done!よろしい!
私の言語の限界はいかにして確定されるか、それは私がいかなる要素命題をもっているか、いかなる対象にであっているか、いかなる存在論的経験をしてるかによっています。その言語の限界は、確かに、論理空間の限界と一致してます。よって、「私の言語の限界が、世界の限界を意味します」
「世界は私の世界である」とはなんでいえるか
私は他の存在論について、語ることも示すこともできない。自分の論理空間の外にあるから。
私の存在論は語ることでできず、しめすのみ。語るための前提だから。
という考え方
「世界は私の世界である」:「世界の限界を定める対象領域」と「私の世界の限界を定める対象領域」がおなじであるという考え方の表明ですこれは。ただし「世界は私の認識した範囲だけに限られる」というのではありません。もちろん私が確認してない事態というのはあります。でも私は、世界の全部の対象について語りうる、出会える原理的に。ということは、世界にある対象の全部と、私の世界にある対象の全部は、最終的に一致する。かな?でももし、世界のそとにあるもの、語り得ないものも世界・対象として認めたら、ウィトゲンシュタインみたいな独我論はとれないよ。
他の存在が他の存在論を開いているかもしんないと、いう「かもしれない」というのは、どれほど強い実感であっても、根拠のない実感でしかあり得ない。きっとあるだろうと思う、それはしかしまともな思考ではあり得ない。こうウィトゲンシュタインは考えた。そこから、自分は??
(「ウィトゲンシュタインが「私の言語」と述べる理由は、名と対象の意味論的関係が私の志向性に基づくからというのではない。私はそう結論したい」:飯田隆みたいな結論を受け入れないとしたら、これを受け入れることになるか。そうしたら、
…志向性というのが像関係を成立させているというのは転倒で、その逆である、という考え方に組することになるのか。)
done!よろしい!
tractatus.13
要素命題の相互独立性、これをL・Wはドグマ的に信じている。そこから、『論考』の対象が有限であることも説明できる。つまり、自然数のように無限個のものを捉えたかったら、操作によって構成するのでなければならない(フレーゲ的な関数観とは異なるため)。しかし、操作によって構成したものどうしの間には、内的関係が生じてしまうのである。(例えば、「aは3メートル」という命題は「aは4メートル」と両立不可能、という関係が生じる。「aは3メートル」といったら論理語の働きによらず、「aは4メートルではない」ということを含意)。これは相互独立性に抵触する。だから、構成したもの・無限のもの(具体的には自然数)を『論考』は対象として認めていません。こうして『論考』においては、対象には、存在論的な経験で出会うしかありません。
しかし、相互独立性、それが間違ってるとしたら、対象が有限である必要はなくなる。対象を無限に構成していける。
5.32 すべての真理関数は、要素命題に対し操作を有限回くりかえし適用することによって得られる。
これは真理操作が無限界適用されてはならないという趣旨の発言ではなく、実際問題として、有限回の真理操作ですべての真理関数(命題)は得られる、つまり論理空間は有限だということを表明しているのである。けどねー要素命題の相互独立性を撤回するなら、対象は無限に構成できて、しかも論理空間は有限。しかし操作の「以下同様」によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。
こうして、不具合は生じない。
しかし、相互独立性、それが間違ってるとしたら、対象が有限である必要はなくなる。対象を無限に構成していける。
5.32 すべての真理関数は、要素命題に対し操作を有限回くりかえし適用することによって得られる。
これは真理操作が無限界適用されてはならないという趣旨の発言ではなく、実際問題として、有限回の真理操作ですべての真理関数(命題)は得られる、つまり論理空間は有限だということを表明しているのである。けどねー要素命題の相互独立性を撤回するなら、対象は無限に構成できて、しかも論理空間は有限。しかし操作の「以下同様」によって無限を捉えることが可能だとすれば、論理空間を内側から確定できる。
こうして、不具合は生じない。
tractatus.12
『論考』の体系:論理語に全称量化子、存在量化子がはいってない。命題論理にとどまる。述語論理はカバーしてない。
対象が有限であるときは、述語論理が必要とする表現力は論考の範囲でまかなえる。
では対象が無限のとき、「すべてが点灯している」をどう表すか。「aかつbかつcかつ…」と無限のかつであらわせばいいのか。
それはダメって論考に書いてある。
「真理操作の無限回の適用を拒むほど厳格に構成主義的立場を取ろうとするものが、無限個の基底を一気に操作するようなことを許すだろうか」
操作をうける命題も有限個じゃないと。
ということは、論考の対象は有限なのかい。(無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れる、ということは対象が有限だから論理空間も有限だという説明では不十分だということになります)
『論考』的には、対象が何個あるのかということは、個人の体験に依存する。(不十分)
上限はない:原理的には無限の対象にであうことができる
無限ではない:実際無限の対象に出会うような経験はない
というのが、仮に『論考』の考え方だとします。でもよー無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れるのです。ということは対象が有限だからといって論理空間も有限だといえなくなります。『論考』の説明は不十分だということになります。
とおもってたら、、、だよマジで。
対象が有限であるときは、述語論理が必要とする表現力は論考の範囲でまかなえる。
では対象が無限のとき、「すべてが点灯している」をどう表すか。「aかつbかつcかつ…」と無限のかつであらわせばいいのか。
それはダメって論考に書いてある。
「真理操作の無限回の適用を拒むほど厳格に構成主義的立場を取ろうとするものが、無限個の基底を一気に操作するようなことを許すだろうか」
操作をうける命題も有限個じゃないと。
ということは、論考の対象は有限なのかい。(無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れる、ということは対象が有限だから論理空間も有限だという説明では不十分だということになります)
『論考』的には、対象が何個あるのかということは、個人の体験に依存する。(不十分)
上限はない:原理的には無限の対象にであうことができる
無限ではない:実際無限の対象に出会うような経験はない
というのが、仮に『論考』の考え方だとします。でもよー無限に文が作れることはどうなる?これは有限の規則で無限に作れるのです。ということは対象が有限だからといって論理空間も有限だといえなくなります。『論考』の説明は不十分だということになります。
とおもってたら、、、だよマジで。
tractatus.11
関数f(x)=x+1に自然数を構成する力のないこと:lwのいい分
0を代入して、1を得る、そしてまた代入し、2を…そして自然数。というわけにはいかない。なぜならL・Wによれば関数はドメインとコミになってはじめて意味を確定する。それゆえ、定義域が最初0なら、それを代入したf(x)=x+1にこんどは1を代入する、ということはできない。1がだいにゅうできるためには、最初から定義域に1が含まれてないといけない。ソーユー感じで、f(x)=x+1で自然数を出したいのなら、最初から定義域に自然数が含まれてないといけない。それゆえf(x)=x+1では、自然数を構成できない。
フレーゲ
P∧Qの、P、Qは変項。ここにT/Fが代入される。出力は、P∧Qの真偽:構成要素の真偽から、命題の真偽への関数:それを真理関数とよぶ。
L・W
P∧Qの、P、Qは変項ではない。命題。P∧Qはただの命題。∧はP、そしてQが真となるような具体的状況(真理領域)の共通部分を取り出すという「操作」である:だから別に、関数ではない。かれも真理関数っていってるけど、それはいささかも関数ではない。
L・Wに従ったとして、論理がア・プリオリ、とL・Wみたいにいえるとする。すると、論理語は、真理関数ではありえない。だってもし論理語が関数だとすると、関数は定義域にいぞんしてますから、その定義域は、いかなる対象があるかということに依存します。いかなる対象があるか、ということは、ア・プリオリに定まらないです。ということは、論理語が関数だと考えるのは、おかしい。
しかし、操作だったらいつも同じ。どんなモンがきても、操作はいつも一定のもの。∧(共通部分)∨(合併)…。
つまり、論理のア・プリオリ性とは、操作のア・プリオリ性のことである。
論理空間のア・プリオリ性:
いかなる対象(名)が存在するか、いかなる要素命題(事態)があるか(これが決まれば論理空間は決定する)
このことは、ある命題の真偽(経験によって確かめること)に先立つ。(認識論的経験に先立つ)
しかし論理空間自体はいかなる要素命題があんのかに依存している。したがって、強いアプリオリではない。
論理空間の可能性について。それが「理解可能性」だということ。だって、論理空間がW1〜W4みたいなもんだとすれば、まず、W4の真理性が存在論的に要請される。そうじゃねーと、対象aや対象bに出会えなかったり、するときがありますもん。まず、成り立ってるところから(事実から)いかないと、そっからじゃないと可能性も何もないっす。いま論理空間がこうだということは、これこれがなりたっている、そして、そうじゃないこともありえた…これじゃまちがってるな???なんども戻ってくること。p. 162
0を代入して、1を得る、そしてまた代入し、2を…そして自然数。というわけにはいかない。なぜならL・Wによれば関数はドメインとコミになってはじめて意味を確定する。それゆえ、定義域が最初0なら、それを代入したf(x)=x+1にこんどは1を代入する、ということはできない。1がだいにゅうできるためには、最初から定義域に1が含まれてないといけない。ソーユー感じで、f(x)=x+1で自然数を出したいのなら、最初から定義域に自然数が含まれてないといけない。それゆえf(x)=x+1では、自然数を構成できない。
フレーゲ
P∧Qの、P、Qは変項。ここにT/Fが代入される。出力は、P∧Qの真偽:構成要素の真偽から、命題の真偽への関数:それを真理関数とよぶ。
L・W
P∧Qの、P、Qは変項ではない。命題。P∧Qはただの命題。∧はP、そしてQが真となるような具体的状況(真理領域)の共通部分を取り出すという「操作」である:だから別に、関数ではない。かれも真理関数っていってるけど、それはいささかも関数ではない。
L・Wに従ったとして、論理がア・プリオリ、とL・Wみたいにいえるとする。すると、論理語は、真理関数ではありえない。だってもし論理語が関数だとすると、関数は定義域にいぞんしてますから、その定義域は、いかなる対象があるかということに依存します。いかなる対象があるか、ということは、ア・プリオリに定まらないです。ということは、論理語が関数だと考えるのは、おかしい。
しかし、操作だったらいつも同じ。どんなモンがきても、操作はいつも一定のもの。∧(共通部分)∨(合併)…。
つまり、論理のア・プリオリ性とは、操作のア・プリオリ性のことである。
論理空間のア・プリオリ性:
いかなる対象(名)が存在するか、いかなる要素命題(事態)があるか(これが決まれば論理空間は決定する)
このことは、ある命題の真偽(経験によって確かめること)に先立つ。(認識論的経験に先立つ)
しかし論理空間自体はいかなる要素命題があんのかに依存している。したがって、強いアプリオリではない。
論理空間の可能性について。それが「理解可能性」だということ。だって、論理空間がW1〜W4みたいなもんだとすれば、まず、W4の真理性が存在論的に要請される。そうじゃねーと、対象aや対象bに出会えなかったり、するときがありますもん。まず、成り立ってるところから(事実から)いかないと、そっからじゃないと可能性も何もないっす。いま論理空間がこうだということは、これこれがなりたっている、そして、そうじゃないこともありえた…これじゃまちがってるな???なんども戻ってくること。p. 162
dimanche, novembre 13, 2005
le 9 octobre
sunday 9 October
ある待合室で
物理を専門にしたという職員にはなしかけられる
おそらく明らかに大学生風でない風体・態度と
哲学という言葉が気にかかったのだろう、
哲学などやってくっていけるのかね?
と突然尋ねる
食っていけるということでアナタが意味していることはどようようなことですかもし生活していくというような意味ならバイトでも何でもして食っていけばいいだけの話ではないですかそこに何の問題があると言いたいのですか本当にしかるべき状況になれば段ボールでもブルーシートでも集めて暮らしていきますその程度の覚悟もなくて哲学などできるはずもない確かにポストもなくて大変ですよねでも頑張っていくつもりですみたいなことお前に言うつもりはまったくねえ
しかし、哲学なんて、何なんだね?
そんなこと、おそらく何度も自問した
つまり、彼は明らかにかつて自分のなかに存在していた
自分のなかに存在したダークサイドです
恐れ、怒りはダークサイドへと導く、ジェダイは恐れない
学ぶことを。
ある待合室で
物理を専門にしたという職員にはなしかけられる
おそらく明らかに大学生風でない風体・態度と
哲学という言葉が気にかかったのだろう、
哲学などやってくっていけるのかね?
と突然尋ねる
食っていけるということでアナタが意味していることはどようようなことですかもし生活していくというような意味ならバイトでも何でもして食っていけばいいだけの話ではないですかそこに何の問題があると言いたいのですか本当にしかるべき状況になれば段ボールでもブルーシートでも集めて暮らしていきますその程度の覚悟もなくて哲学などできるはずもない確かにポストもなくて大変ですよねでも頑張っていくつもりですみたいなことお前に言うつもりはまったくねえ
しかし、哲学なんて、何なんだね?
そんなこと、おそらく何度も自問した
つまり、彼は明らかにかつて自分のなかに存在していた
自分のなかに存在したダークサイドです
恐れ、怒りはダークサイドへと導く、ジェダイは恐れない
学ぶことを。
lundi, novembre 07, 2005
investigations#74
#74また最初に戻ってきた。ここまで「見る」「考える」「として見る」をブレインストーミングするため、みんなにどーなってんの?を考えさせるため詳細に進めてきた。ここからまた始まる。
「見る」:反省の欠如(意識の焦点化の欠如、疑いのない態度)
「考える」:(自分の意識の焦点に持ってくる。反省)
おそらく。「として見る」は「考えるの始まり」だ!!!!!!
#78アスペクト変わったあと、その後その見方が持続する時、その時、「見てる」のか「として見る」なのか。こんなこというために、ずっと論じてきてる。
(詳細な、観察により、概念を分類していく、こまかくどんな場合は?とかをみていく。
アリストテレス霊魂論と意図的ではないはずだが酷似)
アスペクト:見え方みたいもん#25らへんをみるとわかる
例えば、それまで、まったくアヒルにしか見えてなくて、他にみえかたあるって知らなかったのに、いきなり、「ウサギ!」ってなった時、その浮き上がってきたものを「見てる」「として見る」どっちやねん。
その瞬間は「見てる」のきがするんすよ。そんで、あとはどっちも行き来できるんで「として見る」だとおもうんすよ。
いまんとこ。
「見る」:反省の欠如(意識の焦点化の欠如、疑いのない態度)
「考える」:(自分の意識の焦点に持ってくる。反省)
おそらく。「として見る」は「考えるの始まり」だ!!!!!!
#78アスペクト変わったあと、その後その見方が持続する時、その時、「見てる」のか「として見る」なのか。こんなこというために、ずっと論じてきてる。
(詳細な、観察により、概念を分類していく、こまかくどんな場合は?とかをみていく。
アリストテレス霊魂論と意図的ではないはずだが酷似)
アスペクト:見え方みたいもん#25らへんをみるとわかる
例えば、それまで、まったくアヒルにしか見えてなくて、他にみえかたあるって知らなかったのに、いきなり、「ウサギ!」ってなった時、その浮き上がってきたものを「見てる」「として見る」どっちやねん。
その瞬間は「見てる」のきがするんすよ。そんで、あとはどっちも行き来できるんで「として見る」だとおもうんすよ。
いまんとこ。
investigations#72
#72
“でも、そんなことやって、「見る」「知る」「として見る」の区別とかいって、哲学とかいってがんばってやってっっけど、生理学的に調べればわかんじゃないの?典型的に「見る」と言えるような場合の脳の状態を、fMRIでしらべて、また「知る」の典型的な時に活動してる脳の部分をまたfMRIでみて、ひかくすればいいじゃん。この脳波でてるときは、「見る」で、ここが活発になってる時は、「知る」なんだ、ってわかんじゃん。原因がわかんないなら、科学が進歩すればわかります。哲学でやるいみなくない?”
さりげなく根本に関わる問題、それとなく書いてある。
彼はいみあるといっている。その理由は
“でも、そんなことやって、「見る」「知る」「として見る」の区別とかいって、哲学とかいってがんばってやってっっけど、生理学的に調べればわかんじゃないの?典型的に「見る」と言えるような場合の脳の状態を、fMRIでしらべて、また「知る」の典型的な時に活動してる脳の部分をまたfMRIでみて、ひかくすればいいじゃん。この脳波でてるときは、「見る」で、ここが活発になってる時は、「知る」なんだ、ってわかんじゃん。原因がわかんないなら、科学が進歩すればわかります。哲学でやるいみなくない?”
さりげなく根本に関わる問題、それとなく書いてある。
彼はいみあるといっている。その理由は
investigation#68
#68階段を、突き抜けてる一本の線、の絵。ああ、これは階段の中を線がとおってて、中を通ってる部分は見えてないけど、階段は段になってるから、所々、みえてんのね。
そうわかって、いるのに、わかってんのに、そう見ることができない人。他には、これは、平面にかいてあるけど、ああそうだ、見方によっては浮き上がって見える絵だ。とわかってんのに、そう見ることができない人。この人は、できる人と結果として何が異なってくるんだろう?
行動。(例えば、その図をつかって立体幾何学の論証をさせた時、その図をそう見れてない人は、途中から論証についていけなくなる、ということがおきるかもしれない)
その人が、そう見えてるかって、ほんとは分かんないのだけど、外から見たときの基準:適切にふるまってるか。それが認定基準になってますね。
#69「…を見る」「…として見る」「…を知る」の区別がここらへんからなされてくる。
矢が首を貫通しているように見える鳥の絵。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか
矢が首を貫通しているように見える鳥のシルエット。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか
基準は、リアリティだと理解する。リアルな時、それを見てる。リアルじゃなくなるに従い、それは、知るになる。
そうわかって、いるのに、わかってんのに、そう見ることができない人。他には、これは、平面にかいてあるけど、ああそうだ、見方によっては浮き上がって見える絵だ。とわかってんのに、そう見ることができない人。この人は、できる人と結果として何が異なってくるんだろう?
行動。(例えば、その図をつかって立体幾何学の論証をさせた時、その図をそう見れてない人は、途中から論証についていけなくなる、ということがおきるかもしれない)
その人が、そう見えてるかって、ほんとは分かんないのだけど、外から見たときの基準:適切にふるまってるか。それが認定基準になってますね。
#69「…を見る」「…として見る」「…を知る」の区別がここらへんからなされてくる。
矢が首を貫通しているように見える鳥の絵。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか
矢が首を貫通しているように見える鳥のシルエット。そのとき、矢が突き抜けた鳥を見ているのか・おそらく矢が突き抜けてんだろうな、ということを知るのか
基準は、リアリティだと理解する。リアルな時、それを見てる。リアルじゃなくなるに従い、それは、知るになる。
tractatus.10
『論理形式について』『哲学的考察』をもとにした考察
数:「きっかり」=「他はならなかった」:複合的っていうからには、…はならなかった、…はならなかった、…はならなかった…と無限に続く分析をするのかよ。というか、…は存在していない対象だから、名はつかないよ。だから「他はならなかった」という句は成立し得ない。
・ある要素命題から、他の要素命題が帰結することはない。(帰結するときは、要素命題ではない)
・命題相互の論理的関係は、論理語の働きによるもの。論理語を持たない要素命題が論理的関係にたつことはあり得ない。
・ある要素命題の真偽は、他の要素命題の真偽に対して、論理的に何の影響も与えない。
そんなことないよ。論理語持たなくてもね。「これは青い」は「これは青くない」を含意する。
このような、論理語の働きによらない論理的関係を彼は、後に「文法」と呼びます。
(上のヤツは、『論考』に存在するドグマだといえる)
でも別にそれだけで、それは、『論考』を崩壊させはしない。(論理空間のありかた、無内容な表現が、増える、まあそれだけよ。)
要素命題の考え方、保持。論理語に関する考え方、保持。世界のあり方を記述した命題が像という性格を持つという考え方、保持。
です。
tractatus.09
なぜ単純な対象が必要か
論理空間は、確定していなければならない。そのために、単純な対象が要請される。
論理空間は確定しているとL・Wは考えていた。そこから、論理空間を確定するための、単純な対象があるのでなければならない、ということが導かれてくる。
単純な対象を把握した上で、
4.116 およそ考えられることはすべて、明晰に考えられうる
(論理空間は確定していて、その論理空間を私たちは捉えることができる。そしてさらにその外にあるものを、内側から限界づけることにより、示すことができる)
と述べているのではない。逆aruyo。
こうできるのでなくてはならないはずで、だからこそ単純な対象を必要としている。
論理空間は、確定していなければならない。そのために、単純な対象が要請される。
論理空間は確定しているとL・Wは考えていた。そこから、論理空間を確定するための、単純な対象があるのでなければならない、ということが導かれてくる。
単純な対象を把握した上で、
4.116 およそ考えられることはすべて、明晰に考えられうる
(論理空間は確定していて、その論理空間を私たちは捉えることができる。そしてさらにその外にあるものを、内側から限界づけることにより、示すことができる)
と述べているのではない。逆aruyo。
こうできるのでなくてはならないはずで、だからこそ単純な対象を必要としている。
tractatus.08
複合命題の、複合的な指示対象が存在しない時、その命題は、偽になる。
「「N夫妻は動物園に行く」という命題は「花子は動物園に行く、かつ、太郎は動物園に行く、かつ、花子と太郎は夫婦である」のように分析される、もし結婚していなかったら、「花子と太郎は夫婦である」の部分が偽であるため、「N夫妻は動物園に行く」は偽である」
「aはf」という要素命題を考えよう。「a」「はf」も名である。その指示対象は単純。そのaがいないとき、無意味になる。偽ではない。これは、大切だ。
「というのも、「aはf」は要素命題であるから、その名がいかなる対象をも表さないということになれば、それは単純に像として成立していないものとなり、像でないものに対しては、真とはいえないのはもちろん、もはや偽とはいえない」
ここに、単純なのものと複合的なものの決定的ちがい。名は対象を表す、だからその指示が空振りし、名指されるべき対象が存在しないということになったら、それはもう名ではない。
それゆえ、名ではないものを含んだ表現は、無意味となる。
(ちょっと変に思うのは、性質語で単純といわれている「白い」とかが名ではないときってあるのか)
(でもだいたいはそうなってないよね。何も指示してないような語が入ってる文が無意味だとすぐいえないってラッセルも気づいてた通りだ)
他方、複合的なものを表す表現は、名ではなく、その構成要素に関する記述に他ならない。記述された複合物が存在しないとしても、その記述が偽であったとして捉えられる。(ラッセルの分析に近い)
「「N夫妻は動物園に行く」という命題は「花子は動物園に行く、かつ、太郎は動物園に行く、かつ、花子と太郎は夫婦である」のように分析される、もし結婚していなかったら、「花子と太郎は夫婦である」の部分が偽であるため、「N夫妻は動物園に行く」は偽である」
「aはf」という要素命題を考えよう。「a」「はf」も名である。その指示対象は単純。そのaがいないとき、無意味になる。偽ではない。これは、大切だ。
「というのも、「aはf」は要素命題であるから、その名がいかなる対象をも表さないということになれば、それは単純に像として成立していないものとなり、像でないものに対しては、真とはいえないのはもちろん、もはや偽とはいえない」
ここに、単純なのものと複合的なものの決定的ちがい。名は対象を表す、だからその指示が空振りし、名指されるべき対象が存在しないということになったら、それはもう名ではない。
それゆえ、名ではないものを含んだ表現は、無意味となる。
(ちょっと変に思うのは、性質語で単純といわれている「白い」とかが名ではないときってあるのか)
(でもだいたいはそうなってないよね。何も指示してないような語が入ってる文が無意味だとすぐいえないってラッセルも気づいてた通りだ)
他方、複合的なものを表す表現は、名ではなく、その構成要素に関する記述に他ならない。記述された複合物が存在しないとしても、その記述が偽であったとして捉えられる。(ラッセルの分析に近い)
mardi, octobre 25, 2005
sans titre
‘言語によってしか考えることができない’
(その人たちが言うような意味では)
そうともおもえません。
(たとえば部屋の模様がえを具体的に頭の中でかんがえている時)
(模様がえを、家具に見立てて四角にきった小さい紙切れを並び替えながらかんがえているとき)
(模様がえを、家具を縮小したプラモデルを作って並べ替えながらかんがえているとき)
そして譲歩してそうだった場合には
そこからどういったことを導けるのか、
を聞きたいです。
じぶんにとっては、別にふーンて感じです。
すごいこととは思わないです。
(その人たちが言うような意味では)
そうともおもえません。
(たとえば部屋の模様がえを具体的に頭の中でかんがえている時)
(模様がえを、家具に見立てて四角にきった小さい紙切れを並び替えながらかんがえているとき)
(模様がえを、家具を縮小したプラモデルを作って並べ替えながらかんがえているとき)
そして譲歩してそうだった場合には
そこからどういったことを導けるのか、
を聞きたいです。
じぶんにとっては、別にふーンて感じです。
すごいこととは思わないです。
jeudi, octobre 20, 2005
tractatus.05
フレーゲの関数は、実質を持ってる。
だから、関数それ自身も対象として、また関数に入力できた。
しかし、『論考』:関数は言語のあり方を整理するための便法。
実質なし。入力項としての名と、出力項としての命題、それだけ。
関数をノミナルに考えてる。
フレーゲ:固有名は飽和した表現。他の何かによって補完される必要ない。
L・Wはある。固有名も、述語によって、補完されないといけない。
定義域が異なる関数を、もはやおなじ関数とは捉えない。
それは、定義域というのが、関数の意味と本質的に結びついているからである。
定義域と、値域は、その関数の論理形式を示すものだろう。
ということは、定義域が異なれば、関数の論理形式はもはやかわっている。と考える。
だから、別の関数なのである。
「命題関数が、定義域と独立に決まっていると考えるならば、トマトに“トマちゃん”という名前を付けたとして、「トマちゃんは神経質だ」偽になる「トマちゃんは神経質ではない」は真である」しかし、L・Wなら、「トマちゃんは神経質だ」は無意味だし、「トマちゃんは神経質でない」も真ではなく、無意味だ。と言うだろう。「トマト」の論理形式のなかに、「トマトーX」の定義域のなかに入ってないのだ、「神経質」は。
xは神経質である、という関数の定義域は、
人間とか、それっぽいやつ。普通は。
その定義域に、トマトが入ったとすると、
もうそれは、違う関数だと、かれは考える。
(規則が変わったのかな?だから、意味も変化していて。
トマトに、神経質だとか、そうではないとか
述べることができる世界においては、
「神経質」の意味が既に変化している…のかな)
tractatus.04
3 different understandings on the function- "wittgenstein, Frege, Russel"
a function: X is white
frege: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a true/false value.
russel: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a propsition. and this proposition is "the meaning of that expression". だから関数は、命題内容、対象において働く。
wittgenstein: proposition is just an expression. 関数は論理形式解明のための道具。domain is not references but names. range is not a true/ false value, but a proposition, which is just an expression.
a function: X is white
frege: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a true/false value.
russel: it is a referent that is input into that function, and the function outputs a propsition. and this proposition is "the meaning of that expression". だから関数は、命題内容、対象において働く。
wittgenstein: proposition is just an expression. 関数は論理形式解明のための道具。domain is not references but names. range is not a true/ false value, but a proposition, which is just an expression.
tractatus.03
ある概念が自分自身に述語づけられる例
「漠然」は漠然としている
「猫」という概念は猫ではない(そうじゃない例)
W(x)を「xは自分自身に述語づけられない」という関数だとする
「漠然」は漠然としている、というのは、
漠然(漠然):Xは漠然としている、という関数に、
漠然という項を代入したものと考えられる
だから、xは自分自身に述語づけられるというのは、
X(x)と書ける。
だから、W(x)=¬X(x)とかける!
Xは変項だ、からWを代入しよう
W(w)=¬W(w)
よって、矛盾する
オーケー、ラッセルのパラドクス、
オーケー!
mercredi, octobre 19, 2005
tractatus.02
論理空間をとらえるため、思考の限界へといくため、対象を言語で写し取り可能的結合を作るため、、対象というのを、捉えないといけないんですが、それには、対象の論理形式、つまり名の論理形式を捉えないといけないです。論理形式は、対象の、持ちうる性質を理解するといったいみで、捉えていないと、いけない(ほんとは、なぜとらえないといけないか、わかってません)。しかし、名の論理形式だけでは十分でなく、「この」という名指しが、個別、区別をし、名が論理形式を示唆する。このようにして、対象を切り出せる。しかしながら、そもそも論理形式はどうやってとらえんの?というと、そら、なじむことです。説明されるべき論理形式は全体に広がり、巡り巡って循環する。一つずつ説明することは不可能です。巻き込まれることでしか、解明されない。です。
jeudi, octobre 13, 2005
tractatus.01
note
「成立していない事態の場合、それはただ代理物の配列によって表現されているにすぎない。可能的なものがどこか人目につかずあっちの方に鎮座しているかのうような気分は払拭していただきたい。成立していない事態というのは、現実の代理物によって表現される以外、生存場所を持ちえないのである」
2.01 事態とは諸対象の結合である。
事態とは、対象という世界の中にあるもの(じっさいにある。事実)の代替物(像としての言語)を、実際に、結合させることである。それによって、可能な結合の全て、「論理空間」を考えることができる。
「論理空間とは、可能な事態の全て、世界のあり方の可能性として我々が考えられる限りの全てである」
ということは、論理空間の限界を確定すれば、思考の限界を確定したことになります。
論理空間を考えるには、それが、可能性というのを含んでいるから、可能性について考えられないといけないんだけど、この世界には、成立していることしかなくて、成立してないことってのは、この世界には文字通り「ない」のだ。だから可能性を考えるためには、現実の対象を言語で写し取って、それを並べ替えて、可能的結合(いろんな文、つまり考え)を作って、全部を考えてみないといけないのである。
論理形式:「ある対象の論理形式とは、その対象がどのような事態のうちにあらわれうるか、その論理的可能性の形式のことである。例えばある対象aが赤い色をしていたとしよう。対象aにとって赤という色は外的性質であり、他の色を持つこともありえた。つまり〈aは青い〉、〈aは黄色い〉等の事態も可能である。このことを「対象aは色という論理形式を持つ」と言う」
「成立していない事態の場合、それはただ代理物の配列によって表現されているにすぎない。可能的なものがどこか人目につかずあっちの方に鎮座しているかのうような気分は払拭していただきたい。成立していない事態というのは、現実の代理物によって表現される以外、生存場所を持ちえないのである」
2.01 事態とは諸対象の結合である。
事態とは、対象という世界の中にあるもの(じっさいにある。事実)の代替物(像としての言語)を、実際に、結合させることである。それによって、可能な結合の全て、「論理空間」を考えることができる。
「論理空間とは、可能な事態の全て、世界のあり方の可能性として我々が考えられる限りの全てである」
ということは、論理空間の限界を確定すれば、思考の限界を確定したことになります。
論理空間を考えるには、それが、可能性というのを含んでいるから、可能性について考えられないといけないんだけど、この世界には、成立していることしかなくて、成立してないことってのは、この世界には文字通り「ない」のだ。だから可能性を考えるためには、現実の対象を言語で写し取って、それを並べ替えて、可能的結合(いろんな文、つまり考え)を作って、全部を考えてみないといけないのである。
論理形式:「ある対象の論理形式とは、その対象がどのような事態のうちにあらわれうるか、その論理的可能性の形式のことである。例えばある対象aが赤い色をしていたとしよう。対象aにとって赤という色は外的性質であり、他の色を持つこともありえた。つまり〈aは青い〉、〈aは黄色い〉等の事態も可能である。このことを「対象aは色という論理形式を持つ」と言う」
jeudi, octobre 06, 2005
generative grammar
…“科学では、事実を説明するための法則は、一般的、単純であると考える。
法則は、その適用範囲が一般的(いろんなことを説明できる)、
形式が単純(エレガント)であるほど、価値が高いとされる。
ただし、一般的であることに価値を置くのはどの科学にも当てはまるが、
単純さに価値を置くのは、
物理を中心にする非有機体をあつかう科学だけではないだろうか。
物理を中心とする近代科学の基本は、「自然は無駄がなく単純でエレガントに作られている」。
ところが生物学では、そうは考えない。生物の世界は、偶然や試行錯誤の結果現在に至った。
そのため単純でもエレガントでもありえない。
複雑な生物学的システムというのは、一般に「不完全」
たとえば利根川進の発言
「ネイチャーというのはロジカルではない、特に生命現象はロジカルでない」”って…
引用。
すべて疑問形にして書く。
生物の世界は単純でエレガントな形式から
なりたっているのではないのですか?
物理(近代科学)では、
「自然は無駄がなく、単純でエレガントに作られている」
とかんがえますが、
生物学ではそう考えないのですか?
生物学的システムは、基本的には、無駄なものとかいらなそうなものを、
いろいろ含んでるんですか?
物理の対象である非有機体の世界が、
無駄なく単純でエレガントに作られているのはなぜだ?
ホントカイー???
investigations#63
メモ的に
#62
共通の刺激という考え方がうまくいかないと。
もう「空間的に見てるときは空間的にみえてて、平面のときは、平面に見えるんだよ」
といいたくなる。
しかしそれは、説明にはなってない。
…視覚印象の分析をすれば、どういうときに、どのようにみえてるかということに答えられるような、説明を考えだせる。と思ったけど、結局できてない。
視覚印象の分析では。
では、L・Wは結局わかんねーじゃんということがいいたかったのか??
そうではなく#61何に見えてるのか、ということの答えは、その人の記述で、それが最後ということ。
その人がどう見てて、どう見てるとこたえるか、それが、なににみえてるかの回答になる。
しかし、それは、もともとの出発点に逆戻りした。
「なににみえます?」「魚」その時、その人は、「魚」と記述する限りにおいて、魚に見てる…。
というかんじ。
これじゃ最初の出発点にまた戻ってきてしまった。
けど出発点、じっさいのありようが、もっとも根本的ていいたい
彼。
#62
共通の刺激という考え方がうまくいかないと。
もう「空間的に見てるときは空間的にみえてて、平面のときは、平面に見えるんだよ」
といいたくなる。
しかしそれは、説明にはなってない。
…視覚印象の分析をすれば、どういうときに、どのようにみえてるかということに答えられるような、説明を考えだせる。と思ったけど、結局できてない。
視覚印象の分析では。
では、L・Wは結局わかんねーじゃんということがいいたかったのか??
そうではなく#61何に見えてるのか、ということの答えは、その人の記述で、それが最後ということ。
その人がどう見てて、どう見てるとこたえるか、それが、なににみえてるかの回答になる。
しかし、それは、もともとの出発点に逆戻りした。
「なににみえます?」「魚」その時、その人は、「魚」と記述する限りにおいて、魚に見てる…。
というかんじ。
これじゃ最初の出発点にまた戻ってきてしまった。
けど出発点、じっさいのありようが、もっとも根本的ていいたい
彼。
jeudi, septembre 29, 2005
sans titre
holismという主張について、
引っかかったところが解決した。
ある命題を捨て去って、体系を保とうとするとき
確かにどれかを選ぶけど、
ひとつを選ぶけど、その選択肢は、たくさんある。
もし、テレビの映らないときに、
あれなんでだろう?
そして、
“自分の目が正常である”
という命題を破棄したとして、
医者にいって、目を治してもらって、
うちに帰ってきたら、テレビがよく見えたとする。
そのときに、じゃあ自分の目のせいだったんだ、
というふうに納得して、もいいが、
実は、その医者はやぶ医者で、自分の目など治していなかったが、
医者のいうことだから信じてしまっていて、
実は、停電していただけだった、と考え直すこともできる、
このように、どこまでも、「でもそれが原因なんじゃん」と
いいきれずに、続いていく。この特定の、命題が、絶対に間違っているとは、
いいきれない。間違ってないかもしんない。
もしくは、間違ってるととして捨てさることができるものが、ほかにもある。
で、いいんだろうか…?自信ネース。
その中で、これを捨てたら、うまくいきそう、
なものを、捨てる。たとえば、これを捨てたら、ほかの信念についても
いろいろと考え直さないといけないようなやつは、
なるべく捨てない。
なるべく、ダメージがすくないものを選択しようとする、
という努力はある。
引っかかったところが解決した。
ある命題を捨て去って、体系を保とうとするとき
確かにどれかを選ぶけど、
ひとつを選ぶけど、その選択肢は、たくさんある。
もし、テレビの映らないときに、
あれなんでだろう?
そして、
“自分の目が正常である”
という命題を破棄したとして、
医者にいって、目を治してもらって、
うちに帰ってきたら、テレビがよく見えたとする。
そのときに、じゃあ自分の目のせいだったんだ、
というふうに納得して、もいいが、
実は、その医者はやぶ医者で、自分の目など治していなかったが、
医者のいうことだから信じてしまっていて、
実は、停電していただけだった、と考え直すこともできる、
このように、どこまでも、「でもそれが原因なんじゃん」と
いいきれずに、続いていく。この特定の、命題が、絶対に間違っているとは、
いいきれない。間違ってないかもしんない。
もしくは、間違ってるととして捨てさることができるものが、ほかにもある。
で、いいんだろうか…?自信ネース。
その中で、これを捨てたら、うまくいきそう、
なものを、捨てる。たとえば、これを捨てたら、ほかの信念についても
いろいろと考え直さないといけないようなやつは、
なるべく捨てない。
なるべく、ダメージがすくないものを選択しようとする、
という努力はある。
mardi, septembre 27, 2005
part2 #60
ある画像が浮いているように見える時と、おいてあるように見える時とで、何か明確な違いがあるとすれば、それは、記述の仕方ぐらいで、また、解釈の観点から何か説明しようと試みても、同語反復にしかならない。ということが言いたいのか…??
jeudi, septembre 22, 2005
untitled
fontが明朝体だったので、
気に入ってこのやつにかえてみました。パクリです。
ちなみにとくにすきなのは、「osaka・等幅」というやつです。
いいです。
ほかにもyakitori,shotaro?,pico,airlineなど、
いろいろ手にいれました、thx.
macにしてから、ネットて見てる画面の字も
簡単にかえられるようになったので、いろいろやってみてます。
osakaはできるけど、でもアルファベットの文字を「osaka等幅」
にできない。ので明朝体。明朝体もヒラギノと平成明朝てのがあって、
たぶん筑波大のロゴwebとかの上にでてるやつ、は平成明朝、
とおもう。
気に入ってこのやつにかえてみました。パクリです。
ちなみにとくにすきなのは、「osaka・等幅」というやつです。
いいです。
ほかにもyakitori,shotaro?,pico,airlineなど、
いろいろ手にいれました、thx.
macにしてから、ネットて見てる画面の字も
簡単にかえられるようになったので、いろいろやってみてます。
osakaはできるけど、でもアルファベットの文字を「osaka等幅」
にできない。ので明朝体。明朝体もヒラギノと平成明朝てのがあって、
たぶん筑波大のロゴwebとかの上にでてるやつ、は平成明朝、
とおもう。
mercredi, septembre 21, 2005
sono3
#55じゃあ、「この三角形がなんかを表しているような、そんな絵を描いてみよ、その絵が表しているものが、…として見えているものである」
これはつまり、この図形のアスペクトを一つに固定してみよう、ということであると思います。
アスペクトはいろいろあるけど、ある背景を持った絵の中に放り込むと、
あるアスペクトしか生じなくなるということ。
たとえば、草原や、太陽を描くと、山にしか見えなくなります。
aspect te nani?
(これが#54までの批判に対する新たな説明になっているのかは、理解できていない)
#55までは「見る」といってて、急に「描く」ということが問題になったのはどうしてだろう。
それは「見る」という行為と、「描く」という行為が逆関数なっているからです。
「見る」という行為:ある図を言語に変換すること
「描く」という行為:言語を図に変換すること
(三角形の図をxとおき、見え方をy1:立っている山、y2:倒れている塔、y3:フックにかかっているワイヤー…とすると、「この図xのみえかた(意味)はyである」という関数:「の意味(x)=y」ができる。
この関数の逆関数をとると、「この言語表現yは図xである」という関数:「の絵(y)=x」になる)
この三角形は何を表しているか、という問いは、この図形がある絵の中におかれたら(これはアスペクトを意図的に一つに固定する行為)、何に見えるか?のすべてのバリエーションを考えること。
しかし、以下の問いは残ったままになる。
「じゃあ、ある図形がある絵の中に持ち込まれたとき、なぜ・どのようにして、何かに見えるのか」
「そもそも、私たちは視覚からどうして意味を読み取るのか」
iya somo somo
「なぜ、絵画は絵画として見えるのか、単なる色の分布にすぎないのに」
これはつまり、この図形のアスペクトを一つに固定してみよう、ということであると思います。
アスペクトはいろいろあるけど、ある背景を持った絵の中に放り込むと、
あるアスペクトしか生じなくなるということ。
たとえば、草原や、太陽を描くと、山にしか見えなくなります。
aspect te nani?
(これが#54までの批判に対する新たな説明になっているのかは、理解できていない)
#55までは「見る」といってて、急に「描く」ということが問題になったのはどうしてだろう。
それは「見る」という行為と、「描く」という行為が逆関数なっているからです。
「見る」という行為:ある図を言語に変換すること
「描く」という行為:言語を図に変換すること
(三角形の図をxとおき、見え方をy1:立っている山、y2:倒れている塔、y3:フックにかかっているワイヤー…とすると、「この図xのみえかた(意味)はyである」という関数:「の意味(x)=y」ができる。
この関数の逆関数をとると、「この言語表現yは図xである」という関数:「の絵(y)=x」になる)
この三角形は何を表しているか、という問いは、この図形がある絵の中におかれたら(これはアスペクトを意図的に一つに固定する行為)、何に見えるか?のすべてのバリエーションを考えること。
しかし、以下の問いは残ったままになる。
「じゃあ、ある図形がある絵の中に持ち込まれたとき、なぜ・どのようにして、何かに見えるのか」
「そもそも、私たちは視覚からどうして意味を読み取るのか」
iya somo somo
「なぜ、絵画は絵画として見えるのか、単なる色の分布にすぎないのに」
sono2
しかし、この説明で、「上にフックがあると解釈する」ということと、
「ぶらさがっていると見る」ということの間に何の違いがあるのでしょうか。
「フックがあると解釈する」ということはつまり「何かにぶら下がっているワイヤーのようなものと解釈する」ことと同じです。
つまり、「この図形を何かにぶら下がっているのもとして解釈するときには、何かにぶら下がっているものとして見える」と言っているのと同じことです。
つまり、ぶら下がって見えるということを説明するのために、
ぶら下がっているという言葉をすでにつかってしまっていて、結局何の説明にもなっていません。
「解釈」というのを使った説明が、うまくいかないとなると、
「じゃあ、共通のものを見てるのに、違って見えるというのは何故なんだ!」ということになります。
「共通の刺激という事実/違ったものに見えるという事実」がうまく説明できないので。二つの事実があるのに、どうして説明できない…?
ここでこの人たちが前提としているのは「一方に共通の刺激が、それに二次的な解釈が」という考え方です。
L・Wはそれらを前提とする考え方を繰り返し批判しています。workしないということは、前提が誤っている。
「ぶらさがっていると見る」ということの間に何の違いがあるのでしょうか。
「フックがあると解釈する」ということはつまり「何かにぶら下がっているワイヤーのようなものと解釈する」ことと同じです。
つまり、「この図形を何かにぶら下がっているのもとして解釈するときには、何かにぶら下がっているものとして見える」と言っているのと同じことです。
つまり、ぶら下がって見えるということを説明するのために、
ぶら下がっているという言葉をすでにつかってしまっていて、結局何の説明にもなっていません。
「解釈」というのを使った説明が、うまくいかないとなると、
「じゃあ、共通のものを見てるのに、違って見えるというのは何故なんだ!」ということになります。
「共通の刺激という事実/違ったものに見えるという事実」がうまく説明できないので。二つの事実があるのに、どうして説明できない…?
ここでこの人たちが前提としているのは「一方に共通の刺激が、それに二次的な解釈が」という考え方です。
L・Wはそれらを前提とする考え方を繰り返し批判しています。workしないということは、前提が誤っている。
『探究』Ⅱについてのノート
二等辺三角形が、等しい長さの一辺を下にして、描かれている。
この図形を見たときに、「何に見えますか」と聞かれたとします。
そのとき人によって、山・くさび・ぶら下がっているもの・
短い一辺を下にして立っているはずだった図形が転倒している…のように、
様々な別のものとして見ることができると思います。
ここまではいいと思います。
見ようと思えば、いろんなものに見えてくると思います。
それはなぜか。なぜこの三角形が、様々なものに見えるんだろうか。
それに対するひとつの説明は、「ある人は頂点の部分にフックがあると考える、そのように解釈すれば、そのときにはそれにぶら下がっているように見ることができるし、またある人は下に草原を、上に太陽を想定するという解釈を加えている、そのような時には、山と見る事ができるのだ」というものです。
このような説明の仕方をとろうとする人たちは、
「各人の目に入ってくる視覚情報(センスデータ)は同じだが、
そこに施す解釈が違うので、違って見える」という考え方をしています。
共通の刺激・そこに施す解釈、です。
この図形を見たときに、「何に見えますか」と聞かれたとします。
そのとき人によって、山・くさび・ぶら下がっているもの・
短い一辺を下にして立っているはずだった図形が転倒している…のように、
様々な別のものとして見ることができると思います。
ここまではいいと思います。
見ようと思えば、いろんなものに見えてくると思います。
それはなぜか。なぜこの三角形が、様々なものに見えるんだろうか。
それに対するひとつの説明は、「ある人は頂点の部分にフックがあると考える、そのように解釈すれば、そのときにはそれにぶら下がっているように見ることができるし、またある人は下に草原を、上に太陽を想定するという解釈を加えている、そのような時には、山と見る事ができるのだ」というものです。
このような説明の仕方をとろうとする人たちは、
「各人の目に入ってくる視覚情報(センスデータ)は同じだが、
そこに施す解釈が違うので、違って見える」という考え方をしています。
共通の刺激・そこに施す解釈、です。
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